第2話 特攻隊
大東亜戦争の旗色が悪くなる一方のこの時期、軍が俺たち予科練習生たちに求めたのは、一通りの飛行訓練を受けてから、特別攻撃隊員、すなわち神風特攻隊となり、爆弾積んで敵艦に突っ込み、自爆することだった。
そもそもこの時期に志願兵になるような人間は、それを目標にしていたと言える。筋金入りの軍国少年だった俺も、勿論そうだ。
零式戦闘機といえば、高性能で世界にその名を知られた優秀な戦闘機だったが、すでに負け戦が濃厚のその頃の零戦は、哀れな出来の機が多かった。
材料不足で翼のバランスが悪かったりして、国のために命をかけて出撃する者が乗るには可哀想な代物だったよ。さらには燃料不足も祟って、敵艦に辿り着く前に、哀れ海中に落ちてしまうことだってしばしばだった。
俺より一つ二つ年上の先輩たちは、十分な操縦練習の時間を与えられることもなく、最低限の飛行機操縦技術を身につけると、ほどなくして特別機動隊の飛行訓練所に配属された。そして文句も言わず、よれよれの零戦に乗って逍遥として任務に付き、あたら命を散らして行った。
し ばらくすると、霞ヶ浦の海軍予科飛行連隊に、誰々は見事御国のために散華されましたという知らせが入る。そういうとき俺は、あの先輩がついに神風特攻隊として敵艦に突っ込んだか、見事、敵艦を撃沈させたに違いないと信じた。
訓練を受けながらも祖国を思う同志としての敬虔な思いに打たれ、いずれはやってくる自分の順番に向けて、心構えを新たにしたものだ。
入隊後丸一年が経った昭和二十年二月、いよいよ特攻隊として出撃するため、俺は中国青島の海軍基地に向けて出発した。当時の神風特攻隊の出発地だ。猪瀬と小野滝も青島行きを命じられた。
俺は航空母艦、蒼龍で出ていきたいと憧れていたが、蒼龍はミッドウェイで撃沈されてすでになかったから、青島へは駆逐艦に乗って行った。
青島基地に着いたとき、今でも心に残る場面に遭遇した。零戦二機が特攻隊としてまさに出撃していくところだったんだ。
乗り手は二人とも六大学卒の俊英だった。零戦のエンジンがかかると、プロペラが回転し始めた。首に白いマフラーを巻いた二人は、右手をこめかみに当ててにこやかな笑顔で礼をすると、機を発進させた。
なんという爽やかな笑顔だったことだろう!
俺は涙が溢れて止まらなかった。猪瀬も小野滝も、志願兵も徴兵も、皆、泣いていた。涙を拭きながら手を振って見送った。
さあいよいよ俺の番かと思い、日々気合を新たにしつつも、不思議に静かな気持ちで出撃の日を待った。
ところが、俺は出撃することにはならなかった。何故かって?
特攻隊は片道燃料で出ていって、墜落しちまうんで、もはや乗る飛行機が残っていなかったのさ。六大学卒の二人が乗って出て行った二機が、最後の零戦だったんだ。
御国のために命を捧げるつもりが、間抜けな顛末だ。
そんなわけで特攻隊として散華する目標がついえた俺は、無聊に過ごした。
このまま何もしないで敵に襲撃されて死ぬのか、それとも帰国するのか予想もつかなかった。だが青島に着いてから一か月後の昭和二十年三月、俺はラバウル島へ配属されることになった。任務は練習機、白菊の整備兵だ。
日中は敵に発見されて撃沈されるので、夜中に青島から乗り込み、漆黒の闇をついて航行した。駆逐艦だった気がするが、自分が乗った船がどんな船だったかもよく分らずじまいだ。四、五日かかったが、撃沈されることなくラバウル基地に到着した。
南洋は美しい土地だが、俺たちにとっては地獄の入り口だった。
弁当箱と呼ばれる四角い三十×四十センチくらいの箱型爆弾があって、紐を引くと爆発する。この弁当箱を持たされ、何人かずつ塹壕に籠って交代で待って、敵が上陸したら爆弾を腹に抱いて自爆して戦車を吹っ飛ばせと指示された。俺たちはその自爆要員としてラバウルに送られたってわけだ。
ラバウル戦線と言えば、米軍機のみならず、敵軍に訓練された地元民の兵隊による襲撃、さらにはジャングルの中の行軍で多くの兵が飢餓や病によって倒れ、本国には激戦にてほぼ全滅と伝えられた戦場だ。でも「死の行軍」なんて言われたのは、日本軍が戦線拡大していた頃の話で、俺たちが行った頃は攻められるばかりの最前線だった。
実際、着いてみると、基地なんてヤシの林の中の数棟の掘立て小屋で、飛行場の滑走路も草だらけ、着陸したら危ねえような代物だった。しかも米軍の空襲がひどくて、毎日いかに逃げ回るかで必死だった。
