氷と雪と溶け合って
もう一度会いに行く勇気なんて、僕にはまるでなかった。それでもこれでも、僕の心を何かが縛っている。罪悪感とはまた違う何かが。わからない。このままベッドでゴロゴロしながら考えていても変わらないし、散歩に出かけることにした。
病院に最後に行った日から一週間が経っていた。この一週間、同じことばかりを考えていた。何をしているときも、だいたい同じこと。木村は僕が何か考え事をしているのに気づいたような雰囲気を醸し出しながら、何も聞いてこなかった。木村に相談して変わるようなことでもないと思うから、言う気もなかったけど。
靴紐をほどいて結ぶのも面倒で、踵を潰そうかと思ったけど、木村が常にそうやって履いているのを思い出してほどく。玄関のドアを開くと冷たい風が吹き込んだ。外に出ると暗くて、人は誰一人いなかった。この静かな夜を壊さぬように、街灯が静かに立っていた。その明かりだけが世界を作っていた。世界に僕一人だけみたいだった。春なのに、まだ肌寒い。でもこれが僕は好きだった。凍ったよな心に、この冷たさがちょうどよくて、居心地がいい。それに、こんなときは、母親が死んだ三年前の日も寒かったのを思い出す。いつか、雨宮汐温も死ぬのだろう。彼女のところには誰一人来ないと言っていたから、死ぬときも一人なのかもしれない。違うと言えば違うけど、僕と環境が似てるような気もする。だから余計に親近感が湧いて、接するのが怖かった。親しい人の死の間際を思い出す。それだけで鼓動が激しくなった。急に外が暑く感じられる。すると、凍った心が溶けているみたいだった。そのときだけが、僕の心が生きている証拠みたいだった。
でも、僕もそろそろ、向き合わないと行けないのかもしれない。凍らせて、塞ぎこんでる現状を、溶かさないといけないのかもしれない。これから死ぬ人は「死」と向き合ってるのに。自分がバカみたいだ。大きく息を吸い込んで、冷たい空気で肺をいっぱいにする。それが新鮮で、冷たくて、心地よかった。靴紐がほどけているのに気づいて、結び直す。もう少し、歩くことにした。
勇気を出して病院に来たのに、僕は最初に戻っていた。逃げたい。来たくもない。でも、ここで逃げちゃ駄目だ。周りを見ると相変わらず、自分はバグみたいな存在。早く溶け込みたくて、ドアを開ける。美少女は、変わらずそこにいた。初めて会った日と同じ様に、退屈そうに、窓の外を眺めていた。でも何故だか、それだけで絵になる。
「雨宮さん」
その美少女は、ゆっくりとこっちを向いた。冷めた目で。
「来なくていいって、言ったよね?」
そうだと言って帰るのは簡単だった。でも、ここで引いたらだめだ。
「君とちゃんと向き合いたいんだ」
「どういう意味?」
「僕は母親を3年前に亡くしてる。父親も滅多に帰ってこない。だから僕は孤独で、寒かった。心が凍ってた。だから、君にまでそんな思いをしてほしくないんだせめて、死ぬまで。温かく、生きてほしい」
変わらない辿々しい口調が憎くて仕方ない。言いたいことを箇条書きしたような酷い有り様だったけど、今回は、笑ってほしくなかった。
「彼方君も、凍ってたんだね」
そう言う彼女の顔は薄く笑っていた。
「心なんて凍らせればいい。氷みたいに冷たく固くしてればいいと思ってた。でも、人と関わるのも、ちょっといいかもね」
そう言うと汐温は一瞬だけ間を空けて、ちょっとだけね。と付け足した。
「私の心、溶かしてみてよ。私も頑張って、彼方君の心、溶かすから。氷と雪みたいな似たもの同士、頑張ろうよ」
「それで、具体的に何するんだ?」
「あ、それね、今、私思いついたの」
そう言うと、雨宮、いや汐温の顔は一気に悪い顔になった。なんだか嫌な予感がして、止めようと思ったけど、遅かった。
「私と、恋人になってよ」
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