第17話 貞一郎との再会

 それから数日たったある夜のこと、まだ早春の冷え込みが身に染みるころ、千住の家の庭でワンワンワンと次郎と三郎の吼える声がする。

 続いて砂場の真ん中に打った鎖がピーンと突っ張って金具がガチャガチャ鳴っている音がした。犬たちが不審な者の侵入に気づいて飛びかかろうとしている様子だ。

何だろうと思って耳を澄ますと、呼び鈴が鳴った。

 家族も友人も来ておらず、俺一人だった。こんな深夜に一体誰だ?

 俺は玄関の外に向かって誰かと尋ねたが、返事がねえ。家族や親しい人間じゃなさそうだ。外に立っている人間の気配を感じた。ピリリと張り詰めた、やくざもんや殺し屋が放つ雰囲気だ。それでピンとくるものがあった。

 次郎の吼え声はなおも続いている。

「高橋貞一郎、お前か?」

 玄関の外で動きが感じられた。相手が動揺し、大きく呼吸する気配が伝わってきた。

 美千代から聞いて尋ねてきたのだろうが、俺と戦う気か、それとも俺を頼ってきたのか。

 勿論、相手が俺を殺すつもりなら、返り討ちにしてやろうと十分な心づもりをしていた。戦うことについちゃ、人後に落ちねえ俺だ。伊達に予科練から特攻を目指し、ラバウル戦線を生き抜き、ボクサーや護衛をやってきたわけじゃねえ。

 俺はそのころから趣味として日本刀を買って集めていたが、玄関脇には居合刀も置いてあったし、野球のバットも数本あった。

 俺は居合刀を手に取り、鎖の錠をかけたまま、玄関の戸を開けた。三和土の暗闇の中に、吠えながら飛びかかろうとしている次郎を避けるようにして貞一郎が立っていた。

「高橋貞一郎だな」

すると「ああ」と返事があった。ズボンのポケットに両手を突っ込んでいる。

 ポケットは小さく、ハジキを持っているようには見えない。見回したが、他には誰もいない。他にいたら次郎が吠え掛かるだろう。仲間を連れて襲撃に来たわけではなさそうだし、美千代が連れてきたわけでもなさそうだ。

 油断はできねえが、こいつについては俺だって随分心配してやったつもりだ。話をする気があるなら聞いてやろうと思い、錠を外してがらりと玄関の戸を開けた。次郎をよしよしと頭と顎を撫でて落ち着かせ、「入れよ」と貞一郎に勧めた。

 貞一郎は玄関に入って戸を閉めると、不貞腐れたような顔で俺を見ながら、どこかびくびくと家の中を窺う表情をしている。

「母親に俺を訪ねろって諭されたのか」

 貞一郎は黙って頷いた。

 俺は「誰もいねえ。上がれよ」と声をかけ、居間のソファに座らせた。

 貞一郎はどっかと座ると、いきなり自分の顔を覆ったので、俺は少し度肝を抜かれた。そのまま顔を覆い、肩を震わせている。泣いているのか。自分の心の中を整理できていない様子だ。自分の惨めな人生に絶望しているのだろうか。

 俺はしばらく黙って様子を伺っていたが、貞一郎は漸く顔を覆う手をのけた。

 玄関先での様子とは違い、俺を睨んでる。やっぱりこいつは俺を殺すつもりで来たのだ。だからこそ、あれほどの殺気を発していたのだ。

 貞一郎は口を開いた。

「あんた、俺の母親を随分な目に遭わせてくれたらしいじゃねえか。俺は手前にボクサーとしての将来を奪われた上、手前自身は代議士の護衛かなんかに乗り換えやがって、その上、人の母親までなぶりものにするってえのは、一体全体どういう心がけだ」

 俺は根が人がいいし、正直なところ、奴の気に呑まれかかっていた。

 俺は内心、奴を家に入れたことを後悔していたが、もう後には引けない。奴が憤怒の形相をしているので、答えを躊躇っているわけにも行かなかった。

「おめえの母親には悪いことをしたと思ってるよ。償いてえと思ってる。だがおめえ自身はテロリストになって公衆を恐怖に陥れ、俺だって半殺しの目に遭わせただろう」

「俺のことじゃねえ。お袋の扱いについてどう思ってるんだってきいてるのさ」

「そりゃあ見当違いだ。お前がすべての根源じゃねえかい。俺はお前をなんとか真っ当な道に戻してやりたいと思って、自分の住所を美千代さんに教えたんだ。それを家に乗り込んで担架切るんじゃ道理に合わなくねえか」

