妖精の街
第2話 ラッパ
車の窓から外を見ていると、フユコが「もう少し行ったら、妖精さんに会えるかも」なんて訳の分からないことを言ってきた。僕は返した。
「僕が子供だからってそんなおとぎ話信じると思わないでよ」
するとフユコは噴き出すみたいに笑って、
「夢がない子だねぇ」とつぶやいた。僕はその、あまりにも自然なウクライナ語にやっぱり驚いた。
「フユコはどこでウクライナ語を勉強したの?」
「私?」フユコはハンドルを回しながら、「元彼がウクライナ人でさ」と笑った。そうか、と僕は座席に体を埋めた。
「ねぇ、会えるとしたら……」
フユコがちらりと僕の方を見る。
「どんな妖精に会いたい?」
「馬鹿にしないでよ」
と、むくれる僕に、フユコはしつこく、
「いいから」と肘で突いてきた。僕は困った。
「フユコはどういう妖精に会いたいのさ」
無理矢理質問を返すとと、フユコは笑った。
「バイク乗り!」
「バイク乗り?」
僕は噴き出した。でもまぁ、いそうではあるし、フユコが好きそうだ。
「私の国ではね、妖精って言うと、キノコでできたランプを掲げて、靴仕事や裁縫なんかをしてくれるイメージなんだけど……」
まぁ、そういう一面も妖精にはあるかもな。
「だからバイクに乗った妖精、っていうと、何だかパンクなイメージになっちゃうの!」
「グレムリンだっているんだしさ。機械と妖精はそんな遠いものじゃないよ」
「レーシ詳しいんだね!」
と、言われた僕の胸が、一気にしぼむ。
「……父さんが、昔よく話してくれたんだ」
フユコが黙る。
「妖精の話とか、おばけの話とか」
「怖くなかった?」
僕は首を横に振った。
「怖くなかった。むしろドキドキした」
「楽しいよね、そういう話」
低くなった視線から、窓の外を見る。雲が浮いている。この間の蓋をするような雲じゃなくて、お菓子みたいな、ふわふわした雲。隙間には青空が見える……もう日が、暮れてきているけど。
「これからどこに行くの」
僕がため息交じりにつぶやくと、フユコが明るく、
「妖精のいるところ」
と返してきた。僕はうんざりして、
「そういうのいいからさ」
とむくれると、フユコはまた笑って、
「ごめんごめん。ヴロツワフに向かってる。その前にクラクフによって、ポーランドの南を満喫してから北に向かう」
僕の故郷、ウクライナを出る時にちょっとトラブルがあった。何でも、国を守るために大人の男は国を出ることを制限されているらしい。出られるのは女の人と子供、老人、それらに限定されているらしい。だから状況としてはそんなにのんびりはしていられないはずなんだけど……フユコはどうも観光気分でいるみたいだ。
フユコが国境を越えようとした時、当然ながら検閲があった。フユコは車での移動だったから、入念に中までしっかり、改造して作ったベッドの中や、棚の中まで、綺麗に全部調べられた。検査の後に尋問があった。
「入国の目的は?」
「観光」
「難民じゃないのね?」
「一応。こんなことがあった後だけどね」
フユコがにこやかに対応すると、質問はついに、僕に及んだ。
「その子は?」
「親戚」
「年齢は?」
制服姿の女性職員さんが僕のことを見つめた。僕はその視線が怖くて、シートに深くお尻を埋めた。
「九歳」
フユコは僕の年齢なんて知らないはずなのに、ずばり僕の年齢を当ててみせた。神様の気まぐれか、それとも何か理由があって分かったのか、僕には想像できなかったが、とりあえず嘘をつかずに済んだ奇跡に僕は感謝した。
「ボク、顔を見せて」
職員さんが窓から僕の顔を覗き込む。彼女の目が、僕の顔に、耳に、掌に注がれた。
「行っていいわ」
職員さんが離れた。フユコの車、マサヲは走り出した。
*
「どうして僕の歳が分かったの?」
国境を越えて。
しばらく道なりに、ゆっくりマサヲ走らせているフユコに僕は訊ねた。フユコは鼻歌を歌っていて、それは聞くところによると
「靴」
フユコに言われて、僕は足元を見る。
「ウクライナに割と長いこと滞在してたからさ。子供がみんな、同じような靴を履いてることに気づけたんだ。知り合った人に聞いたんだけど、その赤い靴、子供たちの間で流行なんでしょ?」
僕は足元を見た。そうだ。母さんに買ってもらった新しい靴……。
「そうだけど、だからって何で九歳だって……」
「うん。いくら子供の流行だからって、年齢まで当てられたらびっくりするよね」
「びっくりしたよ……」
と、僕は丸め込まれそうになったことに気づいて、言い返す。
「質問に答えてよ」
するとフユコはくすくす笑って、「サイズ」と返してきた。
「日本で私の姉の子がちょうどレーシと同じくらいの大きさでさ。姉の子だからちょうど私の姪っ子に当たるんだけど。その子の靴のサイズに近いな、って思って。だからあなたは多分八歳から十歳の間。で、あなたを拾った時のことだけど」
フユコがいきなり鼻歌を変えた。聞き覚えのある歌で、僕は何だか胸が熱くなった。
「『小さなグミの木』」
フユコが笑った。
