第10話 遊郭街

 荻原みち子の護衛をするようになった年の秋口の休みの日、早い時間に赤線へ出かけた。

 赤線街の中央に大門があり、大門から入って一区画程の間の道は、両側に芸者置屋が続き、妓友が客を引いている。

 いつも俺は大門を潜って中の店に入るのだが、その日は大門の並びの通りで、それまでも入ったことのある松喜楼という店に入った。

 その店は一風変わった造りで、玄関を入ると帳場があり、そこで好みを言って娼妓を紹介してもらい、妓夫によって娼妓の部屋に案内される寸法になっていた。

 その日、俺は松喜楼の観音開きのドアを押して入り、何の気なしに帳場にいる遣り手婆を見て、はっとした。いつもは筑紫という四十歳くらいの鉄火婆さんが遣り手として帳場を仕切っているが、ずっと美形の女が帳場に出てきた。時間が早いせいか。

それよりなにより、その遣り手の特徴的な美貌に、見覚えがあるように思えた。三十代半ばと思われるその女は、高橋貞一郎の母親によく似ていた。

 俺にまじまじと見つめられ、遣り手は不思議そうな顔をしたが、「どうかしました、お客さん。あたしの顔に何かついてるかしら」と愛想笑いを作った。

 俺はその遣り手の顔から目が離せずにいた。果たして遣り手は訝しげな表情だ。

「女の子がいるのはお隣の妓楼なのよ。どんなタイプの子がいいのかしら。ご希望は?」

 俺はしばらく黙っていた。この女があの大阿久政芳の女房だとしたら、手を出したりしたら罪作りだ。

 しかし、政芳の女房は吉原の女郎のはずだ。それにこの女が俺を認識しないわけがないから、他人の空似だろうと思った。そこで俺は意を決して遣り手に言った。

「あんたがいい」

「あたしかい。そりゃお客さん、お目が高いのね」

 じゃあまずここで手付けにというので、言われた金を俺は払った。

「若いのに女を見る目があるんだね、と言いたいところだけど、何もあたしみたいなお婆さんじゃなくたって、もっと若い子がいるわよ」

「十分若いさ。あんたがいいよ、姐さん」

 遣り手は大きな目を見開き、笑顔で言った。

「どうしましょう。やり方なんか、どうするんだか、とっくに忘れちまったわ。昔はならしたものなのよ、これでも」

「わかってるさ」

「おかしなこと言うわね。まあ時間も早いし、おいでなすって」

 遣り手は一度店を閉めると、隣の妓楼に俺を招いた。中に入ると、真ん中に廊下が通っていて、両側に娼妓の部屋らしき襖がいくつも並んでいる。洒落た造りで、奥に整えられた中庭があるのが見えた。

