第6話 プロボクサー

 俺がプロボクサーとしてデビューしたのは、一九五三年(昭和二八年)、朝鮮戦争が終結して間もない頃で、二四歳になっていた。あの頃は、朝鮮戦争の軍需景気によって経済は上昇機運に向いていたが、日本の世の中はまだ大東亜戦争による傷痕から立ち直れていなかった。

 戦後の娯楽の少ない時代だったから、浅草寺の裏手の広場に設けられた特設リングで行われているボクシングの試合を見に来ている客も、社会全体を覆う殺伐とした気風を反映してか、試合開始前から、荒々しい怒号とも思えるような応援の声を上げていた。

「青コーナー、浪川勇」と名前が呼ばれると、俺はリング中央に出てグローブをつけた両手を差し上げた。デビュー戦に臨む緊張からか、顔が強張っているのが自分でも分った。

 コーナーに戻ると、セコンドにつくサム・オハラハンの指示を猪瀬が通訳した。サムはリラックス、リラックスと声をかけた。何やらカミカゼとも言っている。

「緊張するなんて、お前らしくねえってよ。相手は場数はお前より踏んでるが、いくつも年下だ。心配するな。米軍艦隊に突っ込むつもりだった男っぷりを見せてやれとよ」

 猪瀬はにやにやし、サムは俺に向かって片目をつぶってみせた。

 人が緊張してんのに、ごちゃごちゃしゃらくせえと思った俺は黙っていた。勿論猪瀬にしてみりゃあ俺の緊張をほぐしてくれようと一生懸命だったわけだが、俺は猪瀬を無視してひたすら敵の姿に焦点を合わせていた。

 青コーナーのリング下には、もう一人、俺にとって頼りになる味方が控えていた。 同期の桜の一人、小野滝が栃木から上京してきて俺に声援を送ってくれていたのだ。

小野滝は国に帰ってから実家の農業を継ぎ、俺や猪瀬とは違った道を歩んでいた。だが今日は俺のデビュー戦だというので、猪瀬が奮発してリング前の席を確保し、応援に駆けつけてくれていたんだ。

 勿論、性格の優しい小野滝のことで、派手な応援は期待しないが、それでも何事にも我慢強い味方がリング下に座っていてくれることは、俺にとって何とも心休まることだった。


 対戦相手は高橋貞一郎って奴だ。そのときは十七歳で、俺より七歳年下だが、二年前に十五歳でデビュー戦を勝利で飾ってから、勝ち続けている選手だった。年齢はずっと下でも、ボクサーとしての経験は俺をはるかに上回る。

 色白だがよく締まった体を赤コーナーにもたせかけながら鋭い視線でこちらを見ていた。

 顔立ちにはまだ少年らしさを残していたが、鋭い目つきは客気を感じさせた。よくしまった筋肉質の体つきは厳しいトレーニングに耐えて、試合という頂点に向けて、心も体も十分に仕上げてきた印象を受けた。

 まだ背丈が伸び盛りといった体つきで、減量のせいか痛々しいくらい細く、蒲柳の質のように見えなくもない。しかし決して侮れる相手ではないと、修羅場をくぐってきた俺の直感が言っていた。お互い食うか食われるかだ。

 トレーナーらしき様子の男の他に、一見その筋の男と分る、角刈り着流しで袖から倶梨伽羅紋々が覗く香具師の親分風情の男がセコンドについており、こちらの様子を窺いながら何やら話しかけている。

 十五歳でデビューか。俺が埼玉の実家から、土浦の予科練に入隊した歳だ。その頃の俺は特別攻撃隊員として見事お国のために散華するのだと心を決めていた。生まれ年が数年違うだけで、十五歳の境遇はこんなに違うものかと痛感した。

 このころのデビュー戦は三ラウンドまでで、三回戦ボーイと呼ばれた。この三ラウンドをいかに戦い抜くか。俺は武者震いをすると、グラブを胸の前で合わせた。

 レフェリーが俺と貞一郎のグラブを引き寄せて軽く合わせ、試合開始のゴングが鳴った。

 肝が据わっているつもりだったが、デビュー戦だし、異様な会場の雰囲気に呑まれちまって、自分で思っているよりずっと動きが硬かったようだ。

 顎を狙って大振りしてはスウェイされてかわされ、逆に貞一郎のスピードに惑わされてパンチを食らうのを繰り返した。

 リング下から、小野滝が「浪川、頑張れ」、「行け」と声を上げて応援してくれる。普段の小野滝からは考えられねえが、それだけに俺は貞一郎に夢中で向かって行った。しかし相変わらず試合巧者の貞一郎にかわされ、逃げられ、逆襲のパンチを浴びた。

