憂鬱男のオルタナティブ

尾高 凛斗

日々は変わり続けて

 



「お疲れ様でしたー…」



 まだ働いている仲間たちに背を向け、会社から出る。


 仕事が終わり、家へと向かう時間。


 この時間を幸せと感じる人は結構多いだろう。


 だというのに、自分の足取りはすごく重たい。


 家にいても全く気が楽ではないのだ。


 自宅の玄関につき、戸を開けて中に入る。



「ただいまー…」



 自分の呼びかけに対して、何も返ってくることはなかった。


 それは家に誰もいないから、というわけではないのだが。


 リビングに入ると、やはり妻の香里奈が夕食の準備をしていた。



「…ご飯、ありがと…何か手伝うことは…」


「ないから。仕事から帰ってきたままでキッチン入らないでよね。さっさと風呂行って。」


「うん…」



 昔は帰った途端、すぐに笑顔で駆けつけてくれたというのに。


 今ではこの有様。流石にちょっと悲しくなる。


 まぁ多分、彼女が自分の何に対してそんなに不満があるのかが分かってない時点でダメなんだろうけれど…


 嫌われてるのは…まぁ良いとして、香里奈が笑わなくなっちゃったのは本当に嫌なのだ。



「どうすれば良いのかなぁ…」



 浴室で僅かに響いた自分の声が消えていく。


 いっそ別れた方が彼女のためなんだろうか…


 何度も考えたが、やはり彼女の気持ちなんて分からない。


 ため息をつきながら浴室を出て、リビングに戻る。


 夕食を済ませた後、食器洗いは俺が…と思ったが、これまたお前はやらなくて良いとあしらわれた。



「じゃ、じゃあ俺部屋で余った仕事片付けてるね…」


「はい。」



 寝室の机に向かい、鞄から書類を取り出す。


 眠気も相まって、少しぼーっとしながらシャーペンを走らせ続けた。



「…」



 頭空っぽで作業を続け、ふと時計に目をやる。


 10時15分。少し早いが、ほとんど片はついたしもう寝ることにした。


 明日も、またこんな感じなんだろうか…










「……うっ…?」



 目が覚めた。


 それ自体は何らおかしいことではないのだが、なんだか体が苦しい。


 まだぼやけてる視界で自分の体を見てみる。



「…あ?…え!?な、なんでだ…?」



 …驚いた。自分は香里奈の…妻の服を着ていた。


 そりゃ窮屈なのも当然…だが一体どういうことだ!?



「…ん…どうしたの…?」



 自分の声に反応したのか、隣で寝ていた香里奈も目を覚ます。


 そしてこちらを見て目を見開いた。



「あ、いや…!違う…くないけど!俺も分からなくて…」



 必死に弁明する自分へ、彼女はポツリと呟く。



「…なんで戻ってるの…?」


「…え…?」


「なんで!?なんでケンジじゃないの!?」


「ん!?いやいや何!?」



 ケンジ…?もちろん、自分の名ではない…俺は謙也けんやだから少し違う…



「ま、待って!落ち着いて…何かあったの…?」


「何かあったって…!昨日!何故か寝てる間にあんたが子供になってたんでしょ!」


「………んん??」


「何…?あんたも知らないの…?」



 昨日、子供に、なってた。


 どういうことだ…?



「いや…もうちょい詳しく…」


「…だから、朝起きたらあんたがいなくて、代わりに8歳くらいの子がそこにいたの!どっかの子が忍び込んだ訳でもあるまいし…あんたの服着てた上にところどころ似てたから、あんたが子供になったとしか考えられなくて…」



 慌てて時計を見る。



「…うわ…2日、経ってる…えマジで俺?いや何…」



 2人揃って大困惑の渦中に。


 イマイチ状況が飲み込めず、頭の中がグルグルとした。


 しかし周りの状況を見る限り、彼女の言うことは正しいように思える…


 そんな中、ふと俺の脳内にある男の顔が浮かび、その名が無意識に口から出た。



「…忠利ただとし…」


「え…?」


「あ、いや…友人で、医者の奴がいる…2人で唸ってても全く分からないし…相談してみるのはどうかと一瞬思って…」



 何を言い出すかと思ったら何だそれ…と言った感じで、妻は一層困惑の表情を強める。



「…い、医者だからってこんなトンデモ現象の原因がわかる訳…?」


「そりゃそう…だけど…あいつは本当に頼れるやつで…」



 それを聞いた香里奈は、少し視線をウロウロさせてから息をつく。



「…まぁ、良いんじゃないの?解決できるならさっさと解決して欲しいし…」


「…というか、昨日も大変だったんじゃないか…?急にそんなことになったっていうなら…」


「うん…いや、あのさ…」



 少し冷静さを取り戻したのか、彼女は嫌そうな顔をして俺の体を指差す。



「とりあえず自分の服着てくんない…?」


「あ…ごめん…」















 ガチャン、と玄関の閉まる音が後ろで鳴る。


 今日は仕事が休みなので、あちらの都合がつく時間に忠利の元を訪れることにした。


 車を走らせながら、先程香里奈から聞いた話を頭で整理する。


 まず、俺は昨日の朝子供になっていた。


 どうやらその子には"元は俺だった"ということどころか、大した記憶が無いらしい。


 まぁ、本当に元が俺なのかは定かでは無いけど…ほぼ確定だろう。


 そこで香里奈はひとまずその子をケンジ、と名付けた。


 そのまま一日ケンジと過ごして…そんで、今朝になったらまた俺に戻ってた。


 まだ自分の服の方がサイズが合うと思ってケンジに着せたらしく、そのせいで朝はあんなことになったそうな。


 まー大変だったろうな…一日休みのつもりだったのに、急遽子供の面倒見なきゃならなくなったんだし…


 体調不良、ってことで俺が仕事場に行かなかったことも何とかしてくれたらしい。本当に頭が上がらない。


 彼女のためにも、一刻も早く解決策を見つけないと…!










「お、来たか。」


「よう。悪いな、急に。」



 診察室に入ると、忠利はキーボードを叩いていた指を止めてこちらを向いた。



「そんで…わざわざ事前に連絡してまで聞いて欲しい話ってのは?」


「それが…」



 俺は事の顛末を、とりあえず知る限り説明した。


 見るからに"は?"って顔を何度かされたが、忠利はひとまず最後まで聴いてくれた。



「…って感じなんだ。」


「なーるほど…」


「何か分からないか…?」


「いやー…」



 忠利は宙を見つめながら暫し沈黙する。


 こちらも黙って彼の言葉を待ち続けてると、満を辞して口を開いた。



「…流石に、無茶苦茶な話すぎる。お前だってそんな事例、聞いた事ないだろ?」


「そ、そう…だよな…お前ならワンチャン、って思ったんだけど…」


「とりあえず、また子供になったら連れてくるよう奥さんに言ってくれ。」


「うん…え?し、信じてくれるのか?」


「当たり前だろ。そんな嘘ついてお前に何のメリットがあるんだ。」



 …こいつはかなり昔から付き合いがあり、最も親しい友人で間違いないだろう。


 とは言え、こんな話を聞いてもふざけた冗談だと思わず真面目に取り合ってくれるなんて…


 俺は良い友人を持ったものだ。



「ありがとう…正直、お前が信じてくれなかったらもう誰が信じてくれるんだって感じだったから…」


「まぁな。俺も、お前が言うんじゃなきゃ多分信じねえよ。…今日はとりあえず、レントゲン…は良いや。血液採取だけしよう。」


「分かった。」



 チョロチョロッと俺の血液を抜き、少しだけパソコンの画面を見つめてから忠利は立ち上がる。



「一応、異常がないか少しだけ検査してみるけど…今日は仕事が終わるの遅いから、あんま期待すんな。真面目に解決策を探すとしたら、お前がもう一回子供になってからじゃないと難しい。」


