日の目を浴びて、共に

 病院につくと、汐温は外を眺めることもなく、ただし窓側は向いて、僕に背を向けて寝転んでいた。どこを見てるかは、僕にもわからない。

「お母さん、私のこと忘れてた?」

 汐温が、唐突に降ってきた雨のように、ポツリと言う。普段は声を張っているのに、今日は寂しそうだった。いや、いつも寂しそうなのは事実だけど、今日は特別、寂しそうだった。

「汐温のお母さん、ちゃんと話してくれたから。ちゃんと向き合ってくれたから。汐温も、頑張って見てほしい」

 すると汐温は、手だけを出した。そしてその小さな手に僕は、USBメモリを渡した。どこかに置いてあったPCを取り出してUSBメモリを差し込み、手の届くところにおいてあったVRゴーグルをつける。

「彼方君、見終わるまでちゃんといてくれる?」

「そんなに長くないし、待つよ」

 そう言うと、汐温が安堵したような雰囲気に変わった。

「怖い。ねえ、手、握ってて」

 言われた通り、差し出された手を握る。その手は震えていて、汐温がどれだけ怯えていて、トラウマなのかを、感じ取れた。そして何より、恐怖するぐらいに、冷たかった。

 汐温は何も話さず、黙々と、見ている。仮想世界を通してを見ている。いつもはグルグルあたりを見回すのに、今日は前だけをじっと見つめて固まって、時々、僕の手を握る手に、力が入った。僕もその間ずっと、汐温の手を握っていた。僕まで凍てつきそうで、それなのに優しい、ふわふわした手を。

「彼方君、外、散歩しない?」

 VRゴーグルを外し、薄く、いやそれでも晴れたように明るい顔で、僕を誘う。僕は黙って頷いた。


 フラフラと立ち上がる汐温を支えて、やっとの思いで庭に出た。夏の温かい日差し。全てを溶かしてくれるような、そんな光。さっきまで僕の手を握っていた汐温の手は、僕の肩に移動していた。

「ちょっと!歩くの速い!私、診察以外で歩かないんだからもっとゆっくり!外なんて半年ぶりぐらいなんだよ!」

 汐温も日差しに当てられて、活気が戻っているみたいだった。

「ぽかぽかして気持ちいいね〜〜」

 ベンチに座って溶けるように言う。季節外れの長袖を折りもせずに着ているその姿が、冷雪病ということを物語っている。冷雪病も、この気温で温められればいいのに。

「久しぶりに外の空気吸った感想はどう?」

「私はね〜、毎日寒いからこういうぽかぽかしてるのって、珍しいんだ。冷え切った身体でそこそこ温かいお風呂にずっと浸かってる感じ」

「それは気持ちいいね。ずっと入っときたくなるやつだ」

「寝ないようにだけ注意なんだよね」

 冗談を言って笑い合う時間は、控え目に言って至福だった。汐温といつか、毎日こうしてられたらいいのに。残酷な現実が突然脳裏に走って、一気に憂鬱になる。現実なんてゴミだ。

「私、夏休みになったら気温のおかげでちょっと動けるんだ」

「そうなんだ。海でも行っとく?」

 冗談半分に言ったのに、汐温が食いついた。

「いいね!検査で良かったら、実は一週間ぐらいだけ退院出来るんだよ。毎日出かけられるわけじゃないけど、どこかで海行こっか!」

「僕はいいけど、大丈夫なのか?それ」

 汐温はうーん、と少し悩み、大丈夫じゃない?と開き直った。

「去年はこの制度使わなかったけど、出ることは出来てたんだよ。入院の私にも夏休みみたいな?そのまま体調がずっと良ければ、ずっと出てられることもあるんだって!」

 テンション高めな汐温は「毎日検温はあるんだけどね〜」と苦もなさそうに言う。僕もなんだかテンションが上がってきて、何がしたいか、どこに行きたいかと、汐温と話した。二人で話してる間は夢みたいで、心地よかった。日あたりの良さも相まって、さらに。だから、それに乗じて汐温が病気なんてことも忘れたかった。何度も何度も、失望させられる。希望を見せて、叩き落とす。それが現実。最も醜くて、残酷で、美しいのが、現実。汐温が病気だというのはどうしても残酷だけど、今この夢のような瞬間は、僕にとっては美しくて仕方がなかった。

「いい結果出るといいな」

 ぎこちない笑顔で精一杯答えた。僕もその夢の中で生きる一人になりたくて。

「そうだね!」

 汐温は、いい笑顔で答えた。僕とは対照的に、ぎこちなさなんてなかった。「素」なんだろうな。

 それからしばらくして、汐温と病室に帰った。寒くなるには早すぎるけど、汐温には寒くなるだろうから。まだ外は明るいのに、僕の気分は夕方だった。

「彼方君、次、やりたいことある?」

「汐温の好きなやつ言えよ」

 そうして僕はまた、汐温とのに出かける。それを、汐温の元に持っていく。何度会っても汐温は元気で、死ぬ気配なんて微塵も感じられなかった。

 冷雪病は確かに不治の病だ。しかし、実際いつ死ぬかは、誰にもわからないという。僕の母親みたいに40歳、50歳まで生きる人もいれば、15歳近くで死ぬ人もいる。だからそれはつまり、汐温がいつ死ぬかわからないということ。もしかしたら普通に、これからもずっと、20年以上、僕とこうして生きているかもしれない。神様がいるなら、僕のこの哀れな希望を、どうか叶えてほしい。

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