第16話 コーヒー

「これなに?」

 僕はフユコに、言葉の書かれたマンホールの正体を訊ねた。するとフユコは笑った。

「あっちの蓋も見てみようか!」

 そう、笑いながら手を引かれた先。

 僕なんか飲み込めてしまいそうな大きなマンホール。そこの蓋にも言葉があった。フユコが読み上げてくれる。

「『あなたがひと口、私はドーナツ』」

「これなに? なんなの?」

 僕はまたフユコを見上げた。

「意味がわからないよ」

「そうだろう、そうだろう」

 フユコは何故か満足げだった。

「少年にはまだ早いかもな」

「ごまかさないで」

 僕はフユコの手を引いた。

「なんなのか教えてよ!」

 あはは、とフユコは笑った。

「じゃあさ、ほら……」

 あっちのは? 

 そう指さされた先にもやっぱりマンホールがあった。僕は走ってそこへ向かった。

 やっぱり、あった。

 不思議な言葉が並んだ蓋。フィンランドの言葉。僕には分からない。

 だからフユコがまた、読み上げる。

「『カッファ、豆の木、私は飲む』」

「『カッファ』って何?」

 ふふふ。

 やっぱりフユコは笑う。

「それはあそこに行けば、もしかしたら分かるかも?」

 そう、道の向こう側にあるカフェを指さす。

「あそこで一服しながら話そうか」



 カフェで。僕たちはテラス席に座った。外の音が聞こえるけれど、カプセルの中にいるような、不思議な場所。

 フユコはコーヒー、僕はオレンジジュースを飲みながら話した。フユコは黒いそれをひとくち飲んでからつぶやいた。

「レーシはさ」

 ぽつりと、つぶやく。

「ふざけたりしたこと、ある?」

 なにそれ? と思ったが、僕は素直に答えた。

「あるよ。友達と学校の先生のお尻を叩いたり、石ころをけとばして猫のそばに寄せたり……」

 ふふふ、とフユコは笑った。

「かわいいね」

「なんだよそれ」

 僕はもう何度目かの「なにそれ」を口にした。フユコはまたコーヒーをひとくち飲んだ。

「訊きたいんだけど」

 フユコがカップを置く。

「そういうのをした時って、どんな時?」

「どんな時?」

「そう」

「そりゃ、思いついた時……」

「思いつくのってどんな時?」

「うーん、友達と遊んでる時……」

 そうつぶやくと、フユコはニコッと笑った。

「そうだよね。遊んでいる時、余裕がある時」

 ここはヘルシンキって言うんだけども……と、フユコはもう知ってる事実を口にする。

「首都だって話はしたね」

「うん」

「国の中心、言わば国で一番栄えてるところ」

「うん」

「そういうところには多分、国内の別の地域とは違う『余裕』があるんじゃないかな。実際さ、ほら」

 フユコはカフェの外を示す。走るトラム。それにバスやタクシー。どれも最先端の技術が使われている……らしい。MaaS、だっけ。

「どこに行っても便利で、人が困ったり苦労したりすることなんて、少ないでしょ?」

「うん」

 けどそれがあのマンホールの蓋と、どう関係あるのだろう。

「さっき、『余裕』があるとふざけられるってことを話たね」

「うん」

 僕はオレンジジュースをひとくち飲む。するとフユコはニコッと笑った。

「あのマンホールの蓋も……?」

 僕は声を上げる。

「おふざけなの?」

「おふざけって言うと怒られるかもだけど」

 フユコもひとくちコーヒーを飲んだ。

「本来ならしなくていいことをしているの、かも?」

「しなくてもいいこと?」

「そう」

 それからフユコはまたひとくちコーヒーを飲んだ。

「あれは詩なんだよ」

 フユコはそうつぶやいた。

「詩って分かる?」

「分からない」

 僕は首を横に振った。するとフユコが説明してくれた。

「綺麗な景色を言葉で表現したり、言葉の持つリズム感だとか、似た発音の言葉を並べたりだとか、そういう『ルール』の中で言葉遊びをする、そんな感じの文学」

「文学」

 その言葉は、少しだけ聞いたことがあった。

「本とか?」

「本にまとめられることもあるね」

「そっか、ああいうのか」

 僕は頷いた。するとフユコが続けてくれた。

「本来なら、マンホールの蓋に詩なんて書く必要はないよね。でもあえて、人々の生活に身近なマンホールの蓋にそれを刻むことで町に住む人たち、ううん、町に遊びに来た人たちにも『遊び』を提供できたらどう? それって素敵な『余裕』じゃない?」

「おお、なるほど」

 僕はジュースの入ったコップを置いた。

「『遊び』なんだね」

「きっとね」

 フユコもそっとカップを置いた。

「だからあの言葉に意味なんてないの。ただ情景を切り取ったり、同じような音の言葉を並べてみたりしただけ。何となく意味分からなかったでしょ? 意味を求める言葉じゃなかったの」

 ふと、僕は思い出す。

「でも『カッファ』は? これには意味があるんだよね?」

 するとフユコはにっこり笑って、目の前に置かれていたカップを手に取った。それから続ける。

「これだよ」

「……コーヒー?」

「そう」

 それからフユコはまた、いつものように僕に知識をくれた。

「エチオピアのカッファって地方が『コーヒー』の語源なの!」

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