第二章:十話
俺が初めてピアノというものに触れたのは、確か四歳の時。「お誕生日プレゼント何がいい?」と、両親に手を引かれて入った大型ショッピングモールのおもちゃ売り場。そこで、俺はピアノと出会った。
赤い小さな木製ピアノ。子どものお遊び用のそれ。
初めて見た時、それが何なのかは分からなかったけれど、その赤が鮮烈に映ったことを今でもはっきりと覚えている。
近づいて、数える程しか付いていない鍵盤をそっと押すと、一つ、音が鳴った。母さんが俺の横にしゃがんで、「それはピアノよ」と教えてくれた。
そおっと、そおっと、指で白と黒の鍵盤を、端から順に押していく。まるで、壊れ物を扱うみたいに。本当に、なんだか壊れてしまいそうでこわかったのだ。けれど、押さずにはいられなかった。隣を見ると、母さんが笑っていた。
俺は「これにする」とそう言って。
そうして、その赤いおもちゃのピアノは俺の家にやって来た。
ある日、毎日のように、その小さな赤い箱を夢中で鳴らす俺を見た父さんは言った。
「小学生になったら、お祝いに大きなピアノを買ってあげようか」
と。俺は「うん!」と返事をした。その約束通り、父さんは小学生になった俺にピアノを、今度はおもちゃ売り場ではなく、立派な楽器店で買ってくれた。
時を同じくして、姉と一緒にピアノ教室に通い始めた俺は、それからどんどんピアノに、音楽にのめり込んでいった。一曲、また一曲とレパートリーは増え、気がつけば周りの大人から一目置かれるようになっていた。コンクールに出れば出ただけ立派な盾と賞状が貰えた。
嬉しかった。
でも、それよりも、嬉しかったことがある。それは、父さんと母さんが、俺の演奏で笑ってくれたこと。姉さんが、ピアノの先生が、笑ってくれたこと。
その笑顔が、なによりも嬉しかった。
もっと彼らを、もっと色んな人を、笑顔にしたい、そう思って、俺は本格的に音楽の勉強を始めた。中学二年生になる頃には作曲も始め、気がつけば大人から音楽の仕事を貰えるまでになっていた。ピアノの演奏に勤しむ傍ら、俺は自身が作ったいくつかの曲を、依頼に応じて彼らに提供した。だからこれまでに、世間では所謂プロと言われる大人が、俺の曲を演奏するのを何度か聴いた。
夏川の音は、けれどそのどんな人の音とも違った。聴く人を優しく包み込むような音色。まるで大きな掌で抱きしめられているかのような。それはもちろん、あくまでも俺にとって。でも俺が彼に惹かれた理由は、それだけで充分だった。
彼はどんな世界でピアノを弾いてきたのだろう。
こんなにあたたかな音色は、何がきっかけで生まれたんだろう。
いつか、その答えを聞いてもいいだろうか。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます