第5話 国鉄の闇
国へ帰ってしばらくして、俺は復員兵の世話をする政府の仕事斡旋部署に出頭した。
御国に命を捧げるつもりだった志願兵は最も優遇され、GHQの支配下であっても尊重された。だが俺は中学校の半ばで中退だったから、高等教育は受けていない。
体に自信があって、国のために命を懸けたような者は、警察、消防、それと国鉄の下請けの倉庫会社の三つの中から選ばされた。
予科練、特攻隊、ラバウル基地、洞窟生活、米軍捕虜と散々死線を潜ってきて、もう命を懸ける仕事は流石の俺も嫌気がさしていた。
聞こえから言や、警察官や消防士のほうがよかったけれど、俺はあえて国鉄の下働きを希望した。倉庫管理業みたいなものだったが、若くして人生に疲れていた俺は、休息が欲しかったんだ。
昭和二三年五月に、俺は国鉄貨物部通運会社の職員となった。
この国鉄子会社の社屋は秋葉原にあったが、俺の勤め始めの部署は埼玉県の川口駅だった。改札口の切符切りの駅員、つまり、もぎりの兄ちゃんさ。制帽を被って、制服着て、お客の乗車切符にひたすら鋏を入れ続けた。
給料は一月五千円。大卒の新任給が七千円の時代で、中卒としては破格の給料と言えた。まあ御国のために命を捧げただけのことはあったってところかな。
秋葉原と川口の両方に通いやすい場所に住みたいと思っていた。そうしたら、北千住の荒川土手下に社宅があるというわけで、今の住所に住むことになった。
これが俺が千住に住んだ馴れ初めだが、広い川や、運動し放題の美しい河川敷が気に入って、生涯この土地で暮すことになった。
俺は国鉄で何とか食わせてもらっていたが、困難な時代を生きていくためにもっと何か、自分ができるものを身に着けて行かにゃならねえって秘かに焦っていた。
志願兵の優遇なんていったって、そういつまでもあてにできるもんじゃねえ。何しろ中卒だから、とりあえず喧嘩くらい強くなくっちゃ生きていけねえと思っていた。
そんなことで悶々としがちだったその年の暮、ラバウルの戦友の猪瀬が千住の社宅を訪ねてきた。ボクシング・ジムを開きたいそうで、何とラバウルで俺を鍛えたサム・オハラハンを一緒に連れてきた。どう伝をつけたか、横須賀の米軍基地にいるサムに頼んで、コーチをやってもらう話をつけていた。
「サムは浪川のパンチに惚れているようだ。お前はチャンピオンになれる代物だってさ。千住に引っ込んでちゃ腕がくすぶるだろうから、やってみる気はねえかい。お前さえよければ、当てがあるんで、この近場でジムを開こうと思ってるんだ」
俺は実家の土建屋を継ぐつもりになっていたが、考えてみると、子供の頃から自慢の腕っ節と、予科練仕込み、特攻隊志願の大和魂の他、恃むものは何もない。ボクサーとして運だめしをするのも悪くねえか思い、猪瀬とサムに承諾を表し、二人と握手した。
それからというもの、昼は国鉄職員の仕事に精を出し、夕方からは猪瀬が千住に開いたボクシングジムに通って、トレーニングに励むようになった。
ラバウル以来、久々にサムの猛特訓を受けたのも懐かしくてよかったよ。サムがグラブをつけて俺のパンチを受けてくれ、スパーリングもこなしてくれた。
俺は自慢の腕力でパンチをぶん回しがちなんだが、これが一番の欠点だとサムに指摘された。前も話した通り、ぶん回すと相手からよく見えてガードされるから、当たっても効果ないし、体が前にのめるからカウンターを食らうことになる。空手も拳を打ったらすぐに引くのが鉄則だが、ボクシングのパンチも同じだ。
それで俺はサンドバッグでの練習以上に、シャドーボクシングでパンチの型を徹底的に固めた。荒川の河川敷で走りながらシャドーするとき、ひたすら左右のパンチを打っては引きを繰り返した。河川敷のきれいな緑の風景には、サムは感嘆を示し、いつも自転車で付き添ってくれた。
ジムに戻ってきてへとへとになったところへ、猪瀬が縄を持ってくる。嬉しそうに、「この最後の縄跳びが一番きついんだよ」なんて言ってやがる。俺は負けるもんかと縄をひったくり、二重跳びから始めたものさ。
え? その頃の国鉄の職員だったなら、有名な事件があったろうって?
