第二章:八話

*** ***



 あの日、俺は放課後の音楽室で、夏川に渡すための曲を作っていた。言葉でのさよならの代わりに、これまでの色んな思いを込めて、俺に渡せるものがあるとしたらそれは音楽しかなかったから。


いつもなら放課後は大抵夏川と過ごしていたけれど、たまたまあいつが休んだ日があった。だから、俺はちょうどいいと思って、一人で音楽室に向かったのだ。テスト前の時期だったから、その日は普段なら部活でそこを使っている生徒がいないことも知っていた。


いつも鞄に入れて持ち歩いていた五線譜を広げ、固く閉ざされたピアノの蓋を持ち上げる。鍵盤にのせた指にそっと力を入れると、ポーンと誰もいない音楽室に音が鳴った。それから、適当に何音か押しながら、夏川と出会ってからこれまでのことを思い出していった。


病院で初めて連弾した日。


教室で学生らしく「おはよう」を交わした日。


隣で居眠りする姿を見た日。


あいつは走ると案外足が速かった。


コーヒーはブラック派なのに、甘いスイーツは存外好んで食べていた。


一つ一つ、そうやって思い出をなぞるたびに、自然と音が生まれるから不思議だ。それらが消えないうちにシャープペンシルを手にして、まっさらな五線譜の上に、生まれたばかりの音を綴っていく。


その途中、音楽室のドアを開けて、入ってきた生徒があっきーだった。


「あれ? 蛍琉?」


その時のことは正直、途中まで記憶にない。俺は作曲に夢中で、彼が音楽室に入ってきたことに全く気がついていなかったからだ。だから、俺が彼の存在を認識するまで、そこまでの経緯は、後に彼自身から聞いて知った。どんな風に言っていたか……。確か、こんな感じだったと思う。


「蛍琉? 無視されるとちょっと悲しいんだけど……。おーい。気づいて、ないのか?」


近づいて声をかけても一向に返事はなく、少し不安になったという。そんな彼をよそに、俺は黙々と音を鳴らし続けていた。しばらくその場に立っていた彼は、音が紡がれるその様に興味を惹かれ、適当な席を見繕ってとりあえず腰を下ろしたのだそうだ。そして、もうそれ以上声をかけることはせずに、ただピアノの音を聴いていた。


「ほーたる」


彼の声が届いたのは、俺が続きの音に迷って手を止めた時だった。


「……へ?」


突然の人の声に、俺は素っ頓狂な声をあげていた。ここからは俺の記憶にもある。


「お、反応したな。今弾いてたの、お前のオリジナル曲? もう完成?」


「えっ、あっ、何? ……あっきー?」


「あっきーだよ。あ、一応ここに入った時にも声かけたんだからな。お前、俺が話しかけてるのにうんともすんとも言わないから、無視されてるのかと思った」


「ごめん。気づかなかった。無視したわけじゃないからな?」


「あぁ。話しかけてる途中から、蛍琉、多分集中してるんだろうなって思ってた」


話を聞くと、どうやら彼は音楽室に忘れ物を取りに来たところだったらしい。


「そういえば、こっちこそごめん。勝手に聴いてたけど、よかった?」


「ピアノ? いや、それは別にいいんだけど。なぁ、あっきー、今何時? これさ、まだ途中なんだよ。もうちょっとここにいたいんだけど」


そう、俺はどうしてもここで作曲したかった。この音楽室は夏川と結構な時間を過ごした場所の一つだったから。彼と出会って、この学校の中で生まれた思い出は、この場所で、この曲の中にしまっておきたかった。


「まだ最終下校時刻まで二十分くらいはある、かな。でも別に、明日もここ空いてると思うけど」


「明日じゃだめなんだ」


「何かあるのか?」


「だってあいつ、学校来るかもしれないし」


「……もしかして蒼馬? あいつがいるとまずいのか?」


ここで自分の失言に気づいたがもう遅い。しどろもどろになって、結局俺は言葉を濁した。


「……まずいというか、さ。とにかく今日中に仕上げたいんだよ」


そんな俺の様子に、あっきーは不思議そうな顔をして黙り込んだ。けれどしばらくして、何かを思いついたように「あっ」と声をあげた。


「もしかして、これ蒼馬のための曲か」


「……なんでそう思うんだよ」


その返しをした時点で彼の言っていることを認めたも同然なのだが、この時の俺はそんなこと、気がついてもいなかった。


「そっかぁ。俺先に少し聴いちゃったじゃん。なんか申し訳ないな」


「いや、そんな『大丈夫、全部分かってます』みたいな顔されても。俺まだ何も言ってないだろ」


「分かるって。だってお前らだし? じゃあ俺行くな。頑張れよ」


「……」


俺が黙っていると、あっきーはさっさと荷物を手に取り音楽室の扉の方に歩いて行った。しかし、その扉に手を掛けたところではた、と思い出したようにこちらを振り向く。


「そうだ、俺から一個だけ言いたいんだけど」


「うん?」


「なんで曲作って渡そうとしてるのか、細かいことは知らないけど、何か言いたいことあるんだろ?」


「え」


「その反応、図星か? でもさ、曲だけじゃ伝わらないこともあると思うぞ」


「それは、そう、かもだけど」


「お前、自分の中だけで勝手に完結させちゃいそうだし、受け取る側もあの蒼馬だから、察するとか無理だろ。ちゃんと言葉でも話せよ」


俺の返事を聞く前に、彼は「じゃあな」と言って今度こそ音楽室を出て行った。「言葉で話せ」と言った彼の声が心に引っかかる。言葉で何を伝えたらいいのだろう。あいつと出会ってからこれまでのこと。


ありがとうとか、楽しかった、とかだろうか。


いや、それももちろんあるけれど、それだけじゃない。言葉にしようとすればする程、思考が上手くまとまらない。

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