第3話 殉職

「ねぇ、フユコ」

 何とかジャケットを勝ち取ったフユコの袖を引っ張って、僕は訊ねる。フユコは洋服屋の店主とごちゃごちゃ話した後にこちらに向き直った。

「フユコ、ラッパが……」

「ラッパ?」

「うん。ラッパが途中で止まったんだ」

「おーっ、ボウーズ。ラーッパに気づいたーか」

 洋服屋の店主がポーランド語で話す。初めて聞いたけど、ウクライナ語と似てる。漠然とだけど、何を言っているかくらいは分かる。ちょっと発音が変わってるけど。

「いちじかーん、鳴る」

 一時間、鳴る? 

「一時間おきに、鳴るの?」

 僕が訊くと店主は答えた。

「次、楽しみに」

 店主のおじさんがウィンクをする。それから、フユコにまるで親戚に接するみたいな熱いハグをした。フユコも嬉しそうに応じている。何だ、この二人さっきまでジャケットの値段を巡って大騒ぎしていたのに。大人って分からない。



「フユコ」

 中央広場を歩きながら。

 フユコは戦利品の上着の前を合わせて、ポケットに手を突っ込みながらゆっくり歩いていた。僕の歩調に合わせてくれていることに気づいたのは、かなり歩いた頃だった。

「さっきの、ラッパ」

「ラッパ?」

 そういえば聞きそびれた、という風にフユコが僕を見下ろす。

「うん。ラッパ。途中で止まったんだ」

「あら」

 フユコが何でもない、という風に首を傾げた。それから前を見てつぶやいた。視線の先には建物があって、テラス席があった。冬に座るのにはちょっと寒そう。しかしフユコは目を輝かせた。

「素敵なカフェ……だよね? 何かの建物に併設されてるのかな……織物会館? ふうん、楽しそう」

「ねぇ、話を聞いてよフユコ!」

 僕は声を飛ばした。

「ラッパが途中で止んだんだよ。もしかしたら、吹いている人に何かあったのかも」

「吹いている人に何かあった」

 フユコは前を見つめながら続けた。

「いい着眼点だね」

 それよりもさ、とフユコが前方の建物を示す。

「織物会館。行ってみよ!」


 そうしてやってきた織物会館の中にはちょっと立派な……というよりは、豪華な喫茶店があった。こういうの何て言うんだっけ……しにせ? だぼだぼしたカーテンに、丸い背もたれの椅子がたくさん。牛乳みたいな色のテーブルクロスも豪華で、僕の地元で開いたらレストランだと勘違いする人の方が多いだろう。

「カヴィアルニャ・ノヴォロルスキ」

 フユコが店名を読む。

「舌を噛んじゃいそう」

「そんなに発音難しくないよ」

「日本人には難しいの」

 それからフユコは、店内を優雅に歩いていた店員の女性に声をかけ、「子供連れでも平気か?」というようなことを訊いた……それも、いつの間に習得したのやら、ポーランド語で。

