明日の空は何色だろうね

飯田太朗

第1話 フユコ

 覚えているのは、母さんの絶望に染まった表情だ。

「レーシ! レーシ!」

 僕の名前を叫んでいたのを覚えている。人の波の中。イモみたいに洗われて、流されて、砕けて、離れて……。

「お父さん! お父さんの……」

 そう、母さんは叫んでいた。お父さん、ですぐに分かった。僕らの父さん。学者の父さん。フィンランドで、建築研究をしている父さん。

 だから僕は、北へ向かうのだ。

 リヴィウの町が爆撃されたのは一昨日のこと。信じられない。もう一昨日のことなんだ。僕にはつい二時間前のことのように感じる。ほとんど眠ってないのが、理由かもしれないけど。

 まどろむと、隣の席に座ったフユコが頭を撫でてくれる。鬱陶しい。僕は首を振って拒絶する。

「ふふ」

 フユコは笑った。場に似つかわしくなく。

「何がおかしいんだよ」

 僕がウクライナ語で話すとフユコも流暢に、

「かわいいなぁ、って」

 と返してきた。僕はムカついて、つい強い言葉を放った。

「何がかわいいんだよ」

「こんなちっちゃいのに、一生懸命、顔をしかめて」

「僕はちっちゃくなんか……」

「身長、何センチ?」

 返す言葉がない。確かに僕はフユコよりは小さいからだ。フユコだってアジア人だし、女性にしては小柄な方だと思うが、ちんちくりんの僕じゃ彼女の頬に頭の先がやっと届くくらいだ。

「安心して。フィンランドまでは絶対連れていくから」

 フユコがハンドルを握ったまま正面を見据える。鉛色の空。灰色の風。

「ここはどこ?」

 僕が訊くとフユコは答えてくれた。

「プシェミシェルの近くかな。リヴィウからそんなに離れてないよ」

 と、窓から外を見る。遠い空。煙が上っている。

 僕がぼんやりそれを見ていると、フユコがこちらに目をやってくれたのか、

「ひどいね」

 とつぶやいた。僕は黙った。

「何のために、あんなことするんだろ」

 フユコが訊いてきた。僕もつぶやいた。

「きっと何か、欲しいんだよ」

 フユコが黙って僕の言葉を促した。僕は続けた。

「ケンカって、だいたいそういう時に起こるだろう? 何かが欲しい時」

「欲しいって?」

「友達は僕の携帯電話が欲しい。僕は渡したくない。ケンカ。分かる?」

「なるほど」フユコは小さく笑った。「プーチンは何かが欲しかったんだね」

「プーチンって誰?」

 僕が訊くと、フユコはまた笑った。

「あなたの友達」

 そいつがどんな奴か知らないけど、もしそいつのせいでこんなことが起きているんだとしたら、そいつはきっと、すっごい嫌な奴だ。



 フユコと出会ったのは昨日のことだ。信じられないけど。僕からすれば三十分くらい前のことにしか思えない。でも事実として、僕が母さんと離れ離れになってからもうお日様が二回も空に出入りしてるし、フユコと出会ったのは間違いなく昨日のこと。だって僕は、この車でフユコと一緒に寝たんだから。

 フユコの車は大きかった。僕の町では見かけない型だった。訊くと、日本ではよく見るタイプらしい。名前を教えてもらったがよく分からなかった。代わりに、フユコはこの車のことを「マサヲ」と呼んでいることが分かった。「ヲ」の発音が面白かった。

 マサヲはよく走った。おんぼろのくせに馬力がある。フユコがアクセルを強く踏むと、ぎゅううん、と音を立てて加速する。プシェミシェルの近くを通るまで、フユコは二回アクセルを強く踏んだ。一回目は銃を持った男たちが道端に見えた時。二回目は、すぐ近くで何かが爆発した時。どっちも怖かった。心臓が凍り付きそうだった。

 フユコと会ったのは、爆撃でボロボロに壊れた教会だった。

 窓もドアも十字架も、何もかもが砕かれた教会場所で、僕は壊れたレンガの壁に腰かけて、呆然としていた。母さんとはぐれた。母さんと離れ離れになってしまった。アクリーナは無事だろうか。僕の妹は、産まれたばかりの妹は、あのごった返しの中、無事なのだろうか。ううん、母さんがしっかり抱いていたから、きっと大丈夫だ。本当は、僕の手もしっかり握っていてくれたらよかったのだけれど。

