第51話 一人でいい
シロと別れてからしばらく歩いていると、不意に見えない糸で引っ張られる様な妙な感覚に見舞われる。その感覚に従って、引き付けられる方向に足を向ける。
いくら歩けども変わらない真っ黒な世界だ。どこに向かっても変わらないだろう。
進んでいくうちに引き付けられるような感覚が段々と強くなっていって、目的地に近づいているのだと、不思議な確信を抱く。
代り映えのしない辺り一面の黒。
そこに突然うずくまっている人が現れる。
本当に突然だった。
最初は小さく見えたが、段々と大きくなるというようなことも無い。
ほんの少し前までは何もなかったはずなのに、十メートル程先に突然うずくまっている人が現れた。
試しに一歩下がってみると、黒い幕がパッと被せられたかのように人影が消える。
もう一度踏み出すとその幕が取り外されたみたいに人が出現する。
これまで代わり映えのしなかった景色に変化があったのが嬉しくて、十回ほど行ったり来たりを繰り返す。
「…く、くふふ……」
やばい。楽しい。
「ふふ、うくくく……」
人影が消えたり現れたりするのがこの上なく面白い。
「くくくっ」
こみ上げてくる笑いを抑えることができず、腹筋がぴくぴくと痙攣する。それを押し込めようと、手で腹を抱えてうずくまる。
自分でも何が面白いのか分からない。
しかし、これまでずっと変わることの無かった黒に、異物がぽっと現れるのがなんだかおかしくて、笑いが止まらない。
いないいないばあできゃっきゃと笑う赤子もこんな気分なんだろうと、ぼんやりと考える。
「……何か用?」
聞き覚えのある声に、腹を抑えながら顔を上げる。
先ほどまでうずくまっていた人影がすっくと立ちあがりこちらの方を向いていた。
知美だ。
目を隠すように包帯を巻いているのはいつも通り。
だが、服装は制服でなく飾り気のない喪服だった。そのシンプルさと知美の控えめな声が貞淑さを醸し出していて、不覚にもドキッとしてしまう。
「あなたも、私を笑うの……?」
返事をしようと笑いを抑えようとするが、出来ない。
自分の意思とは裏腹に溢れてくる笑いに段々と恐怖が湧き出てくる。
何がおかしいのか自分でも分からない。だというのに笑いがこみ上げてくる。
「あがっ、あはははは」
酸欠で頭がくらくらしてきた。
それでも止めることのできない笑いを抑え込もうと、腹に力をこめる。
「ぎゃは、ぎゃはははははは!!」
自分のものとは思えない耳障りな笑い声に唖然とする。
笑いを止めようと必死になればなるほど声が大きくなる。
自分の体だというのに思い通りにならないという未知の感覚にパニックになる。
どうすれば笑いが止まる。
どうすれば……。
どうすればいいんだ……。
そんな中身のない問いかけだけが頭の中を行き来し、建設的な思考が全く浮かんでこない。
しまいには涙まで出てきた。
涙を流すなんて、何年ぶりのことだろう。
この涙は笑い続けたことによる生理現象か、もしくは怖れによるものか。
パニックになった頭の片隅でぼんやりと考える。
「もういい。あなたもそうやって、私を笑いものにするのね……」
自分の笑い声の向こうから聞こえてくる絶望を押し殺したような声に顔を上げる。
にじむ視界の向こうにいたのは、奥歯を噛みしめて何かをこらえるように顔を歪ませた知美。
「……いらない。こんな、こんな世界……!」
嘆くような響きの知美の声に段々と力が入っていく。
「私を……!私に、優しくない!そんな……そんな世界!!」
最後は叫ぶようにいうと、力なく俯く。
「だったら、もう……ひとりでいい」
ぼそっと呟くような知美の声。
「っ!」
知美が言い終わった途端に強い風が吹いてきて宙に身を飛ばされる。
上も下も分からない真っ黒な世界。
どのくらいの高さなのかも分からないまま、沈んだり浮いたりする感覚に、ただただ不快さばかりがたまっていく。
しばらくすると吹き付ける風が収まって、自由落下に転じる。
景色は相変わらず変わらない。真っ黒だ。
それでも、全身の血液が置いて行かれる様な独特の感覚に、落ちているのだと認識する。
「は?」
突然目の前の景色が変わって呆けた声が出る。
辺り一面の真っ黒な世界。
それが突如映像でしか見たことの無いような農村の牧歌的な風景に変化する。
ちらりと後ろを振り返る。
そこに広がるのはどこまでも続く澄み切った青空。
黒なんてどこにもない、見ているだけで気分が晴れてしまいそうになる吸い込まれそうな青。
知美の世界は基本的に黒一色。
何かがあったとしても、近くに行くまでは分からない。
ある程度近づいたとたん、急に具現化する。
空を見上げながら、なんとなくこの世界のことが分かってきたような気分になる。
気が付けばこみ上げてくる笑いも収まっている。
多分、知美が視界の外に消えてから。
知美が見えなくなった時点で、呪いのような笑いは消えていた。
ドーーン!!
空を見上げながらぼんやりとそんなことを考えていると、妙にコミカルな衝突音があたりに響き、落下速度に対して軽すぎる衝撃が遅れて襲い掛かる。
ずっと上空から落ちたというのに、後ろから人に押されたくらいの衝撃。
想定と現実に起こったことのギャップにしばし戸惑うが、こういう世界なのだろうと無理やり納得して、落下の衝撃できたクレーターから這い上がる。
「すげぇな」
目の前の風景が新鮮で、自然と声が漏れてしまう。
辺りに広がるのは映像でしか見たことの無い世界。
田畑が延々と続き、ぽつぽつと一戸建ての家が建っている。
食料はアーコロジー内の工場で生産しているから畑なんて見たことも無いし、安全な土地はわずかにしか存在しない壁の外で一戸建てなんて見たことが無い。
どんな富豪も土地をそんなに無駄に使うことはできないだろう。
初めて見る景色。
だというのに不思議と懐かしさが感じられ、心が凪いで行く。この風景は遺伝子に刻まれたものなのだろうか。
落下地点は畑の真ん中だったらしい。そのまま土の上に座り込む。
さわやかな風が頬を撫でて、くすぐったい。
風が運んでくる土の匂いを胸いっぱいに吸い込む。
平和だなぁ。
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