第7話 鳳病院
カウントが数えられる間、貞一郎は崩れたまま、全く立ち上がれなかった。テンが告げられ、これが俺の初勝利、貞一郎にとっては一巻の終わりとなった。
あっという間の出来事で、セコンドの男は呆然として立ちつくし、リング下の女は顔を覆い、悲鳴のような泣き声が聞こえた。
一方、俺はレフェリーに右腕を高く差し上げられ、漸く自分が勝ったことを実感した。サムと猪瀬が満面を笑みにして駆け寄ってきて、俺をもみくちゃにした。嬉しいのなんのって、あの高揚感は忘れられねえ。
しかし、互いの健闘を讃えあおうと貞一郎に近づいてみたら、奴の様子がおかしい。
リングに崩れ落ちたまま立ち上がれず、体を海老のように曲げて動けなかった。
顔面は蒼白で目は見開いたまま、体全体がガクガクと震え、開きっぱなしの口からは唾液が流れ、泡を吹いている。
どうもやばいことになっちまったようだ。貞一郎を介抱しているトレーナーがマウスピースを外し、頭に水をかけたが、肩を抱いて立たせることもできない。
そこへ飛んできてくれたのが、リングドクターだったあんたの親父だ。貞一郎の様子を一目見て、「腎臓が破裂したかもしれないから鳳病院へ運ぶ」と言った。
びっくりしたけれど、あのとき、あんたの親父さんがリングドクターをやってくれていて、本当に助かった。ボクシングってのは、ああいうことになるからよ、いい外科の医者が付き添っていてくれねえと成り立たねえんだ。
横には貞一郎の両親らしき二人が付き添っている。香具師とその妻か愛人といった風情だったが、気が気ではない様子だ。勝ちはしたものの、俺はどこか悄然とした気持ちで、奴がストレッチャーに乗せられて運ばれていくのを見送った。
一方、俺のサイドはお祭り騒ぎだった。俺の破壊的な勝ちっぷりが観客に強烈な印象を与えたらしく、「いいぞ、特攻」、「期待してるぞ、チャンピオン」といった激励の声援が飛んだ。
試合の後、猪瀬ジムの面々は皆で上野の駅前のビアホールに祝勝会に繰り出した。ジム総出、と言っても俺、猪瀬、サムと若手ボクサー何人かだったが、ジョッキで乾杯して気炎を上げまくった。スポーツの勝利というものは、それだけ人間を活気づけるものだ。
だがにこにこ顔の皆の中で、俺だけは軽口も飛び出さず、考え込みながらジョッキを煽っていた。
勝利の余韻に浸る一方で、病院送りにしてしまった十七歳の対戦相手のことが気になった。両親に見守られてリングという戦場に一人出て行く若年の貞一郎の姿が、何故か予科練から出て特攻へ向かう自分の過去とオーバーラップして感じられたんだ。
俺は貞一郎が運ばれた鳳病院へ見舞いに行かなければ済まない気分になってきた。俺が行ったところで何ができるわけじゃないが、貞一郎の様子を確認し、心配している両親にわびを入れたくなった。
盛り上がっている皆に「どうも有難う、こんな日を迎えられたのは、皆のおかげだ」と挨拶した。一人一人に握手してから、やや怪訝な表情の仲間たちをビアホール残し、俺は泪橋目指して走り出した。上野から根岸に出て、金杉通りをひとっ走りすると三ノ輪、そこで明治通りを右へ折れ、泪橋にある鳳病院まで飛んで行った。
あんたんちの病院について説明するのもおこがましいが、鳳病院は三階建てで、一階が外来、二、三階が病棟だ。今どきどこの病院も靴履きで歩き回るが、昔は玄関で靴を脱いでスリッパに履き替える病院が多く、鳳病院もそうだった。
今は建て替えて新しくなったが、あの当時は三階には大きな畳の病室があって、近所の爺さん、婆さんの患者がたくさん雑魚寝していたもんだ。
俺は病院に着くと、救急外来から入れてもらって手術室に向かった。
守衛さんの言うところでは、救急車で運ばれてすぐに手術となり、もう小一時間、手術しているそうだ。
