第二章:十二話
「覚えてる、というかうん。ちゃんと思い出した」
「ならいいけど。で?」
「渡したよ。最後に学校行った日」
「え? あれ、もしかしなくても別れの曲だったりした?」
「ショパンの別れの曲的な? 因みにあれは日本では【別れの曲】って名前で有名だけど、正式名称は【エチュード10の3ホ長調】なんだよ」
「そうなのか?」
「うん」
「……いや、違う、そうじゃなくて! ショパンとかそんな詳しく知らないし。どうでもいい」
「え、いや、俺的にはどうでもよくはないんだけど」
「そうなんだろうけど! 今は、どうでもいいんだよ! それより、そんなぎりぎりまで曲渡してなかったって」
「あぁ、うん。その日まで渡すつもりなかったからな」
「お前の転校を俺が知ったの、お前が学校来なくなる前の日だったよな。まさかと思うけど、蒼馬にもその日まで言ってなかったのか?」
「うん。そのまさか」
「おい……いや、それは、だめだろ。俺、あの時ちゃんと話せよって言ったのに」
「よく覚えてるなぁ」
「茶化すなって」
「……言いたいことは、だろ? 俺、その日まであいつに言いたいこと、なかったから」
正確には何を言ったらいいのか分からなかった、なのだが。結果的に何も言わなかったのだから、わざわざ言い直して説明する必要もないだろう。
「……」
*** ***
夏川と出会ってから、あいつと話して、音楽を聴いて、一緒にピアノを弾いて。俺が作った曲を歌ってと言ったら、最初は聞き入れてくれなかったけれど。ずっとお願いしてたら歌ってくれるようにもなって。
あいつの歌う声もやっぱり好きだった。
なんだかんだ言いながら、それでも最後は結局俺の傍にいて、俺の我儘に付き合ってくれた。
あいつと出会って、毎日がこれまでよりもきらきらして見えた。
その一方で、その頃から俺の家族は少しずつ壊れていった。突然決定的な何かがあったわけじゃない。前から片鱗はあったのだ。
少しずつ、少しずつすれ違って、もうもとには戻れなくなってしまった。
両親に離婚の選択肢が出てきた頃、更にそこから家族各々がどうするか決まるまで、家の中はごたついた。
自分のことよりも俺を気にかけてくれる姉さんに、心配をかけないよう、俺はなるべくいつも通り振る舞っていた。それでも人間、やっぱりしんどい日だってある。
いつも通り笑えない日。
そんな時は自室のベッドに篭って、イヤホンかヘッドホンをつけて、音楽を流して、そうやって凌いだ。何か辛いことがあった時の、それは昔からの俺の癖。
でも、凌ぐだけではどんどん重たい何かが溜まっていって、呼応するように体が、心が重たくなって。
なんだかもう、息ができなくなりそうだった。
そんなある日、俺は唐突に気がついた。それはありふれた放課後、夏川とピアノを弾いていた日のことだった。彼とそうして過ごしていると、抱えていたはずの、重たい鉛のような何かが、嘘みたいに消えていた。
体が、心が、軽かった。
あいつと、あいつの音が、俺を救ってくれたのだ。
そのことに気がついてからはもう、彼がどんどん特別になっていった。
俺の転校の話、夏川だけにでも前もって伝えていたらどうなっていたのだろう。彼に相談の一つもせずに全てを決めたこと、悲しんでくれたのかな。それとも怒ってくれたのかな。はたまたあっさり「さよなら」を言われてしまうことになったのか。
俺にとって、夏川は俺を救いあげてくれた特別な友人だ。けれど、夏川にとって、俺はただの、普通の友人の一人。
分かっている。
けれどやっぱり、別れ際にそんなことをわざわざ自覚したくもなかった。
結局、あいつの心を煩わせる可能性と、自分が傷つく可能性、そのどちらも嫌で、どうしても俺にはぎりぎりまで口をつぐむ以外に良い選択なんて、思いつかなかった。
*** ***
「やっぱ分かんないなぁ、お前のこと。ちょっとは分かるようになってきたと思ってたのに」
あっきーが、手にしたグラスを卓上に置く。話の途中、店員さんがつまみの品と共に、ハイボールを二つ運んできてくれていた。
「他人のことなんて、誰だって分からないものだろ」
俺がそう言うと、彼は頬杖をついて、少し不満そうに唇を尖らせた。
「分かんないから、分かろうと努力するんだろ。少なくとも、俺はお前をちゃんと理解したいって思うよ」
あっきーの軽快なノリがすっとなりを潜め、強い眼差しに射貫かれる。その瞳には悲しそうな色が浮かんでいた。彼にそんな顔をさせたい訳じゃない。だからもう、この話は終わりだ。
「ベタだな」
「は?」
「あっきーがそんなベタなこと言うなんてさ。でもそれ、俺じゃなくて女の子に言えよ」
「はぁ?」
「そんでもって、俺をそう簡単に理解しようなんて百年早い」
「……えぇ。なんだよぉそれ」
戯けた調子の声で返すと、張りつめた空気が一気に弛緩していくのが分かった。そのことに、どこかほっとしている自分がいた。
「あ、だったらお前がまた新しく作った曲、俺にもピアノで聴かせてくれよ。お前の理解にはまず音楽からだろ。覚悟しとけよ」
俺は誤魔化したのだ。そして俺が誤魔化したということに、あっきーは気がついているかもしれない。だとしたら、俺の言葉にのってくれたのは、ひとえに彼が優しいからだ。
「じゃあそうだな、この年末に一個、コンクールがあるんだけど。それ用の曲、完成したら二番目に聴かせてやるよ」
「へぇ。でっかいコンクールなの?」
「うん。ウィーン国際音楽コンクールってやつ。今から結構ワクワクしてる」
ウィーン国際音楽コンクール。それは、若手音楽家の登竜門の一つとされるコンクールだ。ピアノ部門、ヴァイオリン部門、声楽部門の三つにわかれており、二年に一度の頻度で世界各国から出場者を募って開催される。
俺が出場予定のピアノ部門では、数曲ある課題曲の他に、自身で作曲した曲の提出と演奏も求められる。
「二番目ってことはやっぱり最初は蒼馬に聴かせるの?」
「そうするつもり」
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