アリエス(7)

   7


 母の長い長い話が終わる。それは冒険譚で、一つの儚くも気高い愛の物語でもあった。きっとこれが最後だろう。漠然と、そんな予感がした。

 私はかつてないほどに安からな気持ちでその話を聞き終えていた。いや、ちゃんと母に向き合いながら聞き届けたのは初めてかもしれなかった。そして同時に、私の人生を、母との人生を思い返していた。冷蔵庫に貼り付けられた一〇〇ドル札。母が私を捨てて宇宙へ旅立ったこと。事故。ジョナサンと出会ったこと。結婚。将来の子供のこと。不安。そして二五年の時を経て母が帰ってきたこと。再会と困惑。なし崩し的に始まった同居。妊娠。母になること。母であること。苦悩。激昂。そして今、こうして共にいること。

 長いようで短い時間だった。母が帰ってきて過ごした六年は、母のいなかった二五年に比べれば圧倒的に短い。それでも直面した苦労や苦悩を思えば、他のどんな時間よりも濃密で長い時間だったと思える。

 母は今、普段は私たち夫婦が眠っているセミダブルのベッドの真ん中に横たわっている。Tシャツを捲り上げて露わになった腹はバランスボールみたいに膨れ上がっていて、全面に浮き出た血管のような黒い筋が張り巡らされ、目で見て分かるほどはっきりと収縮と膨張を繰り返している。それはまるで母の命を吸い上げているようだった。

 私は針金みたいに瘦せ細った母の手を握った。母の顔はもう何ヶ月も土気色のままで、私の手を握り返すだけの力は残っていないようだった。

「ローガン」

 母の罅割れた唇が微かに動き、囁くような声が聞こえた。思えば、母が宇宙から帰ってきて以来初めて、母は名前で私を呼んだ。男でも女でもいいようにと、私を身籠ったことが分かってすぐに母がつけた名前だった。私は、私に無関心であることの象徴のようなこの名前がずっと嫌いだった。だけど私の名前だった。

 私は、なあに、とゆっくりはっきりと答えた。

「ごめんなさい」

 たぶん声は出ていなかった。けれど母の唇は確かにそう、小さいけれどはっきりと動いていた。

 私は反射的に手を離す。そして空っぽになった手のひらを真っ白になるまで強く握る。

 なんて都合のいい人なんだろう。あれだけのことをして、あるいは何もしてくれなくて、このぼろぼろに擦り切れた今になって、ようやくこんなことを言うなんて。

「……水ね」

 私は聞こえなかったふりをして立ち上がる。部屋を出てキッチンに水を汲みにいく。

 母が憎かった。ずっと感じないように、考えないようにしてきたけれど、今ならはっきりと分かる。私は母が憎い。それは今になってもこれっぽっちも変わらない。私を捨てた二五年は、愛さなかった事実は、決して消えない。

 それなのにどうしてだろう、私は母を嫌いになれなかった。愛してほしかった。憎くて憎くてたまらないのに、今もまだこんなにも愛されたくてしかたないと思っている。

 それが全てだった。

 きっとこれは呪いなのだ。母の呪い。母という存在が子供にかける呪い。母が子に、無償の愛を注ぐのではない。子が母に、愛を求めることから逃れられないのだ。

 私は声を押し殺して泣く。押し殺せなくなってむせび泣く。シンクに勢いよく流れていく水の音が、無様な私の涙を掻き消してくれることを願った。


 夜が明けるころ、母の陣痛が始まった。

 どこにそんな気力が残っていたのかは分からないけれど、母は喉を引き裂くような金切り声を上げた。針金のような四肢を振り乱し、残る命全てを指先に注ぎ込むように腹を掻き毟った。腹からは血と一緒に墨汁のような液体が噴き出した。ジョナサンが抑えつける脚のあいだからも、赤と黒の液体が溢れ出してシーツを染め上げていった。

「お母さん、がんばって!」

 私は叫ぶ。息を二度吐いて、深く吸った。母に真似するよう訴えてはみたけれど、母は壮絶な悲鳴を喉から絞り出すだけだった。

 やはり数冊の本とネットで聞きかじった知識では赤ん坊を取り上げるなんてこと、土台無理な話なのかもしれない。そもそも産む覚悟の持てない私が、人が子供を産むための手助けなんてできるわけがなかったのかもしれない。私は母に頑張れと声を掛けながら、どうしようもなく不安に駆られて、赤と黒の汁を吐き出す股から目を逸らす。

