第13話 看護師
間もなく救急車が呼ばれ、俺はストレッチャーに乗せられて病院へ運ばれる段取りになった。星野さんは仕事柄、救急車には乗りなれているだろうが、俺は救急車の中でピーポーのサイレンを聞いたのは初めてだった。
顏は裂傷の応急処置で包帯ぐるぐる巻きで、乗り心地なんてまるで分らなかった。
運ばれたのはお宅の病院、鳳病院だ。高橋貞一郎が俺にノックアウトされて腎臓破裂になったときに運び込まれたが、今度は俺が瀕死の重傷で運び込まれるとは、これも何かの縁だろう。
病院に着いて救急外来に運び込まれると、声をかけられた。
「浪川さん、浪川勇さん、分りますか」
はっきりした大きな太い声で元気な返事をするのが俺たち軍隊流だが、咽喉はかすれ、呂律は回らず、辛うじて「あい」と声を出した。片目を開けると、見覚えのある中年の背の高い男だ。貞一郎が運ばれたときに手術した医者、あんたの親父さ。
五十くらいだったのかな、外科医として脂がのっている時期だったろう。
俺の包帯を外すと落ち着いた表情で診察しながら、看護師に俺の受傷具合を伝えた。
「左頬から鼻にかけて、深さ二センチの大きな裂傷。上唇から口腔内にかけて、そして舌にも裂傷。他の部分は、ええと…胸、腹、腰、背中は痣だらけだが、刃物による刺創は受けていない。すぐ胸と腹のレントゲンを撮って、手術室に直行だ」
医師は院長の星野ですと自己紹介してから、俺の受傷具合や、手術室で顔の傷を縫い合わせる方針を説明した。エックス線検査で鎖骨と肋骨三本の骨折が確認されたが、四肢の骨折はなく、臓器の損傷もないとのことだった。
手術室に向かいながら、看護師が挨拶した。
「手術室の器械出しを務めます。よろしくお願いいたします」
手術の器械出しを務めるんだから新人てこたなかろうが、素朴な感じがするものの、顔立ちはなかなかな子だ。
俺は精一杯笑顔を作って、頷いた。
手術室に入ると、俺は手術台に乗せられ、胴体と手足に抑制のバンドを付けられた。
「浪川さん、局所麻酔するけれど、痛かったら全身麻酔に切り替えますから」
俺は回らない口で答えた。
「大抵の痛みはへっちゃらです。俺は特攻帰りだから。先生、遠慮なくやってください」
「それは剛胆だ。じゃあ麻酔はいらないか」
それを聞いた俺が黙ったので、院長は冗談だと笑いながら、局所麻酔剤を顔面の傷に注射し、さらに麻酔薬を静脈注射しようと看護師に伝えた。
手術が始まると、しばらくはごそごそと顔の縫合をしてくれているらしい感じが伝わってきた。顔の筋肉がずれていたのが戻ってきて、視野がまともになってきた。それでほっとしたせいか、静脈注射が効いてきたのか、俺は眠くなって寝ちまった。
「浪川さん、浪川さん、分りますか」
呼び起されて、俺は目を覚ました。
「手術、終わりましたよ。上手く行きました」
まだぼうっとしていたが、院長の声掛けに応じて頷いた。
俺は何が起きたかを思い出し、まだ生きているのか、我ながら運が強いなと感心したよ。
院長と器械出しの看護師と病棟の看護師によってストレッチャーで二階病棟に運ばれて、看護ステーションの目の前のリカバリールームに収容された。
院長から手術の内容について説明されたところによると、皮下組織と皮膚を分けて丁寧に縫い合わせ、口の中の粘膜が裂けているのも内側から縫い合わせ、さらに裂けて出血している舌を縫い合わせたということだった。
日本赤十字から輸血を取り寄せ、400㎖の全血輸血を行った。
鎖骨と肋骨は整復され、俺の上半身は包帯でぐるぐる巻きにされた。
翌朝、俺が寝ている回復室の隣の看護詰所にその日の勤務の看護師が集まってきた。中央の丸テーブルの周囲は、人一人がやっと通れる程度にひどく狭い詰所だ。そこに看護師数人が集まって申し送りが行われる。その中に昨日の器械出しの看護師がいた。
彼女がリカバリールームに入ってきて、おはようございますと挨拶したので、左手を軽く上げて応じた。
「今日は私が浪川さんの担当です。藤吉佐和子といいます。よろしくお願いします」
軽口を叩こうとしたら口に激痛が走ったので、口をきかずに頷くだけにした。
痛み止めの注射をしてもらって、口をきけるようになってきた。それを見て、俺の検温だの血圧測定だのしてから、看護師は尋ねた。
「浪川さんは以前この病院に来たことがありますか? いつだったか、ボクシングの試合で運ばれた人の様子を見に来られた方じゃありませんか?」
あれ、そんなこと、よく覚えているな。
俺はゆっくりと、痛みを感じねえように言葉を返した。
「あんた、あのとき手術に入っていた看護師さんかい」
「そうです」
「あの時は世話になったな。今度は俺の番が回ってくるとはな」