「分かった。さっき言われた通り、また何かあったら妻に連れてってもらうよう頼むよ。」


「あぁ。ま、休みの日でも事前に連絡くれたら基本どうにかしてやる。」


「悪いな本当…ありがとう。」



 忠利はフッ、と笑ってから机の上の紙を俺に渡す。



「おう。じゃ、これ受付に出せ。勤務時間中だから診断料は貰うぞ。」


「いやいやもちろんだよ…じゃあまた、よろしく頼む。」


「んじゃな。」



 ここまで力を貸してくれる友人がいるなんて、俺はめちゃくちゃに運がいい。


 当事者だし、俺も何かしたいけど…現状、特にできることはないよな。


 とりあえず帰宅し、忠利にされた話を香里奈に伝えた。



「じゃあ、またケンジになったら連れてけばいいわけ?」


「うん。まぁ昨日は香里奈が運良く休みだったから良かったけど、そうもいかない日は来るだろうし…」


「その時は職場に悪いけど、休ませてもらうよ。うちはそういうの、大抵認めてくれるし。流石にあんな小さな子を1人きりには出来ない。」


「そうか…本当にすまん。」


「別に。あんただって、好きで子供になってるんじゃないんだし。」



 香里奈はそう言ってくれてるが、やはり少し疲れてるように見える。


 身体的なものだけでなく、不安や動揺による心の疲れがあるのだろう。


 彼女のためにも、出来るだけ早くこの超常現象を治したいんだが…




 この日はそのまま、特に何の異常も無く過ごすことができた。


 俺は多少の困惑を抱えたまま、眠りにつく。
















 …またこの窮屈な感覚…


 まさか、と思いながら寝起きの脳で周囲の状況を把握する。



「…2日、経ってんな…」



 おまけに自分が着てるのは香里奈の服。


 間違いなく、俺は再びケンジになったのだろう。


 程なくして香里奈も目を覚まし、こちらを見て軽く息をついた。



「…また、戻ってる…」


「香里奈…やっぱり、昨日もなったんだな…?」


「うん…」


「参ったな…こうも頻繁に入れ替わっちゃ、本当に厄介だ…」


「…あ、そうだ…先に…」



 俺が自分の手を見つめながらため息をつく横で、香里奈はスマホを手に取った。



「…ちょっと、これ見て。」


「何だ?」



 彼女はそう言って、俺にスマホの画面を見せてきた。


 何か動画が流れている。


 小さな男の子が1人、不安そうな面持ちで立っている。



「これは…」


「ケンジから、あんたへのメッセージ。」



 画面の中のケンジが喋り出す。



『…謙也さん…あ、うん。えっと、謙也へ。』



 なんか今小さな声で、呼び捨てでいいよって聞こえた気がする。


 いやまぁ呼び捨てでも構わないけど。今気にするべきはそこじゃないしな。



『ケンジです。香里奈さんから色々話を聞いたけど、正直まだ良く分かってない。僕は本当は大人で、若返った上に記憶が無くなってるなんて言われても、うーん…って感じ。もし本当にそうなら、僕って一体何なんだろうって感じがして…それに、いつか消えちゃうかもしれないってことだし、すごい不安なんだ…』



 彼の言葉を聞いていて、やっと気づいた。


 確かに、今一番怖くて怖くて仕方がないのはケンジだ。


 もうしっちゃかめっちゃか、ただでさえ記憶が無いと言うなら大混乱状態だろう。


 それに、ケンジは新たに生まれた"個人"と言えるんだ。


 …俺や香里奈の都合だけで色々決めるのはよろしくないかもしれないな。



『香里奈さんや医者のお兄さんは優しいし、結構気持ち的には楽しいよ。けど…僕、どうしたら良いの?出来れば謙也からのメッセージが欲しいな…』



 動画の再生が止まった。



「…ってなわけ。」


「…なるほど。俺、ケンジのこと全く考えてなかった。」


「まぁ、あんたは会ってないしね。こんな感じに伝言を録画すれば会話できなくもないけど、大したコミュニケーションは取れないし。ケンジのことは私と忠利さんに任せてくれても良いんだけど。」


「そうか。…うん。けど…」



 そう言って俺はベッドから立ち上がる。


 ケンジを安心させたいし、同じ状況に陥った者同士情報共有もしたい。



「とりあえずメッセージを送らせてくれないか。俺から言いたいこともあるし。」


「…あーうん…それは良いけど…」



 香里奈は呆れたような顔つきで俺の体を指差す。



「私のじゃなくて、自分の服着て伝えた方が良いと思うな…」


「あ…ごめん…」




















「よう。…にしてもまぁ、驚いたな…」


「あぁ、本当だったろ?」



 俺はもう一度、忠利に話をしに来た。



「とりあえず、先に言っとく。昨日ケンジには会えたけど、この現象をすぐさま解決なんてのは無理だ。お前とケンジ、2人を色々検査しなきゃ何も分からん。」


「まぁ…長くなるかなとは思ったよ。俺に出来ることは何でもやるから。」


「そうだな。…お前、有給使えんのか?できるならしとけよ。どのくらいかかるかも分からないし。」


「あぁ、そのつもりだよ。いつまでかかるか分からないのに、これ以上体調不良で通し続けるのは無理があるしな。急に何日も連続で休ませて欲しいって言われちゃ、驚くだろうけど…多分、許可は降りると思う。」