「ちょうどレーシがいた辺りの、リヴィウの外れでお祭りがあったよね。そこで子供たちが……九歳の子供たちが集められて歌を歌ったそうじゃない。『小さなグミの木』を」
そう、そうだ。僕はふるさとがこんなことになる少し前、リヴィウの外れにある小さな教会が開いたお祭りで、これをみんなで歌ったんだ。僕の友達、僕の幼馴染、ご近所、みんなで、この、『小さなグミの木』を。
「レーシと会った時、あなたは瓦礫の中で呆然としながら、この歌を歌ってた」
もしかして、って、その時思ったよ。
そこでフユコが、黙ったから。
僕は涙を噛み殺さなきゃいけなくなった。もしフユコが変わらず鼻歌を歌い続けてくれていたら、僕は少しくらい、鼻を鳴らすくらいのことはできたかもしれないのに、フユコが黙ってハンドルを回すから、僕は息を止めて、歯を食いしばって、涙を……。
「泣いていいよ」
それでも、フユコの優しい声が耳に入ってきた途端、だめだった。コップの水が溢れるみたいに、僕は泣いた。
*
しばらくしてフユコが車を停めた。僕は多分、疲れたんだろうな。うとうとしたまま車に揺られていたから、ここがどこか分からなかった。だからフユコに訊いた。
「ここどこ?」
「クラクフ」
聞いたことがある町の名前だった。そうだ、さっき通るって言っていた。
「歴史ある町だよ」
車から降りてみると、どうも教会の脇にマサヲを停めたみたいだった。すっと空に伸びた十字架が眩しい。
寒かった。逃げる時ほとんど準備をせずに飛び出たものだから、上着も何も持っていない。ぶるりと体を震わせると、ふわっと、フユコが自分の上着をかけてくれた。僕は突っ返した。
「いらない!」
「震えてたくせに」
「いらないもん」
僕は男だ! と返すと、フユコは、
「そういうのダサいからやめときな」
と意地悪い顔をした。
「ほら、子供は黙って大人の言うことを聞いておくの」
「そういうのもダサいし」
「あんた言うね」
しかしフユコは僕に構わず僕の首回りで上着の袖をぎゅっと結ぶと、
「ほら、マントみたいでかっこいい」
なんて小ばかにしたようなことを言ってきた。ムカついたが、とりあえず暖かいので、僕は黙った。
「街で上着を買おう」
フユコはぴったりしたセーターのまま歩き出した。せめて毛布か何か羽織っていけばいいのに、と思ったが、僕がそんな提案をするのより先に、フユコは歩いて行ってしまった。
教会から少し離れたところに広場があり、その向こうにちょっとしたお城みたいな建物がひとつ、どんと大きく立っていた。何だかかぼちゃみたいな形をした、ずんぐりと丸い建物で、砦が四つ、まるで怪獣の角みたいに立っていた。フユコに訊いた。
「これは何?」
「バルバカンっていうのだよ。十六世紀に作られた赤レンガの城壁」
「じょうへき?」
「お城の壁。外からお城を守るために作られてるものだよ」
「十六世紀ってどれくらい前?」
「今は二十一世紀。一世紀は百年」
「うーん。五百年前」
「その通り!」
五百年。気が遠くなりそうなくらい昔だ。
「そんな昔から残ってるものなの?」
「そうみたいね。この界隈でも残されてるのはここだけ……みたい」
「扉がある」
「フロリアンスカ門っていうの。これも十六世紀から残ってる」
そんな風に、フユコの話を聞きながら門をくぐった。その後すぐに目に飛び込んできたのは、真っ直ぐ伸びた大きくて広い道。脇にはいくつも建物が並んでいて、屋根の上には尖った塔みたいなものがいくつか、空に槍を突き立てるみたいに並んでいる。
「この道を真っ直ぐ行ったところに見える広場が中央広場。中世から残っている広場なんだって」
「中世っていつ?」
「うーん、定義によるけど、四世紀から十六世紀にかけてくらいかな」
「十二世紀もあるじゃん! ってことは、千二百年もある!」
「ふふ。そうだね。難しく言うと、封建時代っていうのに当たるのが中世だよ」
「ほうけんって何?」
「王様が政治をするの」
「王様が政治をしていた時代が中世?」
「そうなるね」
フユコはデニムのポケットに手を入れると、ほう、と白い息を吐いた。それから僕の手をとった。
「レーシ! あったかい手してるね!」
「フユコが冷たいんだよ……」
早くどこかで上着買いなよ。
僕がそう勧めると、フユコは「そうだね」と笑って歩き出した。それから辿り着いた市場で、フユコはもこもこしたジャケットをひとつ、店主とあれこれ口ゲンカしながら買った。多分、値切ってたんだろうな。フユコが戦利品を手にするまで、僕はぼんやり、街の空を見ていた。
それが目に入ったのは、中央広場の方に目を向けた、まさにその時だった。
すっと空に刺さった槍。
細長くて、でも槍先には複雑な模様が彫られていて。
教会だってことはすぐに分かった。だけど、その後が不思議だった。
ラッパの音が、聞こえてきたのだ。
知らない曲だった。高らかに響く音色。それはいい。そこまではよかった。だがよかったのはそこまでだった。
パ。
急にラッパが、演奏をやめた。そしてその続きが鳴ることはなかった。
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