今回もボクシングかと訊くから、もう引退して、今は代議士のガードマンだと答えた。
そのうち激闘の疲れが出たのか、俺はまた眠くなってきた。
頭を決れたせいか、どうも考えることがおかしい。あの頃は磊落で激しい人生を送っていたから、よく悪夢を見た。
轟々と雨が降っている。目の前には漆黒の闇が広がっていた。
俺は貨物車の重い引き戸を開けて、ドラム缶を横に、鉄道橋を越えるのを待っていた。いつも緑の草地が広がる河川敷も、悠々と流れる川の水も、底の知れない真っ暗闇だ。
やがて河川敷の暗闇が後ろに去り、貨物車は綾瀬へ向かう。すると鉄橋を越えたところで貨車は思い切り速度を落とした。運転手はその時間、その場所で、そうするよう指示されていたんだろう。俺は決死の覚悟でドラム缶を落とし、続いて自分も飛び降りた。
半端に勇敢にできてるわけじゃねえんだ。
ところがドラム缶は転がり始めた。どこへ行きゃがる! さすがの俺も動転した。
貨車から落とされたドラム缶を追って、必死で走る。ごろごろと転がるドラム缶に飛びついた。缶は線路の脇を転がって止まり、辛うじて河川敷へ転落せずに済んだ。
次の列車が来る前に、モノを引きずり出して、線路に横たえなければ。
俺は無我夢中でドラム缶のふたを開けた。
そうしたら奴が、背広のまま、眼鏡が半分ずれた状態で、ドラム缶から転がりだしてきやがった。ぎょっとしたが、奴はピクリとも動かない。やっぱり奴は死んでいたんだ。
俺は幻を見ていたのか。自分でも頭がおかしくなっちまったんじゃねえかと思った。
それから俺は奴をずるずると引きずって奴を線路の上に横たえた。
もうこれ以上は勘弁してくれ。国の栄誉にかけて戦った俺だぞ! 誇り高き志願兵、神風特別攻撃隊員の俺の手を、これ以上汚させないでくれ!
あとは逃げるだけだ。ドラム缶だのは、他の奴が片付けてくれるんだろう。もう知ったこっちゃねえ。どうなときゃーなろたいでえ。
俺は常磐線の線路上を鉄橋に向かって走り、土砂降りの中を荒川河川敷に向かって駆け下った。河川敷を転がるようにして走り、川に向かって一目散、ざぶざぶと川に入り、腰まで深みに入ってから、ざんぶと上半身を投げ出す。
豪雨の中を、抜き手を切って対岸に向かった。いくら泳ぎが得意でも、大雨のせいで水かさが増していたから、流れが速くて体ごと下流に持っていかれた。
何メートルくらい泳いだろう。こういう時はいつも見とれている荒川の広い川幅が恨めしく、豊かな流れが地獄への陥穽に思えたもんだ。七月だからよかったものの、寒い季節だったら泳ぎ切れたかどうか怪しい。
全身水浸しで岸に上がると、異様に体が重い。そのまま岸辺でひっくり返って寝ちまおうかと思ったくらいだが、俺はぎょっとした。周りで光っている目がある。
動物か? いや、違う。人間だ。河川敷や橋の下を住居としている連中だ。まさかこんな時間、こんな天気で人間が川から上がってくるとは思うめえ。幸いにして気づかれなかったようだ。
俺は体をかがめ、転がるように、這うようにして河川敷の道を走った。千住新橋を超えて、土手をほうほうの体で駆け上がる。土手の天辺を越えると、今度は石段を駆け下る。
ようやく濡れネズミで家に着いて、玄関を開けると、風呂場へ駆け込んだ。雨でぐっしょりと重くなった服を全部脱いで、ガスコンロをつけて手を温め、風呂を沸かした。
そのとき、素っ裸の俺がいる風呂場に飛び込んできたやつがいる。
どれだけ驚いたか、恐ろしかったか、とても表現できねえ。下手人を黙らせるために、殺し屋が送られたか!
俺は何が何だかわからない叫び声をあげてそいつと取っ組み合った。
なにを、俺は特攻兵でラバウルを生き抜いた戦士だ。ケチな殺し屋ややくざ風情になぞ、やられるもんか!
そこで俺は目が覚めた。
テロリスト相手に大怪我したときは、こんな図太い俺でも、よく悪夢を見た。少し頭がおかしくなっていたんだろう。今の俺の話は大噓だからな。
何であんな夢を見るんだか、自分でも説明がつかねえが、時々見る夢だ。
俺はボクサーだった上、警察で護身術を学んでいたから、袋叩きにされながらも頭部を守る術を知っている。柔道だって、受け身ってのはいかにして頭部を守るかなんだ。俺なんか車にはねられて、下が舗装道路でも、前回り受け身で頭を守れる。
まあ顔は酷くやられたが、頭は大丈夫なんだろ? だがあんな夢を見るんじゃ、頭蓋骨の下までやられちまってたのかな? まだこの歳で認知症にはなりたくねえが、あぶねえかもしれねえ。星野先生、俺が倒れたらよろしく頼むぜ。
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