第二章:十三話

*** ***



「明人か」


大学と、大学の最寄り駅のちょうど中間あたり。わりと急勾配の坂道の途中、そこに一軒の楽器店があった。


知ってはいたけれど、俺はずっと音楽をやめていたから、いつもはただその前を通り過ぎるだけだった。


そこにはじめて立ち寄った日、ちょうどその時、俺は姿を明人に見られたのだ。「どれか買うのか?」と聞かれてとっさに濁した。でも明人は聡いから、気を使ってすぐ店を出て行って、後日それとなく聞かれたのだ。「ピアノは弾いているのか」と。そこまで気を使われて、噓はつけない。だから素直に、また始めたことを彼に伝えた。


明人が蛍琉に言っていたのか。まぁ、思い返せばあの時点で明人の他に俺がピアノを再び始めたことを知っている人はいなかったから、漏れるとしたら彼の口から以外になかった訳なのだが。



 映像を一時停止して、座っていた椅子を後ろに引く。上を向いて、軽く伸びをした。目も肩も凝って、体がガチガチになっていた。


一度休憩しようと思って立ち上がり、給湯室に向かった。給湯室は研究室内に仕切りで囲われる形で存在する簡易のもので、研究員がある程度研究室に篭れるように配慮して設置されたものだ。


そこにある冷蔵庫にはペットボトル飲料、棚にはカップ麺などの食料やコーヒーの粉、紅茶のパックやお菓子などがストックされている。狭いがまな板を置ける分だけのスペースと、ミニコンロも完備されているから、簡単なものなら調理も可能だ。


俺はコーヒーを淹れたカップを手にして、席に戻った。一口飲もうとしたところで、研究室のドアが開く。


「やっほー。お疲れ。調子はどう?」


静寂を破って入ってきたのは桜海先輩だった。先輩は、俺が蛍琉を受け持ってから定期的に研究室を訪れてくれている。


後輩である俺の指導、もあるのだろうが、おそらく初めて一人で被験者を受け持つ俺のことを単純に気にかけてくれているのだと思う。


おおざっぱで自由奔放に見えるが、その実よく周りのことを見ている。それが桜海先輩だ。だが本当に適当で気まぐれな時もあるから、何でもかんでも彼女にかかれば安心、というわけでもない。


「……。お疲れ様です」


「ねぇ、今何か失礼なこと考えてなかった?」


「気のせいじゃないですか?」


「絶対気のせいじゃない気がする。まぁいいや、それで? 進捗具合はどう?」


「いえ、まだ何も。すみません」


「別に私に謝らなくていいよ。映像は? あと、どれくらい?」


「今、半分少し超えたくらいです」


「そ。じゃあ残り半分ね。頑張って」


俺からの報告が特に無いと分かると、桜海先輩はそのまま踵を返し、再び入ってきたドアに向かって歩き出した。


「あの、先輩」


「うん?」


俺の声に、先輩が振り向く。とっさに呼び止めていた。俺は迷ったが、逡巡の末、正直に心に溜まっていた不安を口にした。


「ここまで見たのに、何も分からないことってあるんでしょうか」


「半分も見たのにってこと?」


「はい」


体ごとこちらに向き直った先輩が、腕を組んで、少し考えるそぶりを見せた。そして言葉を選ぶように、ゆっくりと話し出す。


「被験者には、被験者の数だけ人生があるの。ドラマや映画みたいに、いつ、どの段階で、何が起こるか、あらかじめ設定されている訳じゃない」


分かる? というように首を傾げる。俺は頷いた。


「長い時間をかけて、ゆっくりと何かがその人の人生を左右することもあるし、ある時突然その人の身に何かが起こることもある。私も何人か被験者を担当したけど、どの段階で起こったことがその人に作用したかなんて人それぞれで、他の被験者の例はあてにならないの」


「そう、ですよね」


「夏川くんがここまで見てきた彼の記憶に重要な何かがあったかどうか、私には分からない。これまでに無かったのなら、最後の最後に一気に劇的な何かが起こるのかもしれない。……ただ一つ言えることは、私たちはその片鱗を一つも見逃しちゃいけないっていうこと。何も言わず眠ってしまった彼らのSOSに気づいてあげられるのは、もう、私たちしかいないんだから」


「……はい」


「……もー。なぁんか元気ないなぁ。全部終わったら焼肉連れてったげるから頑張んなさいよ! あ、でもそんなに食べないでね、私の懐が寂しくなるから」


「何で微妙にケチなんですか。先輩そんなだからモテないんですよ」


「何で私がモテないって知ってるの! 一応顔はいいって昔からよく言われるのになぁ」


ってことは、やっぱり他の所に難があるってことでしょう」


「えーん。後輩にいじめられたー」


「棒読み過ぎますって」


「桜海先輩は傷心なので帰りますー。じゃあね」


「えぇ……」


相変わらず嵐のような人だ。あっという間に研究室から消えた。しかし、一人で不安に苛まれていた俺の心は、桜海先輩と話したことで少し回復した。気持ちを引き締め、俺は再度、パソコンの前に背筋を伸ばして座り直した。


「続き、見るか」



 映像を見るようになって、少し前から思うようになっていたことがある。それは被験者の気持ちまで記録として取り出せたらいいのに、ということ。


ファンタジアは被験者たちが目で見たものは映像に映し出せるが、その時々で感じたことや思ったことなど、彼らの心の中までは再現できない。オーディオコメンタリーのように、場面に合わせて彼らの心の声が聞けたらどんなにいいか。


今の技術では、まだ人の心まで記録して取り出すことは不可能なようだ。だったら桜海先輩が言っていたように、俺は蛍琉の心の移り変わりを少しも見逃す訳にはいかないのだ。


たとえどんな些細なものであっても。


ここまでの間に、俺は見逃していないのだろうか。


それとも、見逃してしまったのだろうか。


正解が分からない中で進めていく作業は予想以上に心が折れそうになる。


それでも


前に進むしかなかった。




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