第15話 特攻崩れ

 俺は年が明けた小春日和のある日、松喜楼へ行った。

 荻原みち子の襲撃事件があってひと月入院していたし、その後は佐和子とつき合っていて行ってなかったから、随分久しぶりだった。

 あの襲撃事件以来、貞一郎が捕まったという噂はなかった。俺も逃げ切った襲撃者が貞一郎だということは、誰にも言っていなかった。

 だが美千代の勤める店だから、ひょっとすると貞一郎を捕まえようと刑事たちが張り込んでるかもしれん。

 入り口の前で四方八方見回したが、見張りがいる気配はない。真昼間に行ったせいもあり、人目を忍ぶ気分で静かにドアを開け、後ろ手にドアを閉めて店に入った。

 帳場には誰もおらず、閑散とした雰囲気だ。

 待合室の土間に置いてある椅子に腰かけて、人が出てくるのを待っていたが、誰も出てこない。

 すると帳場の奥の部屋から話し声が聞こえた。

「ねえ、筑紫姐さん、聞いてほしいのよ」

 その声は美千代だった。俺は思わず聞き耳を立てた。

「どうしたのさ」

「筑紫姐さんにもよく話したあの旦那のことなんだけど、この頃御無沙汰なのよ」

「誰だっけね、よく話した旦那って」

「しらばっくれて。意地悪」

 美千代が拗ねた目を筑紫という遣り手婆に向けている様子が目に浮かんだ。

「あんたが福寿楼から来て早々にいろいろ相談に乗ってあげたからね。いちいち覚えてられないさ」

「特攻の旦那よ。私が誰に入れ上げているかなんて、知ってるはずでしょうよ」

 筑紫は大いに驚いたような、おどけた声で答えた。

「特攻の旦那か、そう言えばこの頃来ないねえ。どうしたんだろう。折角この楼一番の芸妓を取り持ってやってるのにね。まめなタイプだと思ってたけれど、御無沙汰なんて、何かあったのかしら」

 すると、美千代と初めて睦んだ時にいた、浅香という芸妓の声がした。

「そういえば猪瀬ボクシングジムのジム長さんから聞いたけれど、二ヵ月くらい前に、浅草で女の代議士の襲撃事件があったじゃない。特攻の旦那って、あの時に代議士を守って大怪我したんだって。どこかの病院に入院しているらしいよ」

 美千代は、えっと大きな声を上げて一瞬絶句した。

「見舞いに行きたいわ。浅香ちゃん、どこの病院か知ってる?」

 返事がないところからみると、浅香は首を横に振ったのだろう。

「どうして来てくれないのかって気が気でなかったけど、そういうことだったのね」

 俺は首を捻った。息子から聞いてやしないのか。それとも鉄砲玉だって言ってた通りで、貞一郎は母親の元になど寄り付かないのだろうか。

 警察は来てない雰囲気だが、そもそも貞一郎の母親の美千代がこの店に勤めているって調べがついてないのか。

「あの旦那はいつかあたしを身請けしてくれるって約束したのよ。それが大怪我なんて」

 すると美千代を宥めながら、筑紫が言った。

「大丈夫さ、あの旦那のこったから、きっと五体満足でぴんしゃんしてるよ。あんな男は悪運が強いから、ちっとやそっとじゃ、やられるこたないさ」

 そりゃそうだ。誰がくたばるか。貞一郎の攻撃なぞ、何度食らったって参る俺じゃねえ。

 だが美千代は心配な口調だった。

「そんなの、分らないわ。再起不能の重傷かもしれないじゃない」

「じゃあ特攻の旦那のお見舞いに行く?」

 浅香が尋ねると、筑紫が制した。

「やめときな。見舞いなんて、あたしらのすることじゃないよ。あたしたちの稼業は、いつも籠の中の鳥なのさ。廓の籠の中でひたすら男を待ち続けるんだ。懸想も嫉妬もならず、いつも客には笑顔で接し、人知れず、秘かに涙を絞る。それが女郎の身上ってものなのよ。それにしてもあの男もよくよく罪作りな奴だね。行くところ行くところ嵐を巻き起こして、必ず泣きを見る人がいるんだよ」

 すると浅香が笑った。

「そんな人間、どこにだっているさ。この界隈だって、そんな奴ばかり、うじゃうじゃしてるじゃないか。あたしなんか、何があったって気にしないで笑い飛ばしてるよ」

「退院したら戻ってきてくれるわ。待つのが唯一できること。あたしだって、いっぱしの女郎だもの。何があっても心の平静を保つ術を身につけたわよ」

 美千代は独り言のように言った。


 俺が静かに店に入ったので気づかなかったのだろうが、横で聞いているのもおかしいので、玄関のドアを開け閉めしてバタンと音をさせた。

 女たちの会話は止み、筑紫が帳場に出てきて目を見張った。「一寸お待ちくださいませ」と言うと、奥の部屋に駆け込んだ。

 すると入れ替わって美千代が出てきた。美千代は強張った表情で帳場に出てきて、俺の顔を確かめると、大きく息を吸い込んだ。俺はまだ顔面の左側の腫れが完全には引いておらず、頬には唇から続く大きな傷がありありと残っていたから、吃驚したろう。