 中央の廊下は鰻の寝床のようなくねくね道にタイルをあしらっており、玄関を入って幾つか目の部屋をノックして、入るよと声をかけると、「はあい」と返事があった。

 襖を開けると若い女がいる。十人並みってところか。遣り手は俺をその女の子に引き合わせ、下顎に軽く触れて笑顔で流し目を使いながら、俺に言った。

「この子なんかどう? 浅香っていうの。いい子よ」

 俺はかえって遣り手の姐さんの流し目にぐっときちまった。

「いいや、姐さんがいいんだ」と俺は言い張った。

 まあと驚いて、遣り手は首をすくめた。

「随分惚れられたものね」とおどけながらも、諦めて度胸を決めたらしく、浅香という芸妓にぼそぼそと何やら話している。

 うんうんと頷きながら、女は鍵を受け取って部屋を出ると、隣の帳場の建物に向かった。帳場の留守を任されたものと見える。

 一番奥の部屋に俺を導くと、遣り手は鍵をかけて部屋に上がった。俺と二人きりになると、彼女は布団を広げながら、きいた。

「お仕事はもう終わり?」

「今日は休みなんだよ」

「そう。来てくださって嬉しいわ。あたしの名は葛城。よろしくね」

「帳場はいつもの夜の姐御じゃないんだな」

「あら、いつも来られてるんですか? 昼は私が帳場を受け持っているの」

「あんたは初めて見るが」

「まだ入店したばかりよ」

 女は俺に向かってほほ笑むと、「さてと」と掛け声をかけると、鏡の前で双肌脱いだ。三十半ばと思ったが、そうとは思えない若々しい肢体だった。

 俺の若い肉体は、彼女の姿を見てたちまち興奮してしまい、我慢できずに挑みかかると、たちまち彼女と交わった。

 数分後、俺があっという間に果てると、随分せっかちねえと女にからかわれた。

「最近ここの店に移ってきたばかりだけれど、これからも御贔屓よろしく」

彼女は裸で床に寝そべりながら、あれこれと世間話を始めた。目に色気があり、若い俺はしばらくしたら、たちまちにして元気が回復してくる予感がした。

 しかし、俺にはもっと別なことに関心があった。

 裸のまま床の上で胡坐をかいていた俺は、落ち着いてくると、おもむろに女にきいた。

「葛城さん、いきなりこんなこときいて申し訳ねえが、もう一渡りの関係じゃねえと思ってきく。姐さん、ひょっとすると息子がいやしないか」

 遣り手は寝転んだまま顔を上げ、不審げな表情で俺を見た。

「どうしてそんなこときくのさ」

 俺は重ねてきいた。

「いや、答えたくなければ構わねえが。でも、ボクサーだった息子がいやしないか」

 彼女は床の上に起き直り、浴衣を羽織ると、さらに訝しげな表情で俺をじっと見つめた。

「俺の顔に覚えはねえか」

 しばらく彼女は俺の顔を見つめていたが、ははあと思い当たったようだった。

「あんた、もしかするとあの子の敵だった奴かい」

「浪川勇だ」

「まさか、あんたかい。あの子の腎臓を潰した奴だね。あのときゃ顔が腫れ上がってたから、恵美顔を見ても、分らなかった」

 彼女は目を見開き、大きく息を吸い込んだが、顔をくしゃくしゃにして涙を浮かべた。

 と、いきなり彼女は横に置いてあった雑誌をいきなり俺に投げつけ、俺は顔にもろに受けた。女は据わった目で俺を睨みつけながら言った。

「あの子の人生を粉々にしておいて、この行状とは、あきれたね。何て奴だろう。この人でなし」

 不意を食らった俺はあわてて弁解した。

「待ってくれ、姐さん。悪かった。まず話そうと思ったんだが、つい盛っちまって申し訳ねえ。帳場で顔を見たとき、まさかとは思ったが。姐さんみたいないい女にもろ肌脱がれると、俺も若気の至りで歯止めが効かねえ。全くかたじけねえ、いや違った、面目ねえ」

「何言ってるんだよ、あきれた男だね」

 今度は化粧道具が飛んできて俺の体に当たった。

「ちょっと待てったら。俺はあの一戦でボクサーを辞めたんだよ。いろいろ思う所があったから。息子さんには本当に悪いことをしたと思ってる」

「黙りな。人でなし」

「本当だよ。あんたの息子のことが何故だか気がかりで、仕方がなかったんだ。貞一郎さんっていったよな。今どうしてる」

 彼女は悔しげな表情で俺を睨みつけながら答えた。

「人様に言えるようなこたしてないよ。用心棒風情さ」

 それじゃあ俺と同じ稼業じゃねえか。俺は思わず笑顔になって言った。

「俺も同じようなもんだよ。代議士の用心棒をしてるんだ」

「家の子はそんな大したもんじゃないよ。妓楼の用心棒さ」

「ここのか」

「いいや。ずっと南の海沿いの方さ」

 俺は少しほっとした気持ちになった。ここの遊郭の用心棒をやってるんじゃ、気まずくて通えやしねえからな。

「あの試合の後、俺は鳳病院にかけつけたんだ。丁度手術が終わったところで、姐さんと旦那さんが、運ばれて行く貞一郎さんに付き添ってるところだった。近寄って詫びようかとも思ったが、俺が現れたんじゃ拙いかと思い直して病院を出た。それから貞一郎さんと親御さんを思って鬱々になっちまってさ。一戦もせずに引退したんだよ」