 既に昨日と3日前で2回も、休ませて欲しいと言う連絡を当日の朝、急に会社にしてしまった。


 正直これ迷惑すぎるし、仕事に行ってるとこっちを何も手伝えなくなる。



「ひとまず、お前にして欲しいことがいくつかある。それで、俺の考えが正しいかどうか…それと解決策も探っていく。」


「分かった。いくらでも付き合うよ。」






 それから俺は忠利にあちこちへ連れてかれ、透明な薬を飲んだり、寝かされたり、なんかでかい機械に入れられたりした。



「…入れ替わる条件は、ただ寝るだけじゃないのか…やっぱり、1日一度という制約を作る何かが…?」



 忠利はパソコンに色々打ち込んだり、紙によく分からん走り書きをしまくったり、物凄く必死になってくれてる。


 俺はただ見守るだけ…仕方がないのだろうけど。



「…とりあえず、今日はここまでだ。もう時間がない。…ほぼ確実に、明日はケンジになるんだろう。ケンジの方でも調べたいことはあるから来てくれ。お前だけでもまだやりきれてないんだ。」


「分かった。本当、助かるよ。」


「あぁ、金はいらないからこのまま帰ってくれて良い。」


「え!?な、なんでだよ!こんだけやっといて…」



 そう声を上げた俺の方を忠利はチラリと見て、それからまたパソコンの画面に顔を向けた。



「…こう言っちゃあれだが…正直、めちゃくちゃ面白いんだ。こんな前代未聞のことについて研究できるのが。まぁ…お前は1番の友人だし、それでチャラにしてやるよ。」


「お前ぇ…まじで良いやつすぎるってありがとう…」



 ありがたすぎて、流石にちょっと涙目になってしまった。



「構わねえよ。じゃあな。」





 そしてこの日から、俺たちはこの超常現象の解決に向けて本格的に進み出した。



 忠利は研究を進めてくれる中、香里奈もケンジの面倒をよく見てくれていた。








「お前の爪に、変な成分を見つけた。こいつを重点的に分析してみる。関連してる可能性は高いぞ…」


「本当か!なら爪の一枚や二枚やるぞ!」


「それは痛いからやめろよ…別に一枚丸ごとはいらねえし…」








「ねぇ、見てよこれ!」


「ん?絵か。…もしかしてケンジが描いたのか?」


「そう!写真を見てあんたを描いたんだよ!ほんっと、子供が描く絵はかわいいね…」










「…とんでもねえ。謙也、驚きすぎて腰抜かすなよ?」


「な、なんだ…?」


「…お前の体、細胞一つ一つレベルで若返ってんだ。」


「え、は…!?」


「ケンジは、若返ったお前の姿だったんだな。…しかしまぁ、まだ謎なことは多いけどな…」


「そんなすげえことが起きてたのかよ…」










「ケンジ、昨日は晩ごはんの手伝いしてくれたんだ。どんどん不安が無くなって、明るくなってる気がするよ。」


「本当か!検査だとかで、まだまだ怖いことだらけだろうに…」


「忠利さんのおかげかな。あの人、子供との付き合いがほんと上手。ケンジってば相当懐いてる気がするよ。」


「まぁあいつ、医者だしなぁ。コミュニケーション能力は大事なのかも。…てか、若返った俺があいつに懐いてるって思うと複雑だな…」


「ふふ、確かに。」











「…なぁ、大丈夫か?結構疲れてるように見えるけど…」


「ああ、いや…昨日寝るのが遅くなっただけだ。心配しなくても、自分の体調くらい管理できるさ。」


「そりゃそうだと思うけどさ…ここまで必死になってくれるのはもちろん嬉しいけど、お前に倒れられたりしたら俺は…」


「だから大丈夫だって。自分の健康も維持できねえで医者なんかできるか。」


「そうか…でもほんと、無理はするなよ。2人のためにも早く解決したいとは言ったけど…俺の休みも、まだしばらくあるんだ。」












「そうだ。結局昨日は、動物園にケンジ連れてったのか?」


「うん、行ったよ。忠利さんも来てくれたから、ケンジすごく楽しそうだった。」


「それなら良かった。俺があれくらいの時は、動物園なんて全く興味なかったから…ケンジが、動物園に連れてってもらえるんだ!ってはしゃいでたのを見た時は少し驚いたよ。」