「旦那さん、お久しぶりね。噂をすれば影。どうしたんだろうって姐さんと妹分とお話ししてたのよ。酷い傷ね、どうしたの?」

 美千代は眉を顰めて俺を見つめている。

「いろいろあってな」

 少し間を置いてから俺は口を開いた。

「話があるんだけれど、いいか?」

 美千代の目が泳いでいたが、俺の言葉に気持ちを切り替えた様子だ。

「あたしの部屋へ行く?」

 俺は頷いて彼女に従った。いつものように隣の楼のくねくね道を案内し、俺を一番奥の部屋に上げた。細々と動いて茶を淹れ、湯呑に注いで俺の前に差し出した。

 襖の戸を閉てると、彼女はまじまじと俺を見つめた。

「大怪我して病院に入院してらしたそうね」

「まあな。俺んとこのねえさんの演説会で大立ち回りだったんでな。これこの通りだ。少しは男ぶりが上がったろう」

 俺は自分の左頬をさすった。

「心配していたのよ。知っていたらお見舞いに行ったけれど、恵美知ったばかり。女郎が堅気の方のお見舞いなんか行くもんじゃないわよね」

「そんなこたねえさ。来てもらえりゃあ、嬉しかったよ。実はあんたの可愛い息子とお仲間たちのせいで、新しい男の勲章ができちまったのさ」

 美千代は息を呑んだ。

 そこで俺は先日の襲撃事件の一切を話した。美千代は目を凝らして俺の顔を見ながら聞いていたが、話が終わると大きく溜息をついた。

「あなたを襲ったのが、貞一郎だなんて。どうしましょう。よくお仕置きしないと」

「今さらそんなことしたって、何にもなりゃしねえよ。つーか、あんたは息子の隠匿でとっくにしょっ引かれて、もうここにはいねえと思ったよ」

「お生憎様ね。幸い刑事なんか来ないわ。貞一郎とも、ずっと会ってないのよ」

 しかしその言葉は妙に力んでいて、嘘をついているような感じがした。あるいは会ってはなくとも、どこにいるかは見当がついているってところか。

「でもお会いできてよかった。ずっと来てくださらなかったから、私のことなんかもう忘れちゃったのかと思ったわ」

「男勝りの美千代姐さんが、たまには女らしいこと、言うじゃねえか」

「あたし、いつも女らしいわよ」

 美千代は肩を竦めた。だが俺の無沙汰に悶々としていた切ない日々を思い出してか、美千代の目は潤んできた。

「美千代さんよ、俺とあんたの仲だ。腹を割って話してほしいんだが、本当に貞一郎の居場所を知らないんだな」

 美千代は下を向き、「知らないわ」と答えた。

 俺は少し考えた。逃げ続けていいことなんてあるわけねえ。

 自分がやったことの代償はきっちりと払わなきゃ、次の人生だって始められねえんだ。正道を歩むよう、説得できねえもんかと思った。

「もし知っているなら、俺を頼りにしてくれて構わねえ」と伝え、俺の家の住所を教えた。

 すると美千代は笑顔になった。

「あなたは優しい人ね。貞一郎のことなんか、実の親のあたしだって匙投げてるのに。貞一郎が来たら、すぐにあなたのところへ行くように言うわ」

 貞一郎について俺にできるのはこんなところだろうが、さて、これからしなきゃならない話を考えると、気が重く、何だかばつが悪くなった。

 貞一郎が新しい人生を始めるために更生することを望んだが、俺自身の新しい人生の話もある。これまでの生活を整理し、美千代とのこれまでの関係に踏ん切りをつけようと自分に言い聞かせて松喜楼へやってきた。

 俺は、おもむろに口を開き、話を切り出した。

「今日は客として来たつもりじゃねえんだ。お別れを言いに来たんだよ」

 美千代ははっとした顔になった。

 俺は入院していた先の病院の看護師と親しい間柄になり、結婚することに決めたと話した。二ヵ月も来なかったのだから、美千代にしてみれば、忘れられたとか飽きられたとか思っていたかもしれない。

