第14話 電車の響き

 その次のデートで、俺たちは明治通りと日光街道が交差する三ノ輪交差点に程近い商店街の中の蕎麦屋に出かけた。

 俺は鴨せいろが何よりの好物で、佐和子には天麩羅蕎麦と月見とろろを注文し、冷酒をあおっていると、いつも以上に早くも酔いが回ってきた。

 何故だろう、どうも何かを感じているようだ。

 我ながら何なんだか分らないが、柄にもなく緊張していたのかもしれねえ。

 そんな具合で酒が進みすぎた俺は、店を出る頃には千鳥足でふらふらしていた。

「私のアパートにいらっしゃいませんか?」

 誘われたので、素直に受けることにした。佐和子は俺に肩を貸して、三ノ輪にある自分のアパートに連れて行った。

「どうも、女の子と酒飲んでこれじゃ、だらしねえようだな。特攻隊員の名が廃るよ。おめえは女のくせして滅法酒に強いな」

「あたし、伊香保の実家で、お父さんもお兄ちゃんも、叔父さんたちも皆、水の代わりに焼酎って環境で育ってるから。お父さんはいつも麦焼酎のお湯割りなの」

「本物の酒飲みだよ、そりゃ。伊香保は寒いからそういうものが一番あったまるだろうな。俺は自分が戦った敵の酒を褒めるわけじゃねえが、ウィスキー党だ」

「バーボンですか」

「そうだな」

「どのくらい飲むんですか」

「いつも一晩でボトル三分の一くらいかな。本当はよ、負け惜しみ言うようだがな、男ってもんは、好きな女といると、どんなに酒に強い奴でも他愛なく酔っ払っちまうもんだ。いい女を前にすると酒に弱くなるんだよ。つまり、柄にもなく上がっちまってるってことだな」

 俺は何をしゃべっているんだか、自分でもよく分らなかった。

 鳳病院の医者が「脳挫傷の後遺症が心配だ」なんて言っていたが、確かに思ったより重症だったのかもしれん。それでも佐和子を抱いた肩を強く引き寄せて顔を近づけて話すと、佐和子は身を硬くして微笑んでいる。

 都電の終点の三ノ輪駅には最終電車が運転を終え、電気を消して止まっていた。

「いい時代になったもんだよなあ。十年前なら、恋だの愛だの言ったら、ぶっ飛ばされっぞ。男と女が手をつないで歩いたりしたら、千住新橋のところにずらっと青竹並べられて、その上に正座させられて、女の代りに石抱かされんだ。こんな風に肩組んだりしてたら、命がいくつあっても足りねえ」

 俺は妙に上機嫌で、冗談を言いながら佐和子の言うままに、彼女の住む一間長屋に連れて行かれた。彼女の部屋は二階で、六畳間と四畳半に台所が付いている。

「いいとこ住んでるなあ。でも若い女の一人暮らしじゃ危なくねえか」

「大丈夫、あなたの言う通り、『かかあ天下とからっ風』の上州出身だから。大抵の男はのしちまうわ。あなたもあんまりおかしなこと言うと、のしちゃうわよ。それにこの三ノ輪の商店街の人たちは下町だけあってとても世話焼きで、変なよそ者が入って来ないように、お年寄りたちが見張っててくれているのよ」

「そりゃ安心だ。千住もそんな土地柄だよ。柄が悪いと思われがちだが、不審な他所もんがうろついていると、地元の年寄りが声かけて問い質すし、『昼間、普段見かけない変な男があんたの家を物色するような目で狙ってたよ。気を付けな』と教えてくれる。下町の地域の絆ってのは強いもんでな。それが東京の下町のいいところだよ。悪いことはできねえようになってるのさ」

 俺は、座布団に腰を下ろし、酔いのために壁にもたれかかった。すると、そこへ佐和子がやってきて寄り添って座った。

 俺は松喜楼の美千代姐さんのことを考え、その美貌を思い浮かべた。いずれは身請けしようとさえ思っている昵懇の間柄だ。

 それに比べてこの看護婦は、決して顔立ちは悪くねえが、美千代のようなわけには行かねえ。でも情が厚そうで、磨きゃいい玉になるタイプだと彼女の顔を見ながら思った。

 俺が佐和子の手を握ると、彼女は恥ずかしそうに俯いた。

「私の気持ち、分ってるでしょう?」

 佐和子は上目遣いに俺の目を見つめた。

 こりゃあ、どうも俺が石を抱かにゃあならなさそうな雲行きになってきた。

 俺が肩に手を回すと、佐和子はもたれかかってきた。

『据え膳食わぬは男の恥ってか』

 俺は心を決めた。不器用に唇を重ねた俺は彼女の服を脱がしにかかり、彼女ははにかみながらも抗わなかった。下着姿にされながら、彼女はひたと俺を見つめた。

「代議士さんみたいに、私のことも守ってくださる?」

「勿論だ。代議士より、誰より、おめえを一番に守ってやるさ……命がけでな」

三ノ輪の夜は更けていき、南千住駅を出て三河島に向かう国電が、ででんででんと走る音が遠くに聞こえた。

 あの頃の常磐線には、俺自身のことでも、社会事件でも、いろいろ思い出がある。三河島、南千住、北千住、綾瀬。俺がそれから一生暮らしていくことになる地元だ。

佐和子と睦み合った夜中の列車の音は、俺のこれからの人生を祝福する音に聞こえた。


 まあこんな成り行きで、俺は佐和子といい仲になった。で、俺は今後どうしようかと考えるようになった。

 まだまだ若くて身を固めるには早すぎる上、ガードマンみてえな仕事は家庭を持つには危なすぎる気がした。しばらく浮世の波に揺られながら、気ままに暮らしていきたかった。

 だが命がけで体を張って守れるのが俺の売りだし、他に取り柄はねえ。佐和子は俺と身を固めたいと望んでいるようだ。

 それである日、俺は彼女を千住の家に呼んで、前に座らせて尋ねた。

「俺は皆が認める命知らずで、俺のような男と付き合っていると、幸せになれるか疑わしいと思うが、それでも一緒にやっていけるか?」

 佐和子は上目遣いに俺を見上げた。

「私はあなたとなら、どんな苦労も一緒にしてみたいです」

 俺は笑い出しそうになってこらえた。

「何だか演歌の歌詞みてえなこと言うなあ。でも気に入ったよ」

 よく言われる「かかあ天下とからっ風」の上州出身で、親は伊香保の馬喰ってんじゃ、気の荒い環境で育っているだろう。だがしっかり者らしいし、看護師で定収があるし、彼女と一緒になれば人生安泰かもしれねえ。

 柄にもなくそんな計算をして、俺は佐和子に結婚を申し込むことにした。

「佐和子さん、あなたがよかったら、俺と結婚してくれ」

 その場で申し込むと、彼女は大きく息を吸い込み、息をつまらせながら、「ええ」と返事をした。それから彼女は急にバタバタし始めた。

 気持ちが一杯になっていると見え、「あたし、お父さんに知らせなきゃ」と言って、すぐに帰ろうとしている。

「これから、宜しく頼むよ」と軽く頭を下げ、彼女の唇に接吻した。

 佐和子は頬が上気して、目が潤んでおり、俺はいよいよ情がついちまった。

 その夜、佐和子が慌ただしく帰ってから、考えた。結婚するからには、身の周りをきれいにしておかにゃあならねえ。佐和子と身を固める以上、身請けしてやるって誓った美千代とはけじめをつけなければと思った。

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