 女は俺の顔をじっと見つめて言った。

「何も義理立てするこたないよ。勝負の世界じゃないか。家の息子が弱かっただけさ」

「いや、高橋貞一郎はすごいボクサーだった。あんな男と対戦できて、俺は光栄だったと思ってるよ」

 女はどうも御大層にと答え、瞼を伏せて物思いがちな顔になった。

「あの子って鉄砲玉みたいでね。この頃はどこをほっつき歩いてるんだか、分りゃしないのよ」

 女はどこか寂しげな笑顔になったが、その物思う風の横顔を俺は美しいと思った。

「姐さん、名前は何と言うんだい」

「どっちの名前」

「源氏名は葛城だろ。それじゃない方だ」

 女は少し黙っていたが、答えた。

「美千代。高橋美千代っていうのよ」

「そうか。姐さんは、元々こういう仕事なのかい」

「さあね。前は吉原にいたのさ。内縁の旦那がやっていた福芳楼ってお店。旦那の名前は政芳っていったけど、でもそれがしばらく前に亡くなっちまってね」

「知ってるよ。葬式やってる前を通ったからな。試合や病院で付き添っていた筋もんのお方だろ。政芳さんていったよな」

「おや、よく知ってるね」

「貞一郎さんの見舞いに行った時、会って話したんだ。チャンピオンになれって言われた。期待に応えられなくて申し訳ねえと思っている」

 本当なら国鉄を辞めて真直ぐにボクサーの道を歩むべきだったのかもしれない。でも金に目がくらんで権藤に誘われて思わぬ道へ入ってしまった。

 あの親父はあの世で怒っているだろうか。

「覚えておいでかい。義理堅いね。香具師渡世のお決まりで、背中一杯と両の手首まで分身していたけれど、墨入れたのと、大酒飲んだのとで肝臓悪くしてたのよ。ある日吉原大門の蕎麦屋で大量に血を吐いて死んじまったわ。食道静脈瘤が破裂したんだってさ」

「旦那さんのことはよく覚えてるよ。いなせな親父さんだったね」

 美千代は少し笑顔になって思い出すような表情をした。

「あたしはそのときもそばにいて、介抱しようとしたわ。あの人は、死ぬのは恐ええ、死にたくねえって、虫の息で言っていたけれど、そのままあたしの手を握りながら、息を詰まらせて行っちまった。あんな稼業で、老けて見えたけど、まだ五十前だったのよ」

「貞一郎さんもさぞ悲しんだろうね」

「ええ。あの子は旦那の実の子じゃないんだけどね。でもあの子をボクサーに仕立て上げたのが旦那だったから、あの子は実の親のように慕ってたのよ。あたしたち親子、あの人がいなくなってから、腑抜けたようになっちまったわ」

「じゃあ姐さんはそれからこっちへ移ったわけか」

「旦那が死んだ途端に、乗っ取り屋に福芳楼のお店に入り込まれちまってね。あたしと貞一郎は態よく追い出されちゃったのよ。人生なんて、一度疫病神に取りつかれるとなかなか離しちゃもらえないようよ」

 俺は親子の気の毒な運命を思って溜息をついた。

「また来てもいいかい」

 美千代はやっと笑顔を見せた。

「ご贔屓よろしくね。でももっと若い子がいいんじゃないの? 別の女の子を紹介してあげようか?」

 俺は「いやあ」と答えたまま、何と続けていいか分らなくなっちまった。

「姐さんと話してると、何だかほっとするんだよ。本当に惚れちまったようだ」

 美千代はにっこりと笑った。大輪の薔薇を感じさせる笑顔だった。

 彼女も嬉しいのかと思うと、俺も生き甲斐ができたような気がしたよ。

「あんた、いいところがあるんだね。今後もあたしを指名してくださるの? あんたのようなタイプは、暴れん坊のようだけれど、本当は甘えん坊だから、年上の方がいいのよ。あたしも歓迎するわ。昼間は帳場をやっているから、夜来てくださった方がいいわね」

 俺は了解と答えた。

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