第8話 ヤクザの親分

 数日後、俺は土産に果物を持って鳳病院へ出かけた。二階のナースステーションで貞一郎の病室を訪ねると、昨日手術室から出てきた看護師が案内してくれた。

 貞一郎の病室は二階の個室で、頭部から顔面にかけてを包帯でぐるぐる巻きにしてベッドに横たわり、眠っていた。ベッドの脇には試合の時にセコンドにいた着流しの男がおり、一緒にいた女はいなかった。

 男は俺の顔をじろりと見ると、肩を怒らせた。目の色には驚きとも怒りともつかない感情が浮かんでいた。

「あの、俺、この前、高橋貞一郎さんと対戦した者です」

 男はなおも険しい表情で俺を見つめ、「分ってる、浪川勇か」と返事をした。

 貞一郎さんの親父さんですかと尋ねたところ、「義理の父の大阿久政芳だ」と名乗った。

 貞一郎は静かな表情で寝ている。俺はおずおずと尋ねた。

「高橋さん、具合はどうですか」、

 政芳は呟くように答えた。

「命は助かったさ」

 俺はそれだけ聞いてほっとし、土産を置いて帰ろうとしたが、政芳は俺の後をついてきた。てっきり殴られるんだと思って覚悟したが、待合室を指差されて誘われた。

 待合室のベンチのようなソファに座ると、政芳は口を開いた。

「おめえ、強かったじゃねえか」

「すんません、息子さんを怪我させちまって。勝てるとさえ思ってなかったです」

「勝負だから仕様がねえさ。今まではこっちがおめえの立場だったんだ」

 政芳は両膝についた手を固く握りしめ、両の肩に力をこめている。内心さぞ悔しいのだろう。貞一郎が左腎臓破裂だったこと、腎臓が裂けていたので、救命のために腎臓を切除せざるを得なかったと語った。

「これからまだボクシングを続けられるかって聞いたらよ、残る右側の腎臓がやられたら、生きて行けないからボクサーをやめろとよ。あいつは俺のこれの息子でな、喧嘩だけが生きていく術だった」

 政芳は右手の小指を立てて見せた。

「リング下で応援されていた着物の方ですか」

 政芳は頷いた。

「吉原の妓楼の女の息子に生まれて、日陰者として生きていくところを、ボクサーの仕事があいつの一縷の望みの綱だった。だが貞一郎のボクシング人生も終わりだ。おめえはその責任を取って、何が何でもチャンピオンになってもらわにゃならねえ。精々精進しな」

 俺は身を硬くして聞いていた。

 政芳は、俺の両の肩に手をかけた。それを言うために俺を追いかけてきたのか。心の広い人だなと俺は思った。

「貞一郎の分も、頼んだぜ」

 両腕を伸ばされると、手首に近いところまで墨が入っているのが分った。角刈りがよく似合い、いかにも任侠組織の組長といった風情だが、顔色が青黒くて決して健康ではなさそうだ。全身痩せているのに、下腹部だけがぽっこりと膨らんでいる。

 俺が訪ねてきたので興奮しているのかもしれないが、顏が潮紅しており、両の掌も真っ赤だった。きっと肝臓病だ、それも末期の。

 ボクシング関係者に、ときどき全身俱利伽羅紋々で同じような身体的特徴の者を見てきたから、何となくわかった。貞一郎はさぞ義父を頼りとしているのだろう。長生きしてほしいものだと思った俺は「必ずやる」と即答した。

 政芳はにっこり笑った。魅力的な笑顔だった。やくざの親分は必ずしも強面とは限らない。この人のどこがと思う優し気な印象の親分もいる。この政芳親分もその口だろう。

 俺は政芳の醸し出す粋な魅力に惹かれないではいられなかった。


 無事、デビュー戦をKO勝ちで飾った俺は、ボクサーとしての自分の素質に自信を持った。猪瀬を始めジムの者たちは、俺の破壊的な強さに舌を巻き、羨んでいる様子だった。

 栃木へ帰って農耕生活に日々を送る小野滝も、離れたところから見ているが、俺が間違いなくチャンピオンになると信じていると書いた手紙をくれた。

 だが俺は十七歳の少年を病院送りにし、片方の腎臓を破裂させてボクサーとしての道を断念させてしまったことに、心を痛めていた。普段は気持ちの切り替えの早いほうだが、貞一郎のことについては妙に後味が悪く、いつまでも吹っ切れないでいた。

それは貞一郎の両親の印象的な姿のせいかもしれなかった。

 大阿久政芳は一見強面風のやくざの親分風情だが、義理の息子に無限の愛情を注いでおり、「貞一郎のかわりにチャンピオンになれ」と俺を激励した。試合当日に見たリング下から見守る凛とした和服の母親の美しい容姿も印象的に思い出された。

 そんな二人の秘蔵っ子のボクサーとしての将来を断念させ、人生を変えてしまったことに、根が気の優しいところのある俺は、悪いことをした気がして往々愉しまなかった。

 国鉄職員の傍ら、早朝と夜のトレーニングでは一流のボクサーとなるのがそもそも無理だったのかもしれない。


 ところがある日、浅草を歩いていた時に葬式の看板が出ているのが見えた。まだ通夜であるらしく、参列する長蛇の列もそれぞれめいめいの格好をしている。

 物々しい葬列より何より驚いたのはその名前だ。「大阿久政芳」とある。

 高橋貞一郎の親父の名前じゃないか。

 参列の人に聞いてみたら、地元の筋もんの親分だってんで、おそらく本人に違いあるまいと思った。何でも蕎麦屋で血を吐いて倒れてそのまま行っちまったらしい。

 ピンピンコロリとも言えるが、肝臓が悪そうだったから、いろいろ苦しんでの末だったかもしれねえ。

 俺は持ち合わせがなかったから、通夜の列の外から深く辞儀をしてその場を去った。

 あのおっさんが死んじまったというのは、俺にとっちゃ、ボクサーとしての張り合いが一つ欠けるようなことだったよ。

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