「きみ」

 いつ、彼女が近づいてきたのか分からない。

 春の日のお日様みたいにぽやっとする頭じゃ、誰がいつ近づいてきたのかなんて分からない。

 でもフユコは気づけば僕の傍にいた。そして手には、ブルーの手袋をしていた。

「大丈夫? 迷子?」

 この状況で、迷子、もないもんだ。

 家がぶっこわされたんだ。

 家だけじゃない。

 学校も、公園も、図書館も、教会も、セルゲイさんちの肉屋もその隣の花屋も本屋も靴屋も服屋も全部、本当にぜーんぶ、ぶっ壊された後だって言うのに、僕みたいなガキンチョ捕まえて、「迷子?」もないもんだ。

「泣かないで」

 いきなりフユコが、僕を抱きしめた。

 その柔らかな感触に、僕の胸が震えた。

 気づけば、吐きそうなくらい、泣いていた。

 怖かった。怖かった。怖かった。耳や鼻がちぎれそうだった。目玉が飛び出そうだった。怖かった。怖かった。怖かった。ただただ怖かった。なのに、この人は、どうしてこんな、温かくて……。

「私と行こう」

 ひとしきり泣いていると、フユコがそう提案してきた。僕は訊ねた。

「行くって、どこへ?」

「きみの行きたいところへ」

「どうやって?」

「私の車で」

「あなた、名前は?」

 すると、僕の頭上で、フユコが笑った。

「フユコ。アベ・フユコ」

「フユコ……」

「きみの名前は?」

「レーシ」

 その名前は自分の名前のはずなのに、遠い親戚の友達の、そのまた友達の名前みたいで、僕は笑ってしまった。笑ったけど続けた。

「レーシ・シェウチューク」

「よろしく、レーシ」

 フユコが手を差し出してきた。握手だ。

「うん、フユコ」

 さて、そういうわけで、僕はフユコに連れられてマサヲの元へ行った。

 マサヲは僕がいた教会の破片の近く、壊れた壁の裏手に停められていて、エンジンがかかっていた。

 細長い車だった。

 運転席と助手席しかなかった。その後ろの座席は綺麗に取り外されていて、代わりにふかふかのベッドがあった。どうやってこの柔らかさを保っているんだろう、という疑問もあったが、それを口にするより先にベッドの脇に目が行った。小さな棚。多分お手製。小さなピアノ。弾くのだろうか。机の代わりかな? 板が一枚。小さな棚は後ろのトランクの方にもう一個、しっかりと立て付けられていて、そこにはケチャップとマスタードの瓶、それから、ピクルスの入った大きな瓶、ジャガイモとタマネギが入った籠がひとつ、それから缶詰がたくさん、置かれていた。どの窓にも、かわいらしいからし色のカーテンが敷かれていた。どうもこの車で生活しているらしいことが分かった。

「ここはフユコの家なの?」

 と僕が訊くと、フユコが笑った。こんな状況に似つかわしくないくらい、明るく、元気に。

「そうだよ! これからレーシの家にもなるかもね」

 助手席に、と言われたので僕は大人しく座った。

 さて、出発、という雰囲気でフユコがシートベルトをしたので、僕も倣った。それからフユコが訊いてきた。

「どこへ行きたい?」

 僕は少し迷った。どこに行こう。どこに行くべきだろう。が、すぐに思い出した。母さんの言葉を。

 父さんの……父さんのところに行かなくちゃ。

「フィンランド」

 僕がそうつぶやくと、フユコは一瞬パッと目を見開いて、それからまた、からりと笑った。

「私の行く先もフィンランド。レーシはラッキーだね」

 ラッキー、ね。

 そういうわけで、僕たちの旅が始まった。

 フユコは北に車を走らせた。

 その日の晩。

 案の定、後部座席のベッドで寝るようだった。フユコはズボンのベルトを緩めると髪を解き、リラックスした顔になった。車を降りると、フユコは後部ドアを開けた。彼女が「ほら」と示すので僕は入った。「あ、靴脱いで」何で脱ぐ必要があるのか分からなかったが、フユコが言うからそうした。脱いだ靴は、ベッド下にあったスペースにしまい込まれた。

 横になると、まだ痺れている僕の頭をそっと包むように、フユコが僕を抱きしめた。呼吸をしていいのか分からなくて、僕はじっと息を止めていた。すると、フユコが口を開いた。

「今日の空は、綺麗だったね――」

 綺麗も何もあるもんか。灰色で、どんよりしていて、鍋の蓋みたいで、濁った色の空のどこが綺麗なもんか。

 しかし僕は言い返す気にならなかった。するとフユコが続けた。

「明日の空は、何色だろうね」

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