「真っ当な道か。ありがたくて涙が出るぜ。どうひっくり返ったらそんな道に戻れるよ」

「お勤めするのさ。警察に出頭しろよ」

 貞一郎はいきなり俺の胸倉を掴むと、ソファに圧しつけやがった。だがこちとら海軍仕込みの特攻上がりだ。てめえとは覚悟が違わあ。

 俺は奴との間に足を追って入れると、巴投げの要領でソファのテーブル越しに奴を放り投げた。貞一郎はかなわないと思ったか、胡座り込んだ座り込み、俺に訴えた。

「俺はお袋に迷惑かけねえように、滅多なことじゃ訪ねて行かねえんだが、昨日はなぜか虫の知らせであまり無沙汰にしねえほうがいいって思ったんだ。それで久方ぶりに松喜楼を覗いたら、お袋があんたのことを教えてくれたんだよ」

 貞一郎は肩で荒い息をしている。

「あんたは俺のボクシング人生を終わらせた男だし、この前は逆に俺があんたを病院送りにしちまった。そんなことで、仇同士みてえな間柄だけれど、あんたしか頼る人間がいねえんだ。しばらく身を隠してえんで、匿ってくれねえか」

 俺は貞一郎の様子に、少しの間どうしようかと迷ったが、元はと言えば俺が美千代を通して誘った話だ。やっぱりお断りだとも言えない。

「おめえを匿ったら、俺も共犯だ。だがおめえとはいろいろあって、他人事とは思えねえ。そのかわり、おとなしくしているんだぞ」

 貞一郎はしおらしく頷いた。

 俺は貞一郎の縄をほどき、家の中へ入れると、再び居間のソファで向かい合った。

 貞一郎の態度からは不穏な気配は完全に消えていた。

「恵美は悪かったよ。俺の本心じゃねえんだ。お袋は俺を愛しているが、あんな苦界で生きている女だし、どんな目に遭っても仕方ねえ。ただ、息子に続いて、自分自身まであんたに泣かされっぱなしじゃ、あんまり可哀想でさ」

「それは償うつもりだ。誓って言う。亡くなったおめえの親父さんとも、おめえの面倒を見てやるって約束したんだ。美千代さんのことだって、できるだけの償いはするさ」

 そこで俺は話題を変え、早速、この前の襲撃事件について尋ねた。

「今のところ、警察の捜査では荻原みち子を襲った襲撃者たちはやくざの吉岡組の連中の単独犯行とされている。本当にそうか?」

 貞一郎は首を捻った。

「いいや。いくつかの地域の売春業者が協力して組織した刺客団さ。俺も別の特定の組に属してはいねえ。金で雇われる鉄砲玉だよ」

「なるほど。お互い同士知らねえものばかりで集まってるのか。上手いやり方だな。芋づる式の検挙ができねえようになってるわけだ。だが中心になっている組があるだろう」

「俺は上の方のことは知らねえ。誰が黒幕かわからねえんだ。お互いを知らない傭兵集団だから、誰が捕まっても自白で仲間が割れないはずだ。でも噂で俺以外は全員捕まったと聞いたから、俺としちゃあ単身でも身を隠したいんだよ」

 貞一郎は哀願するような目を俺に向けた。

 貞一郎の身の上については、いつも他人事とは思えない。

 美千代との関係もあり、貞一郎は弟のようにも、息子のようにも思えた。俺だって、志願兵として国に貢献していなかったら、もしくは拳闘や格闘の腕前がもう少し立たなかったら貞一郎のような坂を転がるような人生だったかもしれない。

 貞一郎はまだ若い。これからだって更生の人生を歩むことができるはずだ。何とかしてやりたいと思った。

「おめえの罪状は傷害罪、殺人未遂、公職選挙法の演説妨害罪なんてところだ。自首する気があるのか、ないのか」

「難しいこと言うなよ。少し考えさせてくれねえか」

 俺は首を横に振り、貞一郎に自首しろと強要した。自分からそうするつもりがないなら、今すぐ警察に突き出すと。

「どうせ逃げられねえぜ。日本の警察は優秀だからな。いずれ嗅ぎ出されちまうから今のうちに出て行ったほうがいい。俺が警察に連絡して逮捕されるより、自首なら罪は大分軽くなるし、懲役の期間も短くなる」

 貞一郎はしばらく考え込んでいた。

「貞一郎よ、俺はお前のために言ってるんだ。お前にはまだ長い先の人生があるんだよ。逃げ隠れしたって仕方ねえだろう。けじめつけたほうが美千代さんだって喜ぶぞ」

 貞一郎が漸く頭を上げた。納得した様子で頷いている。

「分った。警察に出向こう。一緒に来てくれよ。それなら納得するだろ」

 俺はほっと安堵の息をついた。

「お袋は、あれでもとても前向きな女でね。決して挫けることはない女丈夫だ。でもよくしてやってくれるとありがてえな」

「約束するよ」

 別れ話をした後だし、どうよくしてやれるか現実的には自信がなかったが、今は貞一郎を納得させるためにも世話してやると約束した。

「じゃあ、行くか」

 俺と貞一郎は連れ立って千住警察署に向かった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る