「わざわざメッセージであんたに伝えるほどだもんね。にしても、昔のあんたと違うところも結構多いんだね。」


「そうだな。ケンジの方が、俺よりよっぽどしっかりしてる気もするし…」


「そうなの?てか、あんたって子供の頃の話全然しないよね。気になってきたから教えてよ。」





















 …俺が忠利に話をしてから12日。


 ついに、ついにこの日が来た。



「…本当に…出来たんだな…」



 忠利は、カプセル剤が一つ入った瓶を覗き込んでいる。



「理論上は…な。人間どころか、マウスみてえな動物を実験台にすることもできねえ。未知の出来事である以上、俺の予期せぬ結果になる可能性はある。」


「…にしても、こんなすぐに薬を作っちまうなんて…お前は本当にすげえな…」



 専門的なことは、実質こいつ1人でやり続けたのだ。


 上手い言い訳が思いつかないからと言って、他の人に協力を仰ぎもしなかったらしい。


 友人のため…それと面白いから、と言う理由だけでこんなことが出来てしまうのは、もはや凄いだのなんだのと言ったレベルを超えてる気がする。


 こういう人たちの探究心ってのは、俺の想像を遥かに凌駕しているのだろう。



「そんで…俺はこの薬をどうしたら良いんだ?」


「こいつは、お前の体で深夜に起こる若返り・老化を、飲んだ次の変化で最後にする。まー変な言い方だが…要は、これをケンジに飲んでもらったら解決だ。」


「そうか…本当に、色々世話になった…まじで金は要らないのか…?」


「良いよ。こんな体験できたの、世界で俺だけだろうし。それだけで貴重だ。」



 忠利は笑みを浮かべながら、俺に薬の入った瓶を渡す。



「けどまぁ、本当にこれで終わるかは分かんねえからな。何かあったらすぐ来い。治った、って場合でもすぐ伝えに来い。良いな?」


「あぁ。本当に、本当にありがとう…!」



 瓶をカバンに入れ、帰路を辿る。


 ようやくだ。これで、元の生活に戻れる。


 俺も香里奈もまた仕事に行くようになって、


 忠利もこの激務から解放されて…


 …されて…そんで…




 …ケンジはいなくなる…


 …



 ピタリと足が止まった。


 この短くも濃い、俺にとってはたかだか1週間の騒動。


 その間の記憶が頭の中を巡る。


 …そして、俺は見てないはずなのに…


 ケンジと一緒に笑う香里奈の姿が浮かぶ。




 気づいた。


 それから俺は、止まっていた足を再び動かす。


 家に帰ってから香里奈と何やら話した気がしたが、頭に霧がかかったようで全く思い出せない。


 夕食も済ませ、寝室へと向かった。


 そしてカバンから取り出した瓶を眺める。


 …いや、これで正しい。


 いいんだこれで。


 香里奈が笑ってくれるのだから。


 香里奈は昔から、子供を欲しがってた。


 けど、結婚したばかりの頃は金がなくて、もう少しだけ待って欲しいと頼んで、


 それなりの収入と会社での地位を得た頃にはもう、今みたいな感じに…




 忠利は、自分が失敗したと思って落ち込むかもしれないな…


 瓶の蓋を開け、薬を取り出す。


 この薬は、飲んだ次の変化でこの入れ替わりを終わりにする。


 …だから、俺が飲めば…




 薬を口の中へ放り込む。


 ゴクン、と飲み込むと同時に眠気が押し寄せ、俺はそのままベッドに倒れるように寝た。


 香里奈の幸せを願いながら。




















 …


 だんだんと意識がはっきりしてくる。


 瞼を開くも、しばらく何が起こったか分からなかった。


 そしてようやく、自分がいつものベッドで横になっているのだと気がついた。


 驚きで一気に目が覚める。


 何故だ…?薬は効かなかったのか…?