手術室の前の椅子に貞一郎のリングサイドについていた着流しの男と和服姿の女が座っていた。男は手術室の外の廊下のベンチに座って頭を抱えたり、放心したように宙を見つめたりしている。女は横に凛とした和服姿で座り、男の腕を取って寄り添っていた。
これは声をかけられる雰囲気ではないと思った俺は、手術室から離れた玄関脇の待合室のベンチに座った。
二時間も待ったろうか、手術が終わって、着流しの男と和服姿の女が手術室に呼ばれた。
院長が二人に手術の内容を説明しているようだった。俺も近づいていくと、夜も更けた時間だけあって、手術関係者以外、誰もいない様子だ。ドアが半分開いていたので中の話し声が聞こえ、着流しの男の横顔が見えた。
院長が裂けた腎臓の実物を見せているらしく、救命のために切除せざるを得なかったと話している。
男は貞一郎の今後の生活はどうなるかと院長に訊いた。
「腎臓は神様が二つ造ってくれたもので、一つだけでも今後の人生に支障はない筈です。ただ、残るもう一つがやられたら、生きて行けません。もし両腎を失った場合、二週間ほどで命は失われます」
後に腎不全の画期的治療法となった血液透析は、まだ開発の途についたばかりで、一般の実用に供されるのはまだ十年以上先だった。
男はさらに尋ねた。
「てえことは、先生、貞一郎は、もうボクシングはやれねえんでしょうかね」
「お話したとおりで、もう片方をやられたら、生きて行けません。貞一郎さんがボクサーとして今後もリングに立たれるのは、危険すぎます。諦めるべきだと思います」
それを聞いた男は、両膝についた手を固く握りしめ、両の肩に力をこめたまま俯いてしまった。肩が震えており、女はそんな男の肩を抱いている。
二人が手術室を退出してきたので、俺はすばやく救急外来の玄関の方へ戻って、もし声をかけられるならかけたいと思っていた。ところがとても帰る気にならないのか、二人は手術室の外の廊下のベンチに座っている。そうだ、術後しばらくは傍にいてやるつもりなんだろう。
すると、男泣きに泣く声が聞こえてきた。
俺は泣いている親父さんに申し訳なかったが、これも運命で、どうしようもない。いずれにしても、とても俺が貞一郎の両親に声をかけられる状況ではなくなってしまった。
やがて手術室からベッドに横たわった貞一郎が手術着を着た若い医者と看護師によって運び出されてきた。これから病室に向かうのだろう。貞一郎の両親がそのすぐ後に付き添っていた。俺はその一行がエレベーターの中へ消えて行くのを見送った。
その後に手術場から器械出しの看護師が出てきた。まだ若い、新人看護師のようだ。
俺の腫れあがった顔を見てぎょっとしたのか、通り過ぎようとしたが、俺は追いすがって声をかけた。
「すみません。高橋さんと対戦した者です」
看護師は通り過ぎようとした足を止めた。俺は貞一郎の容態について尋ねた。看護師は俺と口をきくべきかきくまいか迷った様子だが、俺のひたむきな態度に、貞一郎を心配する真剣な気持ちを読み取ってくれたのか、意を決したように口を開いた。
「患者さんは大丈夫です。うちの先生がうまく手術しましたから」
すると、あとから手術室を出てきた年配の医者、すなわちあんたの親父さんが俺を認めた。親父さんはリングドクターで俺の顔を見ていたし、腫れ上がった顔を見て誰だかピンと来たらしく、近づいてきた。俺が挨拶すると、院長の星野ですと自己紹介した。
「君は大変なハードパンチャーだね。負けた相手は気の毒だった」
「高橋さんは大丈夫ですか」
俺が腫れ上がった頬でもごもごと尋ねた。
「手術は無事成功して、高橋さんは命を取り留めたよ」
俺はほっと胸を撫で下ろした。
「今日は見舞いできる状態じゃないから、後日改めて来てください」とあんたの親父さんに言われ、俺はすごすごと病院を後にした。
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