第12話 テロリスト
荻原みち子のガードマンの仕事に落ち着いてからの俺は、戦闘力の維持増進を兼ねて、コーチとして猪瀬のボクシングジムにも顔を出したし、まあそこそこ遊びにも行く日々で、若い血を発散させていた。
そんなある日、秋晴れの空の下、浅草寺境内の伝法院のすぐ南、六区の繁華街との間にある広場に設けられた野外の演説会場で、みち子ねえさんが入魂の赤線防止法案可決のための演説をしていた。俺がボクサーデビューした思い出の場所だ。
演壇の周囲にはサングラスをかけた、いかつい体つきの一目でそれとわかる強面のガードマンたちが立ち、にこりともせず周囲に目を光らせている。俺と権藤さんがねえさんの前に立ち、両袖の演壇への上がり口を一人ずつ固めていた。
俺は愛犬の二頭のシェパード、太郎と次郎の引き手を持って、演壇前に控えていた。
ねえさんは、いつもの婦人参政権獲得の成果について語って大きな拍手を浴び、主題目である売春防止法案について語っていた。
「過ぐる一九四八年、第二回国会において売春等処罰法案が提出されました。しかるにこの法案は厳格すぎるとして審議未了、廃案となってしまったのです。その後、神近市子先生らのご尽力により、計四回の国会で、赤線防止法案が繰り返し提出されました」
あーあ、勘弁してくれ。ねえさん、また得意の神近市子かよ。
「神近先生については、かつては青踏社に所属され、御年配の方には大杉栄事件で勇名を馳せたことをご記憶の方もいらっしゃるかと存じます。先だっては作家谷崎潤一郎の『鍵』という作品を猥褻文書ではないかとして国会で問題にするなど、ご活躍は向かうところ敵なし、私も公私に渡って私淑させていただいております」
冗談じゃねえぜ、あの神近市子ってのは、伊藤野枝と大杉栄を取り合った挙句、大杉を刺して二年間監獄勤めしてやがったろくでもねえ女なんだ。昔は自由恋愛なんてものの代表選手だったくせに、自分が上がっちまったら、今度は売春防止法ってか。
ねえさん、あんな我儘放題の勝手な奴、崇拝しねえでくれよな。
大杉だって好き放題しやがって、挙句の果ては甘粕正彦憲兵大尉に絞め殺されたが、あれはあれで当時の大義だったんだ。社会風紀をあれだけ乱したんじゃ、国に厄介払いされたても仕方あるめえ。
だがねえさんはさぞ悔しいのか、眉間に皺を寄せて少しトーンの落ちた声で言った。
「残念ながら、神近先生の御尽力にも拘らず、法案は廃案となってしまいました」
感極まったか、ねえさんは涙が溢れてきて、思わずハンケチで涙を拭った。
まあ大方そんなところだろうなあ。平塚雷鳥が「原始女性は太陽であった」って言ったか何か知らんが、原始から女性最古の職業はあったんだ。それを奪おうなんて法はお天道様だってご容赦すめえさ。
俺は美千代の顔を思い浮かべた。今日は会えないと伝えたが、やはり仕事が引けたら今日も行くと思い決めた。我ながらぞっこん惚れちまってたんだなあ。
一方で、気を取り直したねえさんの演説は続いた。
「でもお聞きの皆さん、もう少しです。このたびの国会では連立与党の日本民主党が反対派から賛成派に回り、もう一歩で法案が可決されるところでした。与党は選挙に向けて女性票を獲得維持しようとの狙いから、今後の国会においては売春防止法の成立に賛同するものと思われます。皆さん、決して諦めず、女性の自由解放に向けての戦い、男性への隷属から開放する戦いを勝ち取ろうではありませんか!」
会場は大きな拍手に包まれたが、俺はやれやれと心の中で舌打ちした。
寄ってたかって人の生きがいを奪おうってか、これを守ってやるなんざ、とんでもねえ仕事を引き受けちまった。