 そう思って時計に目をやる。


 表示している日付は…



「1日…だけ…?」



 なんで、なんでだ。


 必死に寝起きの頭を働かせる。


 まさかこれは、最悪のシナリオじゃないのか。


 薬の効果が上手く作用せず…


 ケンジに、ならなくなった…


 俺はハッとして、隣でまだ香里奈が寝てる中、慌てて服を着替える。


 7時…この時間では、忠利は病院ではなく自宅にいるだろう。


 あまりに慌てていたせいで、スマホを置いてきたことに玄関の鍵を閉めてから気づいた。


 しかし、一刻も早くあいつに会いたい。


 俺はそのまま走り出す。


 朝、連絡もせずに家へ来られたって困るに決まってるけど…


 でも、これはあいつの想定外の反応ってことだ。


 あいつの考えとは違う現象がさらに起きるかもしれない。


 …例えば、すごい雑だけど…一応、未だにケンジになることは偶に起こる。


 けど、ケンジでいる間、常に激痛が走るようになったとか…そんなことになったら本当に洒落にならない。


 とにかく、あいつに今の俺を調べてもらわないと…


 その一心で街を走り続ける。


 そして忠利の家が近づいてきた時。



「…あ、おい!忠利!」



 あいつはちょうど、ゴミ出しか何かで外に出てきていた。


 俺の方を向くと、あいつはギョッとした顔でこちらを見つめる。



「ハァ…ハァ…すまん急に…」


「謙…也…な、なんでお前…」


「そうなんだ…何かまずいことになってる…少しい…」


「お前!飲んだのか!?」



 突然の大声に、俺は驚いて少し後退りする。



「い、いや…お前を信じてないとかじゃなくて…俺は…」


「なんでだ!ああクソ…!ケンジ…!ケンジィ…!こんなことならもっと時間をかけて確実に…ああぁ…」



 忠利が目の前で膝から崩れ落ち、ヒステリックに呻き出す。


 な、なんだ…


 明らかに様子がおかしい。


 話も聞いてくれないし、それにケンジケンジって…




 …


 まるでパズルの最後のピースがはまるように、脳内の思考が一つの答えを導き出した。


 忠利の今の言動。加えてこれまでの、側から見たら対価に見合わない研究。




 そうだ。香里奈は俺にこそ冷たいが、人当たりが良くて、家事もできて…仕事もしっかりこなせる上に美人だ。


 正直俺には不釣り合いな人間だと思う。


 そんな香里奈は…この事件を機に、真面目で性格の良い医師の忠利に出会ったわけだ。




 俺は…香里奈とケンジ、そして忠利が一緒に笑ってる様子が頭に浮かんだ。


 それはまるで、なんの軋轢もない、理想のような仲良し家族に見えた。





 …そうか。


 こいつは、最初からケンジを残すつもりだったんだ。


 香里奈と自分と3人で、幸せに暮らすために。


 薬は、本当は飲んだ時点で変化が起きなくなる感じだったのだろう。


 だから、ケンジに飲ませろと言ったのに、俺が飲んだからこうなった。


 効果を誤魔化して、俺の方を消そうとしたのか。


 もしかしたら香里奈とも、もう既に話をつけたのかもしれない。


 …



 俺は忠利を放ったらかしにして走り出す。


 この時の俺の胸を埋めていたのは、怒りなんかじゃない。


 …やってしまった、という思いだった。


 あいつに、自分よりケンジを優先されたのは少しだけ寂しいけど、それでも2人は大切な人だ。


 2人が幸せならそれでいい。自分の命だってどうでも良い。





 元々俺は香里奈のために、自分が消えてケンジを残すつもりだった。


 俺の代わりに、ケンジに生きてもらおうとした。


 なのに、皮肉な話。


 香里奈のためと思って薬を飲んだことが、結果的に忠利まで含めた2人の幸せの邪魔になってしまった。


 気づくのが遅かったんだ。


 もっと早くにケンジを生かすべきと気づけば、忠利も俺もそのつもりで動けたのに。


 そしたらこんなことにならなかった。


 もう、2人と顔を合わせられない。合わせたくない。





 俺は薬局に駆け込む。


 薬の並ぶ棚の前で、一つ一つの箱を順に見た。


 探してた薬を数箱、ついでに水をレジまで持って行った。








 しばらく歩き、俺は林の中へ入って行った。


 やることはもちろん、決まっている。


 俺は今から死ぬ。


 …2人の幸せのためなら命も惜しまない、なんてかっこいいことを言ったけど…


 お前は不必要だという事実を突きつけられ、やはり俺の心はもう折れてる。


