第5話 妖精

 オドラ川、というらしい。この町の傍を流れる川は。

 大きな川だったが汚かった。僕の住んでいた町の川とは大違い。淀んでいるし、濁っているし、およそ「川」に求めるものの何も満たさない代物だった。だが、みんなありがたそうにそこを渡っている。

「この川には二百以上の橋がかけられているの」

 フユコがハンドルを回しながら嬉しそうに話す。

「すごくない? 大きな川」

 同じ川を見ていても、感じることは違うんだなと思った。気づき、ではあるのだろうけど、そんな驚きはほしくなかった。僕は僕の気持ちに「そうだね」と言ってくれる人がほしかった。

 淀んだ水面を見て思う。

 何かの線引き、だろうか。川を挟んであっちが違う町、こっちが違う町、そういうことはよくある。

 と、いうことはこの川が国と国の間に流れている可能性だってあるわけで、つまりはこれは、この川は、僕の国とあの国との間にあったボーダーの意味もあるかもしれないわけで、そこに二百も橋があるとかって言われても、僕の国とあの国の間にはひとつもなかったんだなって悲しくなるだけで、呼吸が苦しくなって、おえってなって、お腹の底から、背中が、全身が、ぶるぶる震えるだけで、悲しくて、辛くて……。

「レーシ」

 フユコの声が静かに、隣から聞こえてきた。

「行こうか。この町に入るよ」

「うん」

 フユコは女の子だ。男は女の子の前で弱いところを見せたらダメなんだ。だって、そうじゃないと、お母さんも妹も、心配しちゃうからね。僕が泣いていいのはお父さんの前だけだ。この前ちょっと、フユコの前で泣いちゃったけど。でもあれは特別なことで、こんな日常のちょっとした場面でポロポロ泣いているようじゃ、男らしく……。

「泣いていいよ」

 それでも、ダメだった。

 卑怯だよ。フユコのその声。



「落ち着いた?」

 橋を渡って町の中に入ってから少しした頃。フユコは、石畳の道路の隅の方にマサヲを停めた。それから一人で車を降りるとトランクルームを開けて、ゴポゴポと電気ケトルでお湯を沸かし始めた。そうして踏み台くらいのサイズの何かをひょいと取り出した。それは二人掛けくらいの長椅子だった。

 僕たちはマサヲのトランクにしまってあった長椅子に腰かけて、のんびりココアを飲んでいた。寒いけど、日差しが暖かい。

「この椅子はね、ショウっていうの。中国の田舎ではわりとポピュラーな家具かな」

 長い木の板に、細くて小さな脚が四本。僕くらいなら横になることもできそうなサイズの、ベッドと椅子の中間くらいの家具だった。

「中国ではね、これを使った武術があるんだよ」

「ブジュツ?」

「戦う技術。かっこいいんだよ」

 そっか、と僕は一息つく。戦う技術。戦う方法。それがあれば、僕もお母さんや妹を守るために、大人たちと一緒に前に立つことができたのかな。僕がブジュツを知っていれば、大切なものを失うこともないし、守ることもできるし、もしかしたらその辺の嫌な奴にだってカモにされることも、ないのかな。

 手の中のマグカップが温かかった。フユコがつぶやいた。

「陶器っていいよね。ぬくもりがある」

「そうだね」

 僕は初めてフユコに同意した気がした。考えてみればそんなことはないのだろうけど、でもそんな気がした。

「ほら、レーシ」

 急に、フユコがマサヲの鼻先、ちょうど石畳の道路がかくんと左に折れた辺りを指差した。じっと目を凝らすと、その道の端、標識の下くらいに、僕のくるぶしくらいまでのサイズ感の、ペンキ缶を持った、小さなおじさんが立っていた……いや、おじさんというか、銅像。

