沈黙の十日間
第7話 思い出話
ヴロツワフ、レシニツァの難民キャンプに手紙を届けに行った。クラクフでザピエカンカをご馳走してくれたおじさんが、家族に向けて書いた手紙だ。ルーズリーフの切れ端に書いた雑な手紙だけど、有り合わせの封筒に捩じ込んだ大雑把な手紙だけど、大事な手紙。フユコはマサヲを転がして難民キャンプへ向かった。
僕は、難民キャンプとはいえちゃんとしたところがやってるちゃんとした施設を想像していたのだけれど、実際は違った。キャンプが設営されている場所は思った以上に雑多で、暗くて、悲惨だった。悲しみと怒りしかなかった。
フユコと二人でキャンプの隙間、細い道をひたすらに歩いた。僕たちが近くを通ると俯いていた人たちがパタパタと顔を上げ、反対に僕たちが過ぎ去っていくとパタパタと視線を下ろし、息を潜めた。震えていた。みんな何かに飢えていた。フユコは決してお金持ちに見えない。何なら貧しそうにさえ見える格好なのに、この中ではまるで石油王かサンタクロースだった。みんなが僕たちからの施しを待っているようだった。
手紙には宛先人の名前しか書かれていなかった。だからフユコは周りの人に訊いてまわった。この人を知らないか。手紙があるのだが。ひどいもので、中には情報と引き換えに金を欲しがる人もいた。フユコはそういうのには一切応じず、ただひたすらにザピエカンカのおじさんの家族を探した。何度か人違いもした。
「無理だよ」
僕は並んだテントの山を見渡して叫んだ。
「この中から探すのなんて奇跡でも起こさないと無理だ」
「奇跡を起こすの」
フユコはガンコだった。
「私たちが諦めたら、ひとつの家族がバラバラになっちゃう」
「でも……」
「レーシ。お願い」
フユコの必死な態度に、僕は固くなってしまった。それに、そう。それに……。
何より僕自身が、バラバラにされた家族の一員なのだ。戦争でお母さんとはぐれたタダのちびすけ。自分一人じゃ何もできない無力なガキ……。
「あっ!」
フユコが叫んだ。
「あなたが……!」
と、両手を広げるフユコの向こう。
二人の女の子を連れた、やつれた女の人が……。
「よかった」
帰り際、フユコはご機嫌だった。
「手紙、渡せた」
「渡せたね」
僕が頷くと、フユコは僕に、
「手伝ってくれてありがとうね」
と笑った。別に僕、何もしてないけど。
そうして難民キャンプを離れて、マサヲに乗ってしばらく走った。どこを走っているのか分からなかったけど、山の近く、川のすぐ隣をひたすら走って、そして日が暮れそうな頃、近くにあった空き地にマサヲを停めて、一息ついた。フユコは疲れたみたいだった。
「今日は、シャワーは諦めるか」
フユコが切なさそうにつぶやく。
「ひと仕事終えたから、さっぱりしたかったんだけどなー」
「キャンプ場へ行けば?」
と、僕の言葉にフユコが振り向く。
「いや、難民キャンプじゃなくて、普通のキャンプ場」
山の中だし、探せばありそうだった。僕は自分が座っている助手席の、前の引き出しから地図を取り出した。
「僕、探すよ」
「ううん。今日はもう疲れちゃったから」
フユコは首を横に振った。
「今日は寝よう。ありがとうね、レーシ」
「そっか……」
と、僕はつぶやく。フユコが運転席を離れて後部座席のベッドに行く様子をぽかんと見ていた。フユコが上着を脱いで、ベルトを緩めて、くつろぐ格好になる。僕も後部座席に行く。上着と靴を脱いで、フユコの横に寝転がった。
少し、二人で静かにしていた。
やがて、僕は、夢、だろうか、難民キャンプの、淡い光景が、ちらちらと浮かんでは、消えた。みんな俯いていたが、僕たちが近くを通ると顔を上げ、じっと見てきた。その目が何だが怖かった。
うめいていたのだろうか。
ふいに温かくて柔らかい何かがおでこに触ったかと思うと、ぎゅっと、抱きしめられた。甘い匂い。優しい匂い。
「大丈夫?」
フユコの声だった。
「今日は疲れたね」
「うん」
僕は素直に頷く。フユコ相手にこんなに素直に答えた経験、ないかもしれない。
「ごめんね、付き合わせて」
「ううん」
「手紙、渡してあげたかったから」
「うん」
「ザピエカンカ、美味しかったし」
それには頷けない。僕のお母さんの作ったザピエカンカの方が絶対に美味しい。
「あのおじさん、いい人だったから」
それには、頷ける。
「何かお話しようか?」
フユコの提案。僕は少し、考える。
「旅のお話をして」
フユコが僕の頭の上で笑った。
「いいよー。どんな話がいい?」
僕はちょっと考えた。それから、ふと腹の中で固まった、黒い何かを吐き出した。
「今日みたいな話をして」
「今日みたいな話?」
フユコが固まるのを感じた。
僕は続けた。
「今日行ったキャンプの人たち、みんな俯いてた。そういう人の話をして」
「俯く人たちの話をしてほしいの?」
「そう」
「そんな話聞いてどうするの?」
「助けになるかなって」
多分、一度素直になったからだろう。
僕はぺらぺらと、頭の中を話した。
「例えば、階段で転んだ話をすると、友達はその階段を気をつけながら下りるようになる。同じ。俯く人の話を聞けば、俯かないで済むかも知れないし、もしかしたら、今俯いてる人たちも、顔を上げられるかも」
くすっ、と、フユコが笑った。
「いい考えだね、それ」
それからフユコが、僕を抱きしめる。
深い息をつくと、話し始めた。
「これは私がここへ来る前の話」
「ここって?」
「北欧? ヨーロッパの北の方のこと」
「ここへ来る前もどこかへ行ってたの?」
「行ってたよー」
「どこへ?」
「インド」
「何歳の時?」
「二十一歳」
「じゃあだいぶ前だ」
「どういう意味」
フユコの声に潜んだトゲがくすぐったくてへらへらしてると、フユコがまた僕を抱きしめた。それから、続けた。
「インドのある町で、私は修行をしたの」
「シュギョウ?」
「そう。いい人になるための練習、って感じ」
「へえ」
そんな練習、あるんだ、と思った。あるならあの国のあの人にしてもらいたい。
「その練習はね、黙るの」
「黙る?」
「そう。決められた日数、一言も発さない。目配せさえしない」
「そんなの死んじゃう」
僕の言葉にフユコは笑った。それから僕の背中を叩いた。
「私は生きてる」
「そうだけどさ」
「これはね、私がそんな修行の中で経験した話」
フユコの声が優しくて、僕はうとうとし始めた。その話は、そんな中で聞いた。
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