 早くも顔面が腫れ始めて、かっとなった俺が赤コーナーへ奴を追って行ったとき、女性の声援がリング下の席から聞こえてきた。

「貞一郎、気を付けて。油断するんじゃないよ」

 ひたむきな愛情を感じさせる女の、真剣な声援だった。

 ちらとそちらに目をやると、着物をきちんと着こんだ、目鼻立ちのはっきりした美人が、真摯な視線をリング上に送っている。

 落ち着いているが、若そうにも見える。三十から四十ってとこか。水商売風な印象もするからもっと若作りか。貞一郎の名前を呼ぶところを見ると、母か、姉か。とにかくぱっと目立つ女だった。

 奴のパンチが俺にヒットするたびに、赤コーナーの着流しは、「いいぞ、その調子だ、行け行け」と叫び、リング下の席に座った女は、胸の前で祈るように手を合わせた。

 第一ラウンド終了のゴングが鳴り、青コーナーに戻ると、猪瀬とサムは苦虫を噛み潰したような顔になっていた。サムが盛んに俺に向かって指示を出し、猪瀬が俺の顔をタオルで拭きながら通訳した。

「奴の顔面を狙っても、フットワークがよすぎてヒットせん。フックでボディを狙えとさ」

 サムが愛嬌たっぷりに片目をつぶったんで、俺も腫れてよく見えない目で精一杯ウィンクを返してリング中央へ出て行った。


 第二ラウンドに入っても、貞一郎はスピード溢れるフットワークで俺を幻惑し、パンチがしばしば俺の顔面を捕らえた。唇の右側を切り、右目と右頬は腫れあがってきた。俺は貞一郎を捕らえることができず、相変わらずパンチは空を切るばかりだ。

 救われたのは、スピード身上の貞一郎のパンチがそれほど強くなかったこと。顔が腫れ上がっても、俺は打たれ強いからノックアウトされるまでには至らなかった。「軍人精神注入棒」を耐えた俺だ。そう簡単にやられやしねえ。

 徐々にスピードに慣れ、第二ラウンドの終わりごろには、俺のパンチが貞一郎の胸を捕らえ、奴が顔を歪めて後退するシーンがでてきた。

 ゴングが鳴ってコーナーに戻ると、猪瀬に励まされた。

「いいぞ、浪川。お前のパンチで相手は息ができなくなっていた。その調子で行け」

サムも「OK、OK、ホールドオン」と声をかけた。そのまま続けろとか、頑張れとかいう意味だろう。

 最終ラウンド開始のゴングが鳴ると、猪瀬が俺の肩を叩いた。

「予科練、特攻、ラバウル。一番苦しかった時を思い出せ。本当なら俺たち、特攻かラバウルで死んでたはずだ。今さら何も失う物はねえ。思い切りやってこい」

 俺は青コーナー下で俺を見上げている小野滝とも目を合わせた。右手でガッツポーズを作っている。

 そうだ、俺たちはあの地獄のような戦争を共に生き延びてきた戦友だ。で、あの基地で、サムからボクシングを教え込まれたのだ。今、同期の桜の二人が見守り、敵だったサムが応援してくれる。俺の腕を見せてやろう。

 俺は「ようし」と頷き、自分を鼓舞するために両手のグローブを打ち合わせ、猪瀬と小野滝に発破をかけられてリング中央に出て行った。


 最終ラウンド開始早々、貞一郎が右ストレートを俺の左顎に炸裂させた。俺が一瞬ひるんだんで、奴はチャンスだ、観客の期待に応えてKOできるかもしれないと思ったんだろう。パンチを畳みかけるために飛び込んできた。

 だがパンチを浴びせては逃げる相手に手を焼いていた俺にとって、これこそ待ちに待った瞬間だった。貞一郎のパンチをガードでブロックすると、強烈な右のボディ・ブローをフックで相手の左脇腹に叩きこんだ。

 奴はぐっと呻いて顔を歪め、しまったという表情をして後退りした。

 ここぞとばかり、俺は貞一郎にラッシュをかけた。貞一郎はもはやクリンチで逃れるのが精一杯、回って逃げようとしても、俺がかました重いボディ・ブローで体全体を痺れているらしく、自慢のフットワークが止まっちまった。

 こうなりゃ貰ったようなものだ。右でジャブを放った後、すかさず左アッパーを入れた。奴は棒立ちで、両肘で作ったガードで懸命に顔面を覆う。

 顎をまともに捕えるところまではいかなかったが、ガードの真ん中を打ち抜くような感じになったから、脳天まで響いたろう。

 奴はビクンと全身を震わせ、体が起きた。俺は間髪入れず、もう一度、右のボディ・ブローを相手の左脇腹に突き刺さした。先程のパンチと同じ場所だ。めりっと不気味な音がして、貞一郎はきりきり舞いしながらリングに崩れ落ちた。

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