第二章:七話
*** ***
ーー夏川が、またピアノを始めたと聞いた時は嬉しかったーー
その日、一日の授業終わり、俺は家に帰ろうとしていたところであっきーにばったり出くわした。彼に「お、蛍琉じゃん! なぁ、このあと暇なら飲みでもどう?」と誘われて、特に用事もなかった俺は「うん」と二つ返事をした。
だから、俺たちは赤茶けたビルの二階に店舗を構える、小さな焼き鳥店を訪れる運びとなったのだ。
あっきーがその話を切り出したのは、たどり着いた店の一席に座し、ちょうど注文を終えた時。手にしたメニュー表を、閉じた直後のことだった。
「えっ」
「この前、学校帰りにさ、通学路になってるあのきつい坂道の所に、楽器店あるだろ? その店の中に蒼馬っぽい人がいるのが見えて」
「うん」
「ちょっとびっくりさせよーと思って、俺も中に入ってさ。こっそり背後に回ったわけよ」
あっきーが、大袈裟なくらいの身振り手振りで、面白おかしく話してくれる。
「それがあいつ、全然俺に気づかないんだよ。で、何をそんなに集中して見てんのかなと思って、そぉっと手元見たら、何冊か楽譜持ってて」
「うん」
「なんかすごい真面目な顔してたから、脅かすのもなぁと思って。やっぱ普通に話しかけたんだけど。……ところで堪えた俺偉くない?」
「うん? あぁ、偉い偉い」
「棒読みかよ! まぁ、いいや。で、結局普通に話しかけたのに、『蒼馬』って名前呼んだだけで、ものすごい驚かれて。あいつ手から全部楽譜落してさぁ」
「アハハッ。想像できるなぁ」
「こっちがびっくりしたわ。とりあえず落とした楽譜、慌てて全部一緒に拾って、『どれか買うのか?』って改めて聞いたんだけど」
そういえば夏川が俺の病室に初めて来た時にも、似たようなことがあったなと思い出す。あの時は俺が書きかけの楽譜をばら撒いて、夏川が拾ってくれたんだっけ。
「『まだ買うかは決めてない』って言うから、あいつのことだし、もしかしたら買おうとしてたのに俺が邪魔しちゃったかなと思って。とりあえず俺、蒼馬に『またピアノ弾いたらいいのに』って言って店出たんだよ」
「うん」
「で、後日さ、気になってたから、『ピアノ弾いてる?』ってそれとなく聞いてみたんだ。そしたら、『また始めた』って」
「へぇ。嬉しいなぁ。俺、あいつのピアノ好きだったから」
「知ってる」
「……そう正面から言われるとなんか恥ずかしいな」
「バレバレだって」
「そんなに分かりやすい?」
「お前ら二人とも、お互いのことになると一気に鈍感になるよな」
「そんなことないと思うけど」
「俺が言うんだから間違いない」
「えぇ……。どんな自信だよ。まぁでもさ、再会して、もう弾いてないって聞いた時、正直、本当に結構ショックだったんだ」
「あいつ、ここ数年はピアノどころか音楽自体避けてるって感じだったしな」
「そっか。じゃあ尚更、音楽に戻ってきてくれて嬉しい、かな。でも今、ちょっと複雑でもある」
「何が?」
「夏川、俺には何も言ってくれてないんだよな。ピアノのこと。楽譜見に楽器店行ってたっていうのも、今あっきーから聞いて初めて知ったし」
「うん、いや、俺も多分、あそこで会ってなかったら聞くこともなかったし、知らなかったと思うけど」
それに、とあっきーが続ける。
「蛍琉にだからまだ言えてないっていうのもあるんじゃないか? 多分もうしばらくしたら、我慢できなくなってあいつからポロッと言うと思うけど」
俺だから、という言葉がいまいち理解できなくて首を傾げていると、あっきーはまるでしょうがないなぁとでも言いたげな顔で笑いながら、こう告げた。
「お前にまた会えたからピアノ始めたんだろ、あいつ」
そう言われて、あぁ、そうだったらいいなぁなんて思ってしまった。でも、どうだろう。あの日、楽譜を手にした夏川の背中を押したのは、あっきーなんじゃないかな。「またピアノ弾いたらいいのに」っていうあっきーのその一言が、あいつの中で決め手になったんじゃないかと思う。その役目が俺だったらよかったのに、なんて考えてしまったのはなんだろうこれ、嫉妬なのだろうか。
あっきーに嫉妬って、どうしちゃったんだよ、俺。
「ピアノって言えばさ、お前のも聴きたいな」
「……へ?」
心の中で一人ツッコミを入れていると、急に話の矛先が自分に向いたものだから、とっさに変な声が出てしまった。
「思い返せば俺、蛍琉のピアノ聴いたの、あの一回だけだろ」
「……ごめん、いつだっけ」
「おい酷いな! あれだよ、お前が転校する少し前。それこそ、珍しく蒼馬が熱出して学校休んでた日。放課後に音楽室で弾いてたろ」
「あ、あの時か」
そういえばそんなこともあった。あれは確か、いよいよ転校の日が迫ってきて、でもまだ誰にも、夏川にも、一言もそれを伝えていなかった時。その時にはもう既に、転校前日まで夏川やみんなには何も話さないことに決めていた。
「ほんとに思い出したのか? まぁ、それで? あの曲、蒼馬に渡せたのか?」
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