まあな。下山正則総裁の轢死事件のことだろ。もう遥か彼方の過去になっちまったが。あれについちゃあ、関係者全員が口を噤んできたし、俺も同じだ。「黒い霧」とかいうけれど、本当、すべては漆黒の闇の中さ。
何? 聞きてえ? そうだなあ、俺もよくは知らねえよ。
俺がまだラバウルにいた頃の話だけど、戦時中の軍部、行政指導層、日本進歩党、日本自由党などは、一九四六年の公職追放令により、既に政界、企業界から追放されていた。
戦時中から終戦直後までの指導者たちが公職追放されていなくなると、今度は社会主義者や共産主義者たちが、GHQによる追放の対象となった。いわゆるレッドパージだ。
一九四九年、GHQに後押しされた当時の政権は、吉田茂首相を中心として、大量の公務員を人員整理する方針を打ち出した。特に国鉄は職員六十三万人のうち、十三万人を解雇する計画と噂になっていた。
だが俺たちだって黙っちゃいない。秋葉原貨物運送会社で、寺井新吉って奴がいて、俺はそいつと共に労働組合を立ち上げ、寺井が委員長、弱冠二十歳の俺が副委員長となった。
政府にとっての大きな焦点は、誰がこの大量首切りの音頭を取る役をやるかだったが、六月に、運輸次官だった下山正則が国鉄初代総裁に就任した。焚火の栗を拾う役を引き受けたわけだ。命がけの任務だが、まさしくその通りになっちまった。
下山は俺たち労組と果敢に談合を繰り返し、自分に課された使命である大量首切りを推し進めた。それに対して労組は当然猛反発した。
給料引き上げの団体交渉と、連日連夜の会議で毎日が過ぎて行った。
七月四日、国鉄は、第一次解雇者リストの三万七千人の氏名を発表した。
それに対し、「吉田(茂)か下山の魂を取れ」が合言葉となり、怪文書、ビラが広がった。
まだまだ戦後の混乱期で、世の中を覆う空気は殺伐としたものだった。解雇される十三万人の職員の涙に見合うためには、代償として大物の命が必要だったんだ。
そして、事件は起こった。ここからは知ってるだろう。七月五日の午前中、下山総裁が失踪し、翌七月六日未明、常磐線の北千住、綾瀬間の線路上で轢死体となって見つかった。
七月五日の午前十時に日本橋三越に入って行った下山総裁が、どういう経路で常磐線まで連れて行かれ、七月六日未明に北千住―綾瀬間の線路上で轢死体となり果てたか。その謎が解けることは永遠にあるまい。
俺か? 知らねえと言うほかねえな。あんたはどう思うよ?
え? ホシ一味は下山にヒロポンを大量に打って昏睡状態にしておいて、筵巻きにして屋形船に乗せた? で、当時、日本橋三越の裏に流れていた日本橋川を通って、霊岸島と柳橋の間から隅田川に出るって?
横十間川を通って荒川へ抜け、さらに八広の塗装業の工場に下山を納め、夜を待つと。ふんふん。下山の服に塗装工場のペンキがついてたってことだからな。塗装業の工場、ありそうな隠し先かもしれねえな。
で、深夜、闇夜をついて綾瀬側の荒川対岸へ渡り、河川敷にあったロープを収納する倉庫へ下山を運んでから、処刑予定地へ引きずり出し、貨物列車に轢かせる寸法か。
うーん、だがそうじゃねえなあ。
じゃあこういうのはどうかって?
日本橋三越から隅田川に出てそのまま北上、浅草まで運ばれ、その間に服を脱がされた。さらに綾瀬水門から荒川へ抜ける。それなら一番距離が短いか。
いいやあ、それも違うなあ。
おめえさん、船にこだわるな。確かに東京の下町は運河だらけだ。
あの頃は十間川などの運河には家船、つまり水上生活者が山ほど住んでいた。屋形船で水路を通り抜けるなんざ、江戸の昔話みてえでおつでございだが、連中の目をすり抜けるのは困難だな。
じゃあ日本橋三越ですぐ殺されて車で運ばれたんだろうって?
あの事件は替え玉がいたんだよな。
下山と顏と背格好の似た男に下山の服を着せ、生きている下山が京橋から綾瀬まで向かった様子を、乗客らに印象付ける必要があった。下山が自ら日本橋三越から綾瀬まで出向き、自らの意思で死を選んだと筋立てなきゃならねえからな。
替え玉が下山の服を着、京橋から銀座線でから浅草へ行き、東武線に乗り換えて北千住へ、それから国鉄で綾瀬へ向かったわけだ。
だが国鉄総裁ともあろうお偉いさんが、普段だって高級自動車に運転手付きで乗ってるのに、電車に一人でこれ見よがしに乗りゃあしねえよな。それも何度も乗り換えて。
替え玉になった奴だって、事件後どうなったか。殺されちまったかもな、俺は知らねえ。
本物の下山は車で田端駅へ運ばれたんだろうよ。
あのときの俺? 田端停車場にいたよ。れっきとした国鉄職員で労組副委員長だからな。だがいつものように、もぎりの兄ちゃんの仕事をやっていた。
立派な俺のアリバイさ。文句あるめえ。
殺害現場は田端駅の構内か、八広の皮革工場内か、荒川河川敷のロープ小屋か。
日本橋三越ですでに殺されていたのか。確かにそれが運ぶには一番手っ取り早い手だ。
三越に入って行ったとき、たちまち命を奪われる運命とはお天道様だって思いはすめえ。気の毒なことだよ。田端駅にあったといわれる「下山缶」はいたずらか、それとも本当に下山の遺体が入っていたのか。
これも今となっちゃあ、一切は藪の中だ。
まあ割の悪い役巡り、スケープゴートになっちまったんだよな。その頃の日本の矛盾を一人で背負ってあの世に持って行った。
志願兵とは違うけれど、結果的には国に命を捧げたようなもんじゃねえかな。俺にはそう思えるよ。立派な人で、ゆくゆくは首相を襲名する人だったろうからなあ。
黒幕は誰か? 下山の葬式で追悼文を読んだ某じゃないかって?
まあ、そんなところだろうなあ。
もう命を懸ける仕事はこりごりだと思って国鉄に行きゃあ、あんな事件にぶち当たる。俺みてえなのは、何をやっても「犬も歩けば棒に当たる」式で、大事に巻き込まれる運命になっているらしいよ。
結局、国鉄職員は九万人が解雇された。労組副委員長の俺は、責任取らされて首切りの対象になってもおかしかねえが、志願兵優遇の実情もあったんだろう、解雇は免れた。
まあいろいろラッキーだったんだよ。むしろ待遇がよくなって、結局俺は下山事件の五年後、一九五四年まで計六年間、国鉄に勤め続けた。労組の副委員長になって大問題の解決に全力を尽くしたって評価されたようだ。
事情はいろいろだよ。あの時代のことは本当に闇の中だ。
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