第1章 語り手 浪川勇

第1話 予科練入隊

 よお、星野さん、いらっしゃい。入院中は見舞い、ありがとうよ。

 俺も若いころから大酒飲みだったが、アルコール性肝硬変だそうだ。あんたが入院の手配をしてくれて迅速に対応できたんで、命拾いしたよ。漸くめでたく退院だ。

 元気そうだ? まあな。この浪川勇、丈夫だけが取り柄だ。

 で、退院したところで早速俺の話を聞きてえって? 退院たって、まだ倒れて一月、だいぶ良くなったがしゃべれるかな。まあそこのソファに座れや。話って何を聞きてえんだ?

 俺ほど波乱万丈な人間はいねえ、日本男児の誉れだ、生き様を記録に残しておきてえ? そんな持ち上げたって何も出やしねえぞ。

 つい先頃は荒川土手に座って景色に見とれているようだったが、仕事のほうはどうだい? 土手を上っていったら、あんたが座ってぼーっとしているから、何か悩み事でもあるのかと心配したぜ。

 泪橋の鳳病院は、先代院長のあんたの親父のときからドヤ街の医療を支えた大切な病院だ。親父さんが急に亡くなって、若いあんたが急遽病院長じゃあさぞ大変だろうが、左前になってもらっちゃあ、あの一帯の住民は困っちまうから、頑張ってくれよ。

 お宅がここに住むようになって一年になるかな。なかなかいいところだろう?

荒川土手下だけれど、一度土手に上がっちまうと、あの絶景だ。あの放水路ができたのは俺さえ生まれる前だが、広い河川敷の緑の芝と、悠々たる川の流れを見るのが今じゃ地元民の生きがいだ。土手に座って風景を見ているだけで心が癒されるだろう。

 まあ仕事ばかりやっていると気がつかねえうちに疲れがたまって、外科の若い先生なんかは過労死することもあるらしいから、気を付けたほうがいい。

 時々激しいスポーツをやると、自分の体力がどれだけ日々の仕事で落ちているか分る。それさえ把握してりゃ、突然過労死なんて馬鹿なことにゃならねえ。

 あんたはお医者さんで忙しいのに、土方仕事や自家農園づくりに熱心で感心だ。外回りには金をかけず、塀も造らず、外周にパネルを敷きつめる作業を自分でやるってんだから、偉い。俺も隣家のよしみで協力しなきゃってわけで、日曜毎にあんたが庭に出てくるのを見計らっては、手伝いに行ってるのさ。

 俺はこう見えても大のきれい好きでな。家の掃除や整理整頓、外周りの手入れは一切妥協はない。毎日俺の家の庭と周りの道路に水を撒いている。犬の砂場、菜園、玄関までのアプローチ。雨の日でさえ水を撒くって陰口叩く奴もいるが、自分ちをどうしようと俺の勝手だろ。そんなわけで、隣の家が家周りをきれいに整えているかは、俺の関心事のかなり上位にあるんだ。


 あんたが越してきたとき、九mのセメントパイルが二十本立ったんでマンションができるのかと思った。そうしたら木造の二階建てができたんでびっくりしたよ。

 まあ荒川の土手下で洪水を繰り返してきた土地柄で、地盤が悪いからな。伊勢湾台風の時なんか、ここら中水浸しでうちだって一階の床は全部水に浸かっちまったんだ。

 あの地盤改良は金がかかったろう。百万? まああれだけセメントパイル打ちゃそのくらいかかるだろ。でも金かける価値のあるところに金かけてるよ。九mのパイルなら下の岩盤まで届くからな。要塞みてえなもんだ。大地震が来たら、あそこらの住民は皆あんたのところへ避難するからよろしく頼むぜ。

 あんたは土方仕事や自家農園づくりが好きなようだな。日曜毎に庭に出てくるのを見計らっては、見に行ったもんだ。あんたときたら、農作業や土方仕事のことなんぞまるで分らねえらしいから、色々面倒見てやった。俺もお節介焼きだよな。だからいつも世話役やらされるんだが。