 店員がにこやかに頷く。僕とフユコは窓際の席に案内された。椅子に座って、一息つく。僕は訊ねた。

「いつの間にポーランド語を?」

 フユコは笑った。

「ウクライナ語とロシア語を覚えるついでに」

「フユコは何か国語話せるの?」

「『愛してる』だけなら無限に」

 なんだそれ。そんな言葉使う機会あるのかよ。

「あと『おいしい』『ありがとう』も無限に」

「そっちは使えそうだな」

 一番難しい言葉は何語? と訊くと、フユコは笑って答えた。

「ピダハン語」

「何それ」

「アマゾンのある部族が話す言葉」

「話せるの?」

「無理無理。でも、そういう言葉があることは知ってる」

「世界にはどれくらい言葉があるの?」

「一説によれば七千九十七」

「……フユコはどうしてそんなことを知ってるの?」

 やっぱりフユコは笑った。

「マサヲと一緒に旅をして、行った先で教えてもらうんだよ」

 そっか、と椅子の中に落ち着いた頃になって、僕は再び気になることができた。

「フユコは何でフィンランドに行くの?」

 すると、今度は急に、フユコの顔が、塩みたいになった。無機質で、だけど綺麗で。

「約束があってね」

「約束?」

「うん」

「どんな?」

 するとフユコがいきなりいたずらっぽく笑った。

「ナイショ。女の子のそういう話はずけずけ訊くもんじゃないぞ」

 さて、とフユコがメニューを見せてきた。

「何飲む? 私コーヒー。チーズケーキもある! この辺のチーズケーキは有名みたいね! 食べちゃおうかな……」

 何だかはぐらかされたような気分になって、僕は再び椅子の中に身を沈めた。ねぇ! とフユコに訊かれて、僕は「お茶でいいよ」と返した。


「いい加減さ」

 と、僕はお茶を飲みながら訊ねた。フユコは美味しそうにケーキを食べていた。

「教えてよ」

「何を?」

 フユコのキョトンとした顔を見て、「どっちが子供だよ……」と思う。でもそれは飲み込んで、僕は続けた。

「ラッパが途中で止んだ理由」

「ああ」

 と、フユコはフォークを置いた。それからぺろりと唇を舐めると、また笑った。

「レーシの最初の案はいい線行ってたね」

「吹いてる人に何かあったのかもって?」

 そうだとしたら大変だ。急いでお医者さんを呼ばないと。僕がそわそわした気持ちになっていると、フユコはまた綺麗に笑って、

「もうすぐ一時間が経つ。またラッパが聞こえるんじゃない?」

 と窓の外を見た。向こうには立派な教会……空に巨大な槍を突き刺す、立派で歴史のありそうな教会があって、その槍の先、塔の上をフユコは見ていた。

「あそこから、聞こえるはず」

 どうも、塔の先にラッパの吹き手がいることを言っているみたいだった。

 そうして時間が過ぎた。

 ラッパの音が聞こえてきた。

「あ、よかった。演奏者の人何も……」

 と、僕が言いかけた時だった。

 またしても、それは途絶えた。

 パ。

「あ……」

 僕は言葉に迷った。

「演奏が……」

「止まったね」

 フユコがのんびりコーヒーに口をつける。

「また何か……」

「大丈夫だよ」

 フユコはカップを置いた。

「一緒に考えてみようか。ラッパの音が止まった理由について」



「レーシは、何でラッパの音が止まったんだと思う?」

「だからさ……」

 僕はうんざりして答える。

「演奏している人に何かあったんだと思ったんだよ」

「何かって?」

「病気とか……」

「やっぱりいい線行ってる」

「いい線って何?」

「奏者に何かあったから演奏が止まった。この着眼点はいい」

「何かあったなら病院に行かないと」

 ふふ、とフユコは微笑んだ。

「大丈夫だよ。今の奏者さんは平気」

「どういうこと?」

「ねぇ、レーシはさ」

 それからとんでもないことをフユコは訊いてきた。

「戦争、どう思う」

「最悪だよ」

 僕は即答した。

「最悪。本当に最悪」

「そうだよね」

 フユコは頷いた。それから続けた。

「いつかレーシに子供ができて、その子供がまた戦争に巻き込まれるようなことがあったら……」

「ねぇ、どうしてそんな嫌なことばかり考えさせるの?」

「ごめんごめん。でも、考えてみて。いつかあなたの子供が、戦争に。どうしたい?」

 僕はぴょこんとフユコの足を蹴飛ばすように脚を延ばすと、続けた。

「そんな馬鹿なことはやめろって言う」

 フユコは小さく頷いた。

「そうだよね」

「僕はこのことを覚えている。ずっと。ずっと忘れない。何だっけ……プーチン? が僕の故郷をぶっ壊したことを、絶対に忘れない。忘れないでいて、僕の子供とか、孫とかに伝える。こういうひどいことがあったって。同じことをやっちゃいけないって……」

 そこまでつぶやいて僕はフユコに訊ねた。

「どうしてこんな話をするの? 今僕はラッパの話を……」

 と、言いかけて、僕は分かった。それは神様のお告げみたいに急に頭の上から降ってきた。

「ラッパってそのため?」

 するとフユコはしょうがないな、という風に笑った。

「一時間おきに鳴るラッパだよ。ラッパの目的自体は時刻を知らせるため。でも、途中で鳴り止むのは、きっとその瞬間に、ラッパの演奏者に何かがあったことを伝えておきたいんだよ」

 ヒント、とフユコは人差し指を一本立てた。

「十三世紀の中頃に、このポーランドはある国と喧嘩をしました」

 僕は訊ねる。

「戦争?」

「その通り」

 フユコは続けた。

「その国は、騎馬兵って言って、馬から弓を射る技術が優れた部隊を持っていました。さて、問題です。ラッパの演奏中に……」

「……弓矢が当たったらどうなるか」

 僕がフユコの言葉を引き取ると、彼女はやっぱり、にっこり笑った。

「戦争の、記憶だね」

 フユコが残ったチーズケーキを食べる。

「レーシみたいに、子供や孫に伝えようとしたんだよ」

 そっか、と僕はカップの中を見る。

 赤いような、オレンジ色のようなお茶の中に、僕の顔が映っていた。何だかどんより、沈んでいるような。

「ねぇ、何で戦争って起きるの?」

 するとフユコがフォークを置いた。

「それはレーシがこの間答えていたよ」

 何かが、欲しいんだよ。

 僕はフユコの前に置かれた空っぽの皿を見た。

 フユコはまだ、チーズケーキが欲しいのかな。

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