兵舎の裏に作られた芋畑で農作業をしていると、彼方からゴオーという爆音が響いてくる。八月の南洋の空を見上げると、これでもかと照りつけてくる灼熱の陽射しが眩しい。入道雲がぽっかり浮かんでいる。
俺は畑の隅に置いてあった三八式小銃を肩に担ぐと、マンゴーの林に飛び込んだ。
猪瀬、小野滝も、ヤシの木に覆われた兵舎を飛び出してきた。それぞれ武器を持って密林の奥を目指す。
上空を振り返ると、米軍機ポートスコルスキーが三機編隊で飛んでくる光景が目に入った。反り返った逆カモメ型の両翼が特徴的な、新型爆撃機だ。
ダダダダッと撃ってくる機銃掃射の音がして、土埃が跳ね上がる。
俺たちはもはや後ろを振り返らず、ジグザグに林の中を駆け抜けた。
烈しい光が背後に広がると、「やられる!」と思って覚悟した。だが何とか密林の奥に入り、逃げ延びると、猪瀬と顔を見合わせてほっと息をついた。
本来なら高射砲を撃ち返すところだが、下手に撃てば十倍、二十倍になって返ってくる。それに大砲を撃ちたくとも、大砲を運ぶ船が全て沈められていた。
それからも毎日、日中に米軍が三機編隊でやってくる。両翼が逆カモメ型のポートスコルスキーといい、双胴型のP38型といい、米軍の飛行機は個性的で風変わりな格好だ。日本軍の零戦の攻撃重視の性能一本槍で、最軽量のシンプルな造りに較べて、余計な構造を付け足していると、いろいろな方向から風圧を受けやすかったりするだろう。
だが目が慣れるに従い、グラマンを始めとする敵国の戦闘機の格好よさが恨めしく思えた。物量で圧倒する米軍のことで、仮に多少の機動力の違いがあろうとも、そんな程度のことはものともしない。攻撃性能よりも被弾への強さを重視し、飛行機のデザインに凝るとは、いかにも余裕をかまされているようで、悔しくも、羨ましくもあった。
何しろこっちが「欲しがりません、勝つまでは」ってやってる最中に、「風と共に去りぬ」なんて贅沢な映画作ってやがるんだからなあ。いかんせん、国力差がでかすぎた。
かつては世界一の戦闘機として名を馳せ、敵軍から恐れられた零戦も虫の息で、ラバウル基地には零戦三機、一式偵察機一機、陸攻一機を残すのみ。俺が配属された年の四月の時点で、連日の米軍の爆撃によって、基地としての機能をすでに失っていた。
敵の攻撃も、次第におざなりなものになっていった。日中の決まった時間に判で押したように気がなさそうに飛んできた。米軍の偵察機は上空を飛びすぎるだけで、威嚇射撃もたまだった。
日本兵を見つけると機銃掃射してくるが、姿を隠してさえいれば、撃ってこなかった。逃げ回ってばかりいるのは、情けない限りだったが、彼我の物量の差はあまりにも大きく、如何ともしがたかった。
米軍の目標は、ガダルカナル、テニアン、ロタ、サイパン、レイテと日を継いで北上していった。噂によれば、既に硫黄島、沖縄戦を経て、本土空襲に及んでいるという。そんな中で、最前線だったはずのラバウルは取り残されたように放っておかれていた。
昭和二十年八月のこの時期、米軍は、日本軍にもはや戦闘能力なしと見ているらしかった。後になって聞いた話によれば、ラバウル島は湾が深く入り組んでいて攻めにくいので、無駄な被害を増やさないよう、毎日偵察隊が巡回するだけで良しとしていたそうだ。
マッカーサーはラバウル殲滅を主張したそうだが、米軍の方針は変わらなかった。まあおかげで俺たちラバウル守備隊は命拾いした結果となったわけだが。
ところがある夜、闇夜の向こうから、編隊の爆音が聞こえた。グラマンの爆音だった。
「空襲! 空襲!」と基地中に警報が鳴り渡る。
いつも昼間に編隊が偵察に来るのだが、今日はそれすら来ないなと思ったら、こちらを攪乱して夜間に空襲をかけてきた。昼は訓練に出ているが、夜なら皆兵舎にいると思って狙ってきたんだろう。基地に残った者を残らず炙り出そうって寸法だ。
ドカンドカンと音がして派手な光に照らされたので、振り返ると、兵舎が燃え上がっている。焼夷弾を落としやがったようだ。俺は仲間と一緒に、林の夜の闇の中へ逃げ込んだ。虎や豹に襲われる可能性が高いかもしれないが、米軍の爆弾にやられるよりはましだ。
掘立て小屋で暮してきたが、これでいよいよ屋根もない野良暮らしになった。
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