 木の切り株の起こし方は分ったか? 下手に幹を伐っちゃいけねえ。周りの土をきれいに掘って、てこの要領で起こす。土方仕事だってコツがあるのさ。俺が働けるようになったら、また鶴嘴貸して教えてやるからよ。


 まあそこのソファに座れや。一杯飲みながら話そうぜ。

特攻のことを聞きたいか。言ったじゃねえか。特攻には結局出撃してねえって。出撃してたら今ここにこうしてねえよ。

 そういえば、あんたには隣家同士のよしみで、庭先でいろいろ話したっけな。

「あなたの人生の物語について、一度伺わせてもらえませんか」って頼まれたっけ。「俺の人生の物語」か。そうだなあ、まあたってのお望みなら、隣同士の付き合いでもあるし、話してやるか。勢いだけで生きてきた人生で、墓場へ持っていくつもりだった話ばかりだが、面白く思ってくれるなら話し甲斐もあろうってもんだ。


 俺は昭和四年、埼玉県南部のある村で、土建屋の長男として生まれた。

 生まれつきの餓鬼大将で、スポーツは何でもござれ。軍隊に行ったのは、中学校半ばの十五歳のときだ。両親にも言わず、米の配給札を持って六本木の日本軍司令部に赴き、志願兵として入隊を希望したんだ。

 海軍から入隊を認める証書が届いて、両親は驚愕した。

 その頃には米軍による本土空襲が始まっていて、東京市民は田舎に疎開を始めていた。

 もう戦争が三年も四年も続いてたから、世の人々は厭戦気分になっていて、徴兵はともかく、志願兵など村中探したってもう一人もいねえ御時勢だった。でも熱血軍国少年だった俺は、国に命を捧げようと志願したわけだ。

 驚いた親父は、息子はまだ十五歳で長男だ、どうしても返してくれと必死で軍に抗議した。でも軍のほうでは、もう書類も出来上がり、海軍軍人になっているから返せないとの返事だった。俺は実家へ顔を出してもう入隊したと宣言して両親を泣かせたが、俺の気持ちが変わらないのを見て、やむなく村を挙げての出征祝いとなった。

 肉など入手できない時勢だったが、あらゆる方法で肉を調達し、皆が囲んで見つめる中、豪勢な食事を十五歳の俺が一人で食った。

 かくして俺は村中で祝われ、「祝浪川勇君海軍予科飛行練習生入営」と書かれた幟を掲げた家族親戚村人一同の列に見送られて、上野駅から土浦行きの列車に乗り込んだ。

 昭和十九年二月、予科練習生十五期乙種として俺は霞ヶ浦に臨む基地に入隊した。


 予科練に入ると、早速軍事教練漬けの毎日が始まった。

 午前中は陸戦の教練だ。陸戦は戦闘の基本だから、海軍でもまず最初に陸戦の訓練から教練が始まる。

 最初は三八式歩兵銃の扱い方、組み立てだ。三八式は明治三八年に陸軍が開発した銃で、それが大東亜戦争の時代までずっと使われていたのは驚きだ。逆に言えば、明治十二年に開発された村田銃をはじめとして、日本の銃の製造技術がそれだけ優れていたということだろう。単発式、五発入りで、撃つと薬莢が飛んだ。

 しかし日露戦争の栄光を背負った三八式も、米国相手の戦争の時代にはもう時代遅れで使える銃じゃなかったから、新たに九九式歩兵銃が開発された。九九式は弾倉に五十発入っていて、連射することができる。

 土浦の予科練には五十丁ほど置いてあった。この銃のいいところは、スタンドがついていて匍匐前進のときに銃を立てられることだ。当然、標的を狙いやすい。俺たちは十mから二十mくらい先の標的に向けて腕を磨いた。