「ローガン、大丈夫。大丈夫だ。お義母さんも、もう少し!」

 ジョナサンの声が私を我に返らせる。ジョナサンも私の呼吸を真似しながら、懸命に母に声を掛けていた。母がいきむ。へそから墨汁が溢れ、腹の皮膚に亀裂が走った。

 私は赤と黒に濡れた両手で頬を叩く。母の股のあいだからおぞましい頭頂部を覗かせる新しい命に手を伸ばす。

「お母さん、もう少しよ!」

 母が叫んだ。ジョナサンも叫んだ。私も力いっぱいに叫んだ。

 ずるり、と母の股から赤黒い汁にまみれた新生児が吐き出された。

 私はその赤ん坊を抱いたまま、固まっていた。赤ん坊は泣かなかった。けれど泣くのは真っ当な人間の新生児の話であって、今自分の腕のなかにいるそれがそうあるべきなのか、私には分からなかった。

 新生児の肌は赤と黒の汁まみれでも分かるほどに黒かった。黒と言っても人間の有色人種のそれではなくて、バーベキューあとの炭のようなくすんだ黒だった。生殖器はなかった。肘と膝の関節が二つずつあった。左右の目は顔の横についているのかと思うほどに離れていた。それらは全部、母が話してくれた〈彼ら〉の姿と一致した。

 しかし顔の中心から生えているという二本の管は見当たらなかった。代わりに小さな穴が縦に二つ、並んでいた。上の一つは収縮を繰り返し、酸素を取り込んでいるようだった。もう一つの下側の穴は大きく開かれたままだった。覗き込むと、舌や口蓋垂が見えた。

 一言で言ってしまえば、おぞましい見た目だった。胎児のときからずっと悍ましく、忌々しい存在だったそれは、生まれてもやはりおぞましい姿をしていた。これが私を愛さなかった母が愛したものだと思うと、母の子宮からこれを引き摺り出す瞬間の私たちの一体感みたいなものは足早に過ぎ去っていって、やはりどうしたって私は許しがたい気分になった。

 もしここで、私がこの赤ん坊の首を捻ったとしたら、それは母に対するささやかな復讐になるのだろうか。私はふと、そんなことを考えた。そして考えたときにはもう、右手がその薄汚い首を掴んでいた。

「おい、ローガン」

「黙って」

 異変に気付いたジョナサンを、私は鋭く制する。人差し指から順番に、手に力を込めていく。

 ふいに、その赤ん坊の下の穴が動いた。まるで餌を求める動物みたいに、縦に開いたり、横に伸びたり、すぼんだりした。

 何度か同じ動きを繰り返したあと、ひゅうと空気が絞り出されるような音がした。やはり人間である母から生まれたこの赤ん坊も、生まれたときには泣かせないといけなかったのかもしれない。私はやけに冷静にそう思った。

 けれど、その赤ん坊は泣こうとしているのではなかった。大切なものを抱くように優しい、だけど初恋の人を呼ぶような緊張に上ずった声で、言ったのだ。

「アリエス」

 それ以上、首にかけた手に力を込めることができなくなった。私は思わず視線を上げて、名前を呼ばれたその人のそばへと歩み寄った。

「アリエス」

 赤ん坊はもう一度、名前を呼んだ。少し恥ずかしそうに、しかししっかりと名前を呼んだ。

「アン」

 母は応えた。か細く消え入りそうな弱い声で、しかし確かに名前を呼んだ。

 母の目から涙が流れる。そしてすべての力を使い果たしたとでもいうように、母の目から光が消えた。

 母の腹の裂け目から見たこともない植物が育っていく。真っ直ぐと空に向かって伸びたそれは瞬く間に蕾をつけていった。

 私の腕のなかにはアンがいた。母に愛されたアンは愛されなかった私の腕に抱かれていた。

 やがて極彩色の一輪花が咲いていく。私はその花びらに手を伸ばす。千切った花弁は鮮やかな水色で、それはあの日、母を遠くへ呑み込んでいった空の色とよく似ているような気がした。

 私はそれを口に含む。

 口のなかに、ほのかな甘みが広がった。

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アリエス やらずの @amaneasohgi

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