 それが入院していたと聞いて、回復すればまた通ってきてくれると希望が持てる気がしたろう。神妙な面持ちで聞いていたが、青天の霹靂の気分だろう。

「巣を作ることにしたんだ。これまでのようにゃ、来れねえ。いや、もう来ねえ」

 彼女はうつむいて口を押さえたが、気を取り直したように尋ねた。

「遊びになら、来て下さったっていいのよ。どうせあたしたちは、そういう女ですから」

「ありがとうよ。でも俺もこれまでの暮らしを改めようと思ってるからな」

 美千代は次第に目を拭い始めた。しかし男勝りの芸妓だけに、そこは何とかつくろった。だが俺がその肩を抱き、胸に抱きとめると堪え切れず、泣き出してしまった。

「こんなときが、いつか来るんだろうって思ってたわ。女将さんにしてもらえるなんて、夢見たあたしが馬鹿だったのよね」

 彼女は声を震わせながら言った。

 正直、辛かったが俺は佐和子を人生の伴侶とする決意を固めていた。

「悪かったな。俺も悪い頭の整理をしたいからもう帰るよ」と告げて何とか別れ話を乗り切ると、ふいと部屋から出た。

 美千代は涙を拭きながら追いかけてきて、帳場で見送りに出た。

 笑顔を作り、寂しい表情を見せないように努めている。

 俺が湿った空気が嫌いなことを知ってるからな。

「あたしみたいな女には、結婚したって逢いに来ていいよって言ったけど、前言訂正するわ。あたしにだって芥子粒くらいの意気地と面子があるのよ」

「そりゃそうだ。おめえは強い女だから大丈夫さ。御免よ、じゃあな」

出がけに振り返ると、美千代が両手で顔を覆って大泣きしそうだ。

 愁嘆場は苦手な俺はずいと店を出た。


 家に向かって途中まで帰ってきたが、何だか妙な胸騒ぎがする。美千代に限っておかしな真似はすまいが、苦界に身を沈めてきた女郎だけに、思いつめると何をやらかすか分らないようで、ほったらかしにはとてもできない気がした。

 どうも心が騒ぐので、俺は回れ右して松喜楼へ取って返した。

 冬の時分で、早くも暗くなってきている。

 すると遠目に松喜楼から女が出て南側へ向かっていくのが見えた。後姿、特徴的な内股歩きで、美千代と分った。俺は見え隠れについて行くことにした。

 美千代は千住の大門を出ると、俯きながら、ゆっくりした歩調で歩いていく。ときどきふらつくような、怪しげな足取りだ。一気に、何杯も酒をあおったように見えた。

 大正通りを南に向かい、隅田川に突き当たったところに松尾芭蕉の奥の細道の碑が立っている。森鴎外がかつて住んでいたので知られる場所でもある。

 美千代は墨堤通りを進み、日光街道へ右折して千住大橋に向かった。千住大橋の欄干に取り付きながら、一歩一歩、橋の頂に向かっていく。

 大酒を食らって酔いが回ってきたのか、千鳥足になってきた。俺は千住のやっちゃ場の横で様子を見ていたが、美千代の頼りなげな足取りにいよいよ胸騒ぎがした。

 よもや飛び込むまいな。欄干から川の暗い流れを見つめながら、何を考えているのだろう? 江戸時代の黄表紙の題材にある女郎の身投げ話の状景のようだ。

 あるいは樋口一葉の「にごりえ」の風景を彷彿とさせた。

 川はコンクリートの堤に囲まれており、そのこちらにも向こうにも工場の煙突が見える。黄表紙や一葉なら趣もあろうが、その無機質な、人間を拒むような産業の力の塊を見ると、こんなところで美千代を死なせるわけには行かないと思った。

 俺が飛び出そうとしたまさにその時、美千代が漆黒の川面に向かって叫んだ。

「てやんでえ、特攻くずれが! 体のいいことばっかり言いやがって、なにさ」

 美千代は肩を震わせていた。

「身請けしてくれるって言ったじゃないか!」

 欄干に凭れて叫んでいる美千代を見て、通行人が怪しんで声をかけている様子だ。

 美千代は声掛けに対して横に首を振った。大丈夫だと言っているらしい。

 特攻くずれたあ、何だ。逃げ出したわけじゃねえぞ。もう零戦がなかったんで、仕方なかったんだ。でも美千代にとっちゃ、そんなこたあ、どうでもいいことなのかもしれねえ。

 美千代は身住まいを直すと歩き出し、橋から戻ってきた。

 俺は美千代の様子に気押されたこともあって、日光街道の反対側を歩いていく美千代にあえて声をかけなかった。おかしな気さえ起こさなければそれでよい。

 墨堤通りから森鴎外の旧居の碑が立つT字路を右に曲がり、彼女は大門を潜って赤線街に戻って行く。いずれ女郎の切り替えの早さで立ち直るだろう。お互いのため、それが幸せな別れ方なのだ。

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