かさなるもの、ふたつ

 今日もいい湯加減だった。蓄積ちくせきされた疲れが幾分いくぶんやわらいだ気がする。


 コップに水を注いで飲む。少し火照ほてって乾いた身体に、冷たい井戸水がみる。じんわりと体に広がってゆく、その心地良さに浸る。


 ――風呂上がりの一杯は格別ね。


 ふと、部屋の奥に目を移すと、格子こうしの影がたたみに落ちているのに気付く。


 外は月が出ているのね。久々に、夜風にも当たろうかしら。


 この時期の夜風は冷たくもなく、暑くもなく、丁度良い。

 障子しょうじを開けて縁側に出ると、ほんのり湿った風がほおでる。


 普段は特に冷たさを感じないぬるめの風だが、今の私にはひんやりしていて心地良い。


 空をあおぐと、分厚い雲のけ目から満月がのぞいている。

 しばらく月をながめていると、足元から私を呼ぶ声が聞こえた。


「……姉さん……。見に、来たの……?」

「あら藍花あいか、いたのね」

ながあめの、合間……。晴れるの、珍しい……。から……」

「あなたが縁側に出て、夜風に当たっているのも珍しいわよ」

「そう、だね……」


 妹が夜風に当たることは滅多にない。そんな彼女がわざわざ縁側に出ているのだ、何か理由があるのだろう。

 それを考えていると、彼女の方から答えてくれた。


しょく、あるから……」


 思い出した。今日は数年に一度の蝕の日、満月を紅く染め上ける日。花屋の魔女がそう言っていたっけ。


「そういえば、そうね。最近、雨降ってばっかりだからすっかり忘れていたわ」

「霖の、月……だもの。当然、よ……」

「晴れては……ないけど、月が出て良かったわ。なかなか見られるものではないものね」


 妹の右隣みぎどなりに腰掛ける。彼女は逃げもせず、むしろ私に少し近づくような動きを見せた。

 ちょっと近い気もするけど、別に姉妹の間柄なので気にしない。


「ふたりで、月見……。ひさしぶり、だね……」


 言葉少なな妹はそうつぶやく。


「ええ、とても久々ね。一緒に見ましょ」

「うん……」


 藍花は小さくうなずく。表情変化の少ないその横顔は、口角が上がっていて微笑ほほえんでいるように見える。


 妹との会話が途切れると、沈黙ちんもくの代わりにかえるの合唱が私たちを包みこんだ。


「あ……。はじまる……」


 妹はそう呟くと、ひざに置いていた左手の指先を夜空に向ける。

 私は、それに連れられて視線を動かす。

 彼女の指が示す先にある満月は、真円を崩し始めている。


「始まったわね」




 月が欠けているのが明確になる頃、左肩に重みが加わる。妹の頭が乗ってきたのだ。

 彼女の方を一瞥いちべつすると、ふたりの間にあった隙間すきまはぴったりと埋め尽くされていた。

 珍しいなぁと思いながら、その重みを受け入れることにする。


 いつの間にか、蛙の合唱が再開されて私たちを包みこむ。

 私たちは蝕が終わるまで静かに寄りって、変わりゆく月を眺めた。

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