 香里奈との生活はこれまで以上に窮屈で息苦しくなるだろうし、正直こんな精神状態で耐えられる気がしない。


 …それに、もしケンジが天国にいてくれるのなら、謝りたい。


 お前は死んだのか、死んでないのか、分からないけど…






 そこそこ奥まで入り、周囲に人がいないことを確認した俺は、レジ袋から薬を取り出す。


 アセトアミノフェン…こいつが入ってる薬は大量服薬することで死に至る…ってのをどこかで聞いた気がする。


 家には帰れないし、できれば人様に迷惑はかけたくない。


 恐らく、これがベストだろう。




 薬を飲んで、飲んで、飲んで、ひたすら飲んで。


 喉が気持ち悪くなってきても水で流し込む。


 頭が痛い。グワングワンと左右に揺らされてるようだ。


 けど…未遂にするわけにもいかない…


 気を失うまで…とにかく飲み込んで…


 …まるで電源が落とされたかのように、視界がパチっと消えた。




















 突如、思い切り首を引っ張られたかのような感覚に襲われる。


 次の瞬間、俺はハッと目を覚ました。



「っ!謙也!」


「…香里奈…?」



 すぐそばに、目を潤ませた香里奈がいた。


 俺はベッドに横たわっている。


 ここは恐らく…いや、確実に病院だ。



「あんた本当…!自殺未遂なんて馬鹿なことして…!」



 …ああ…


 寝起きのバカ頭でも分かる。俺は死ねなかったようだ。



「俺…死ななかったのか…」


「死ななかったのか…じゃないよ!もう…まぁ、飲んだ薬の量的に後遺症も残らないらしいから良かったけど…」


「え…そうなの…」



 俺としては結構飲んだつもりだったのだが。


 市販薬で死ぬってのは、やっぱり簡単じゃないようだ。


 にしても…何か違和感が…



「…今日ケンジになってないってことは…治ったんでしょ?なんで死のうとなんてしたの…」



 そうか


 香里奈が自分の心配をしてるのが不自然に感じるのだ。


 香里奈も、ケンジの方に生きてて欲しいはずだと思ってたから。


 俺は服毒に至った経緯を彼女に伝えた。


 すると、香里奈は悲しいような、困惑したような顔でため息をつく。



「…ごめんね。バカな話。私もあんたが大好きだったのに、いつの間にかそれを忘れちゃってた。死の際に瀕してるって聞いて…もう失うかもしれない、ってなってやっと気づいたの。」


「でも…ケンジは…ケンジがいなくなっちまって…」



 それを聞いて、香里奈は俯いて涙を流す。



「…当然、悲しいよ。少しの間だけど、家族同然に過ごして…まるで自分の息子みたいだった…悲しくないわけがない。…けど…だからって、あんたが消えて良い理由にはならないよ。ケンジは、ケンジ。あんたの代わりはできないんだから。」


「香里奈…」



 俺の目からも涙が込み上げ、頬からシーツへ落ちる。


 それから香里奈は目の周りを拭い、少しブスッとして言った。



「…てか、あの人と2人でケンジを育てるつもりだったとか馬鹿でしょ…そんなわけないじゃん…」


「で、でもあいつがあんな風になったのは…」


「あいつが欲しがってたのは、ケンジだけだよ。証拠に、さっき小学生数人の誘拐と監禁の罪で捕まった。」


「…はぁ?」


「今まで巧妙に隠してきたけど、今日は正気を失ってたせいでとうとうバレたんだとか。…ほんと、そんなやつにケンジを会わせてたとか嫌すぎ…」



 ええ…なんだよそれ…


 上手いこと考えがズレてたのか…



「ご、ごめん…疑って…」


「良いよ。…私が、あんたに無愛想にしたのが原因って言えるしね。これからは、そんなことしないから…あんたももう、死のうとなんてしないでね。」


「…うん。分かった。」



 その後、医者の人となんか色々話し、ひとまず家に帰って良いと言われた。


 外に出ると、既に夜。かなり長いこと寝てたようだ。


 2人で横に並び、帰路を辿る。


 あれこれ考えてるうちに、俺は香里奈の方を向いて口を開いた。



「…香里奈。」


「何?」


「貯金も結構溜まった。…遅くなっちゃったけど、香里奈が欲しがってた子供も、そろそろ育てられるんじゃ…」


「あー…子供は欲しいけど…ここ最近休んだせいで仕事溜まってるし、今は厳しいかな…」


「あ…そっか…すまん…」



 …うーん


 この異常現象が起きてから色んなことが変わったけど…


 香里奈の気持ちを読み取れないのは、未だに変わらずみたいだ…





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