そんなことを考えていたときだった。突然俺と反対側の演壇右側階段のところでどよめきが起こり、俺は我に返った。見ると壮士風の男が演壇に上ろうとして、権藤ともう一人のガードマンともみ合っており、そばに座っていた聴衆から悲鳴が上がった。
俺も加勢に行こうと駆けだそうとした。
すると今度は逆の演壇左側から三人の暴漢が演壇に向かって突進してきた。
先頭の奴は目つきが悪くて、どこか狂気を感じさせる目をしている。匕首を抜いたのを目ざとく見つけると、俺の心はたちまち戦場で戦っている気持ちに切り替わった。
「太郎、次郎、行け」
二頭の犬を引き手から解き放つと、俺は右側の奴は権藤さんたちに任せ、より凶悪そうな新手の襲撃者からねえさんを守るために壇上に飛び上がった。
匕首を抜いた先頭の男が階段に達し、みち子めがけて駆け上がろうとしている。
俺は叫んだ。
「ねえさん、逃げろ!」
ねえさんを狙う匕首男にタックルをかまし、駆け寄ってくる権藤のほうへねえさんを突き飛ばした。
「権藤さん、ねえさんを頼むぜ!」
俺は体勢を低くして襲撃に備えた。
犬たちはともグルルと獰猛な唸り声を上げ、飼いならされたおとなしい警護役から野獣に変貌した。
太郎は先頭の男に向かって真っ直ぐに走って行き、素晴らしい跳躍力で飛んで、男の頸部に襲いかかった。そいつは左腕で太郎を振り払ったが、同時に次郎が男の背後からふくらはぎに食らいつき、さらに太郎が再び太腿にかぶりついた。
敵は二頭のシェパードに食いつかれるにもかかわらず、匕首を振り回しながら犬を引きずるようにしてこっちへ向かってきた。
太郎に太腿にかぶりつかれた瞬間、そいつは何と匕首を太郎の首に突き立てた。
太郎はそれでもなお男に食らいつくのをやめなかった。男は頑強に食らいつく太郎から匕首を抜き、もう一度刺そうとした。
会場は悲鳴に包まれ、聴衆は我先に逃げ出し、野次馬は遠巻きにして様子を見守っている。暴漢は数人おり、壇上と客席でガードマンたちともみ合っている。
俺は「太郎!」と愛犬の名を叫ぶと、怒りに血を沸騰させて、男の右腕を思い切り蹴り上げた。男はそれでも辛うじて匕首を手放さず、今度は俺に向かって刺そうと匕首を握って向かってきた。
俺は左拳で敵の右腕を叩き落とすと、体を右へ翻転させながら奴の右わきに右肩を入れ、思い切り腰を入れて一本背負いで投げ飛ばした。奴は右腕を取られたまま俺の腰の上に乗っかり、大車輪を描いて背中から地面に落ちた。
俺は奴の右腕を放さずに倒れこみ、その右肩を思い切り内側に捻ると、ぼこっと大きな音がして、奴は呻いた。狙い通り、奴の右肩を脱臼させたんだ。整形外科の先生が脱臼を整復するときの逆の要領さ。敵は右腕が効かなくなったらしく、匕首が転がり落ちたので、俺はそれを壇の下まで蹴り飛ばした。
俺はどんな状況でも敵の一人の足なり腕なりを骨折、最低でも脱臼させる格闘技術を持っている。たとえ数人に袋叩きにあっても、敵のどいつかに重傷を負わせておけば、逃げられても敵は病院を受診せざるを得ないから、そこから足がついて一味の逮捕に至るんだ。
そこら辺は伊達に戦場に行ったんじゃねえところさ。
手負いの脱臼男が右腕を押えて苦痛に呻きながら倒れている横で、俺は他のガードマンともみ合っている新しい襲撃者に向かっていった。
そいつは縦横のがたいのいい奴で、腕を振り回して他のガードマンを振り切ると、俺に組み付いてきた。
俺は相手の胸倉を掴むと、右の背負いから左の袖釣り込み腰、敵がこらえるところを左の大内刈りの連続技で掛け倒した。見事にはまって爽快だった。
敵が仰向けに崩れるところ、俺は体重を預けながら両手で襟をつかんで壇上に押し倒した。すると敵は後頭部を激しく床にぶつけて全身もんどり打ち、うーんとうなった。