妖精ドワーフ?」

 僕が訊ねると、フユコはニコッと笑った。

「妖精の町だって言ったでしょ?」



 どうも、町中にこういうのがあるらしい。

 マサヲを駐車場に停めて、僕とフユコはしばらく町を散策した。ヴロツワフ。この町の名前はそういうらしい。どこに位置するの? と訊いたら、「ポーランドの真ん中から少し南西」と教えてくれた。「南西ってどういうこと?」と訊くと、フユコは「真ん中から左下」と言い直してくれた。それで何となく位置が分かった。

「フィンランドまで遠い」

 僕がむすっとしながらそうつぶやくと、フユコは、

「プシェミシェルより北に来てるよ」と笑った。「北」の意味は分かっていたので訊かなかった。何より、お父さんのいるフィンランドに近づいているならいい。

「ほら、見て! あの妖精、石を運んでる!」

 町中を歩いていると事あるごとにフユコが声を上げる。道端に設置されているリンゴくらいの大きさをした、様々な妖精の銅像を見つけては、いちいち喜んでいるのだ。まったく。女ってのはどうしてああいうのが好きかな。

「靴を作ってる! 盾を構えてる!」

 うるさいなぁ。

「さっきからもう十回はそんなこと言ってるよ」

「十回じゃないよ」

「じゃあ何回だよ」

「十一回」

「十回でいいよ」

 本当に十一回もあったのか? と思って僕は記憶をたどる。

 町に入ってすぐに一回。銀行みたいな大きな建物の前でひとつ。小さな建物の前で三つ。公園の中に三つ。噴水の傍にひとつ。肉屋の前にひとつ、その向かいのアイスクリーム屋の前でひとつ……ああ、何だかお腹が空いてきた。

「フユコ……」

 僕はフユコの服の裾を握った。

「アイスクリームが食べたい」

「寒いのに?」フユコは笑った。

「食べたい」

 僕がしつこく続けると、フユコは心底おかしそうに笑って、

「じゃあ、さっき通り過ぎたアイスクリーム屋さんに行こうか」と言ってくれた。僕はフユコに手を引かれて道を引き返した。



 変わった店構えのアイスクリーム屋さんだったけど、アイスクリーム屋のおじさんはすごく愛想がいいおじさんだった。

 僕とフユコを見て観光客だと思ったのか、気前よくアイスの塊を二つ乗せてくれたし、フユコにおべっかも言って、ヴロツワフを楽しんで! なんて陽気に笑って、いい一日を! なんて。

「おじさん、何かいいことあった?」

 フユコが明るく訊ねると、おじさんはしきりに頷いて、

「とても、とても」

 と笑った。すごくいいことがあったみたいだ。

「うちのアイスは宝石みたいだろう?」

 おじさんが僕に向かってそう笑った。僕はぼんやり頷いた。

「本当に!」フユコが横から話題をかっさらう。

「ジャム? 溶かしてるの?」

「おっ、分かるかいお嬢さん」

「うん。クリームの中に、本当に宝石みたいなキラキラが!」

「このジャムはうちで採れた木の実を使っていてね。ブルーベリー、ラズベリー、ストロベリーにリンゴ、ブドウ……」

「すごい! 農家なの?」

「違うんだ、それが」

 おじさんはウィンクした。

「ま、別の稼ぎ口があったってことは合ってるけどな」

 その明るさが、僕がいるところとはひどくかけ離れている気がして、僕は少し暗い気持ちになりながらアイスを食べた。ベリー味のアイスはとても美味しかった。甘くて、冷たい。

 で、ふらふらと店の前から離れようとしたところで、気づいた。

 あれ……? 

 僕は記憶をたどった。

 フユコがひとつ見つける度に大喜びしていた妖精。銅像。歩いていたら足を引っかけてしまいそうなくらい小さな妖精の像。

 確か、さっきここを通った時は、妖精がいたはずなんだ。

 僕は何とか思い出す。

 ……そう、そうだ。虫眼鏡を持って石ころか何かを覗き込んでいる妖精の銅像が、このアイスクリーム屋さんの前には立っていたはずなんだ。

 だが、店の前、汚れた石造りの道が広がるそこには、何も置かれていなかった。僕はぽかんとして、それからフユコに告げた。

「妖精がいないよ!」

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