第18話 パパ

 フユコがドアをノックした。

 パパの名前が書いてあるドアを。

 少しの沈黙。それが何かを警戒しているらしいことは何となく空気でわかった。もしかしたらパパは、僕たちのことをあの国の人間か何かだと思っているのだろうか……そしてだからこそ、ドアを開けないように、ノックに対しても返事をしないようにしているのだろうか……。

 そう思うと悲しくなる。だからだろうか。僕の口をついて言葉が出る。

「パパ……」

 するとドアの向こうで気配があった。僕は続ける。

「パパ……!」

 ドアが開いたのはその次の瞬間だった。目についたのはヒゲを生やした背の高い人……パパだった! 僕は抱きついた……のよりも先に、パパが屈んで僕を抱きしめた。

「レーシ!」

 パパの声がうるさいくらいに耳元で聞こえる。

「レーシ! レーシ! レーシ!」

 パパがほっぺにキスをしてくる。僕はヒゲがくすぐったくて笑う。

「パパ……」

 この時、だった。

 僕の中で何かが崩れたのは。

 ずっと張っていた何かが解けたのは。

「パパ……」

 バカみたいに、僕はパパを呼んだ。すると嬉しいことに、パパが応えてくれた。

「レーシ」

「パパ」

「レーシ!」

 どれくらい、そうしていただろう。

 パパがふと目を上げてフユコを見た。

「あなたは……」

 そう訊ねるパパにフユコはウクライナの言葉でこう答えた。

「はじめまして。アベ・フユコと申します。ウクライナに立ち寄った際にレーシくんと出会いまして、彼をここまで送り届けました」

 するとパパは僕を抱き上げたまま立ち上がり、フユコにハグした。

「ありがとう……ありがとう……本当に、ありがとう……! あなたは天使だ。神が遣わしてくださったお人だ!」

 フユコは笑う。気のせいだろうか。フユコとずっといたからだろうか。パパのこのリアクションが何だかとても大袈裟に感じた。でも多分、フユコと会わなければパパのこの反応は別に普通で、そう、フユコと交流したからこそ生まれた感情で、何だか不思議で、おかしくて。僕は笑った。それから僕はパパに抱きついたまま話した。

「フユコがずっと僕を助けてくれたんだ」

「ああ、神様……」

 パパはまたフユコを抱きしめた。

「何とお礼を言ったらいいかわかりません。どう感謝したらいいか……この子の母は先日娘を連れてここへ来ました。二人は無事です。ただ戦禍でこの子と逸れたことはずっと心苦しくて、あちこち捜索していたのですが全く手がかりがつかめず……ああ、よかった! 本当によかった!」

 気づけばパパは泣いていた。パパは鼻を鳴らしてからフユコに向き直った。

「どうかお礼をさせてください。大したものは出せませんが、この後僕たちの家でディナーでもいかがですか? 妻も歓迎すると思います。久方ぶりの家族の団欒に、あなたを加えたい! どうかご検討を……」

「ありがとうございます」

 フユコは笑顔のまま、丁寧に頭を下げた。それから告げた。

「残念ですが、私は明日、バンターの近くで人と会う予定がありまして……」

 初めて聞いた。僕はポカンとフユコを見た。

「何言ってるんだよフユコ、僕たちと行こう」

 しかしフユコは笑ったまま僕を見た。

「ごめんね、レーシ。どうしても大事な用で」

「いやだ!」

 僕は叫んだ。

「いやだいやだいやだいやだ! フユコ来てよ! 一緒にご飯食べよう!」

「レーシ」

 フユコは寂しそうな顔をする。ああ、だったら、そんな顔をするんだったら、どうか僕たちの家に来てよ。そう思ったのだが、フユコは静かに告げた。

「ごめんね」

 そう、髪をかきあげる。薬指に指輪があって、それが一瞬キラッと光った。パパがつぶやく。

「今夜が無理なら明日の夜でも……いえ、いつでも構いません。どうかお礼をさせてください。お願いします」

 するとフユコはまた笑った。

「そうしましたら、フィンランドを出る際にご連絡させていただきます。フィンランド最後のご馳走をご一緒させてください」

「それはもう、喜んで!」

 パパはまたフユコを抱きしめた。

「最高の食事を用意します! 人生の指折りに入るような!」

「楽しみにしてます」

 フユコは笑顔のまま下がった。それから頭を下げた。

「それでは」

 そうしてフユコは、去っていった。後に残された僕は、いつの間に泣いていたのだろう、鼻をこすって、それからパパの首元に顔を埋めた。



 仕事をしている場合じゃない、と、昼過ぎなのにパパはデスクの上を片付け始めた。カバンに乱暴に書類を入れると、そのまま僕を抱き上げて部屋から出た。

 その時、気づく。

「パパ、指輪してるね」

「そうだよ」

 パパは笑った。

「この左手の、薬指のだろう?」

「そう」

 僕はパパの手を取った。

「どういう意味?」

 僕は知っていた。

 いや、フユコとの旅でわかった。

 目に見えるもの全てに意味があること。何気ないところに真実があること。だからパパの左手のこの指輪にも……そしてフユコが髪をかきあげた時に見えたあの指輪にも意味があることを、僕は知っていた。

 パパはつぶやいた。

「これは結婚していることを示す指輪なんだ。心に愛を誓った人がいるということだよ」

 僕はハッと息を呑む。

 フユコの指輪。

 フユコの笑顔。

 フユコも心に誓った人がいたんだ……。

 そして気づく。

 もしかして、フユコの目的って? 



「バンターってどこ?」

 パパの車。フユコの運転するマサヲとは違ってガタガタ揺れる車の中で、僕はパパに訊ねた。パパは答えた。

「ここ、ヘルシンキの北にある町のことだよ。あのフユコさん、明日バンターで予定があると言っていたが、三十分くらいで着けてしまうのに。今日うちに泊まってから明日出るのでも十分間に合うんだけどな……」

「そうなの?」

「ああ。まぁ、彼女も事情があるだろうから深くは踏み込まなかった。それにちゃんとお礼をする機会も設けてくれそうだったしな」

 それからふと、僕は思う。

「バンターには何がある?」

「うーん」

 パパは唸った。

「私も詳しくない。だがオーロラを見るには少し不向きだ。フィンランドと言えばオーロラを観にくる観光客は多いがね。どうもそれが目的ではなさそうだ」

 それからふと、僕は思う。

 妖精の街で。

 沈黙の十日間で。

 バルト三国のラトビアで。

 フユコが目にしたもの、触れたもの。

 そのどれにも共通項がある気がした。

 だから、僕はパパにお願いした。

「今からバンターに行ける?」

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