これで二丁目も上がりだ。しかし俺が刺客を抑え込もうとしたそのとき、顔を蹴り上げられて激痛を感じた。三人目がかかってきたのだ。
横目に見えたそいつは細身だが、動きがいかにも敏捷そうだった。
新手の襲撃者は俺を蹴り殺そうという凄まじい怨念を感じさせる攻撃をかけてきた。せっかく倒した奴もふらふらしながら立ち上がって、二人掛かりで俺を蹴り始めた。
俺は頭を抱えて攻撃をよけるほかはなかった。
そこへグルルルと吠えながら次郎が飛び込んで来ると、がたいのいい方の男は叫び声を上げてのけぞった。よく調教されている次郎は、真っ先に俺を蹴っている男の軸足のアキレス腱にかぶり付き、噛み砕いたのだ。
ねえさんは権藤さんに守られて、すでに反対側の階段を駆け下り、事なきを得た様子だ。
暴漢たちは、襲撃はここまでと思ったか、一斉に逃げ出し始めた。
俺を襲った三人目の細身の男が逃げようとしたとき、そうはさせじと俺は足にタックルを食わせた。そのとき男の顔が俺の目に入り、俺たち二人は目が合った。
俺は思わず驚愕に目を見開いた。
高橋貞一郎!
それはまぎれもなく、かつて駆け出しのボクサーとして対戦した高橋貞一郎に違いなかった。試合前に俺を見ていた客気に満ちた鋭い目つき、ノックアウト直後の顔面蒼白で口を開いたままだった表情、角刈り着流しの刺青だらけの義父政芳の顔、そして、昔と今の、母美千代の顔。そうしたものが、一気に俺の脳裏に蘇ってきた。
空気の流れが一瞬止まったように思えた。貞一郎の顔はなぜか無表情で、その目は感情を失くしたかのようだった。
鍛えたボクサーの特性で、緊迫した状況でかえって無感情だったのか。というよりも自分の人生を捨てて斜に構え、自暴自棄な道を歩んでいる男の顔に見えた。
しかしそれは一瞬のことで、貞一郎はたちまち身を翻すと、壇上から飛び降りた。
俺は追うべきだったが、昵懇の仲になった高橋美千代のことを思うと、取り押さえる気にも、立ち上がって追う気にもならず、そのまま奴を見逃しちまった。奴は巧みに人混みにまぎれて姿が見えなくなった。
逃げ切った貞一郎一人を除き、暴漢は全員が取り押さえられた。
俺は力が抜けて眩暈がし、壇上にぶっ倒れちまった。暴漢共に袋叩きにされたせいで、全身は打撲だらけで顔は大きく膨れ上がっていた。
口もろくに利けず、顔の筋肉が自分のもののような気がしない。手で触れてみると、筋肉が容易にずれて目が見えなくなる。
かなりひどく裂けているようだった。出血多量で死ぬかもしれないと思った。
次郎がくうんくうんと鳴きながら、俺のところへ寄ってきて、顔をぺろぺろとなめた。敵に襲い掛かるときの獰猛な吠え声とは全く違う、高く不安げな鳴き声だ。俺は倒れたまま、辛うじて使える左腕で撫で、よくやったぞとほめたかったが、口がきけなかった。
俺は倒れたまま動かない太郎のところへ這って行った。血の池が広がっている。太郎を抱きしめ、俺はおいおい泣いた。目が見えなくなったが、血か涙か分らなかった。
権藤が、「浪川、大丈夫か」と言いながら駆け寄ってきたが、俺の顔を見てひきつった表情になり、「おい、救急車だ」と周りに声をかけた。
その後から、みち子も駆け寄って来て、心配そうに俺の顔を覗き込んだが、顔を歪めて両手で顔を覆った。「勇ちゃん、ごめんね」と言いながら、泣き出してしまった。気丈なねえさんには珍しいことだよ。
俺の顔がどうなってるか分らなかったが、口も鼻も肉が丸ごとずれてるらしく、ねえさんは手拭いで俺の顔を抑えて出血を止めてくれていた。顏は泣いていたが、女丈夫のみち子ねえさんらしい態度だった。
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