 初めのうちは、兵舎に帰ってからもくたくたで、昼飯を食う元気もなかったものだったが、徐々に慣れて行った。

 午後は別課といって、柔道、空手などの各種格闘技の訓練だった。俺は子供時代から運動は何でも得意で、特に格闘技は好きだったから、早々に柔道の有段者になった。別課で野球をやることもあった。少年野球ではピッチャーだったが、軍隊でもピッチャーだ。

 陸戦の訓練が一通り身についてくると、今度はいよいよ飛行訓練だ。

 有名な黄色い練習機の「白菊」に乗っての操縦訓練で、操縦者の他、教官と練習生二人の計四人が乗ることができた。俺は軍隊の訓練はどれも好きだったが、特に飛行機の運転は好きだった。大空飛ぶ時の快感は何物にも代えられねえ。

 予科練同期の志願兵に、猪瀬と小野滝という奴がいた。

 猪瀬は千葉、小野滝は栃木の出身で、埼玉の俺と合わせて関東三人の同い年は仲が良く、一緒に白菊に乗ることもしばしばだった。猪瀬はおしゃべりで世話焼き、小野滝は寡黙で誠実、三人三様の性格で、話の口火を切るのは大抵、猪瀬だった。夜も兵舎で、窮地に追い込まれた現在の日本の情勢、特攻へ駆ける思いなんかを熱く語り合ったものだ。

 俺たちは三人とも昭和四年の生まれだ。世界大恐慌が起こった年だから、いわば世界が第二次世界大戦へ向けて転がって行った時代だ。

 いつになったら明るい時代がやってくるのか分らなかったが、俺たちは捨て石になって国を救うつもりでいた。


 軍事教練の毎日は飛ぶように過ぎていった。何しろ軍隊のことで、訓練は厳しい。ついて行けない者は勿論、そうでなくても新兵たちは容赦なく「軍人精神注入棒」を食らった。

 これは野球のバットを削って八角にしたもので、壁に手をつかされて尻を出させられ、この棒で殴られる。尻を撫で上げるように、こすり上げるようにしてぶつんだが、これが痛えのなんのって。噂には聞いていたが、気を失うほど痛い。

 土浦の予科練もそうだが、よく覚えているのは軍艦の甲板でやられたときの経験だ。

軍艦では新入りの二等兵は料理番をさせられる。料理番は朝一番に起きるが、厨房へ行くと、上等兵が軍人精神注入棒を持って待っていて、これから気合を入れると言って朝焼けの甲板に連れて行かれる。欄干に手をつかされ、尻を出せと言われ、仕置きが始まる。

 何も悪いこたしてねえが、恒例の新兵いじめだよ。薄明の美しい紫色に染まる空を見つめながら、俺は歯を食いしばった。

 しかしぶたれ慣れてきて、尻に胼胝ができるようになってくると、徐々に痛くなくなってきてなあ、何だか快感に感じられるようになるのが不思議だったよ。

 倒錯なのかもしれねえが、これも軍隊生活への適応だな。俺は適応力の強い人間で、軍隊のような厳しい環境が性に合ってたんだろう。

 だがそんな人間ばかりでもない。意気を持って志願してきた同期の新兵で、訓練の辛さや軍人精神注入棒の仕置きの痛みに耐えかねて脱走する者がいた。

 一緒に脱走しないかと持ち掛けられたが、俺は根っから軍人気質でそんなことは考えられなかったから、聞かなかったことにしておくと答えた。

 その男はあえなく捕まって営倉入りとなり、二日間、水のみで飯なしの罰を受けた。通常の徴兵だったら脱走兵は銃殺になるところだが、志願兵だったので救われた。仮にも国のために命を捧げようと入隊してきた志願兵だ。銃殺するわけにはいかない。

 そいつは許されて内地勤務となり、青森の三沢基地へ行った。軍隊も意外に情状酌量があるものだと思ったよ。そいつがその後どうなったかは知らない。

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