アリエス(6)
6
アンを弔う儀式は、その日の日没にすぐに執り行われた。
この迅速な儀式の開催から考えるに、もしかするとアンの肉体の寿命は既に尽き欠けていたのかもしれない。実際のところは分からないし、所詮はアンに生を全うしてほしいというアリエスの願望に過ぎなかった。
アリエスは〈パレ〉の前の広い足場の最前列に立っていた。いつものように二本の柱が屹立し、そこから伸びる蔦が動かなくなったアンを磔にしていた。キリストの復活を待っていた人々もこんな気分だったのだろうかと、ふとそんなことを思った。だがアリエスは迷える子羊ではなかった。彼女は今ここで、マリアになるべく立っていた。
やがて日が完全に沈んでいく。谷底の闇が這い上がってくるように集落全体が、暗闇へと呑み込まれていく。ぼ、ぼ、と順繰りにところどころで松明が灯った。
〈パレ〉のなかから巫女と神官が現れる。神官が配置につくと、いつものように子羊たちは蔦を引っ張り、谷を蹴り、大きな地鳴りを生み出した。
世界が揺れていた。手が少し汗ばんだ。アリエスの人生で最も緊張したのは、博士論文の公開考査の質疑応答だったが、この緊張はそれを遥かに凌ぐものだった。
巫女がゆっくりとアンに歩み寄る。アリエスは姿勢を低く飛び出した。
まず一番手近なところの松明を引っ手繰った。それを振り回しながら巫女とアンの間に割り込んだ。巫女がたじろぎ、神官が臨戦態勢を取る。しかし周囲の同胞たちは愛も変わらず谷を蹴りつけていて、激しい地鳴りは止むことなく夜の峡谷にこだました。
「近寄らないで!」
戸惑うばかりの巫女と違い、神官は儀式の闖入者を排除しようと詰め寄ってくる。アリエスはそんな彼らに松明を振り乱す。火の粉が激しく舞っていた。
アリエスはアンの元へ到達する。神官たちへの警戒を緩めぬまま、アンの額から生え出る極彩色の花を掴む。
簡単に引き抜けるだろうと思っていたそれは、思いのほか固かった。アリエスは松明を捨て、両手で花に力を掛ける。同時、顎が外れそうなくらいに口を開け、極彩色の花を頬張った。花は煮凝った砂糖のような、濃密でざらついた、甘い味がした。神官たちが迫ってくる気配を背中越しに感じた。アリエスは花を口に含んだまま、全体重をかけてその茎を引き抜いた。
刹那、ぴたりと、地鳴りが止んだ。
朱い光によって浮かび上がる無数の視線が、アリエスへと注がれた。アリエスは茎を手に持ったまま、もう一方の手で松明を拾い上げた。迫っていた神官の一人を松明で叩き伏せる。殴られた神官は半身を朱く燃やしながら地面を転がった。
神官が怯んだ。アリエスはこれを好機と絶壁に戻り、松明を振って〈彼ら〉を払いのけた。松明を高く投げつければ、蜘蛛の子を散らすように活路が開ける。アリエスは〈彼ら〉に見せつけるように茎を一齧りし、絶壁を登り始める。
〈彼ら〉のほとんどは状況が読み込めずに右往左往していた。中には半ばやけくそなのか、一度は止まった儀式を再開しようと絶壁を蹴り始める者もいた。何人かはアリエスの凶行を阻止しようと近づいてきた。しかしアリエスはもはやアンに鍛え上げられた移動の名手だった。相手の動きを予測し、僅かな足場から足場へと飛び移り、蔦にしがみついては追撃を躱し続けた。
アリエスは谷を登り切ると、残っていた茎を強引に胃のなかへと押し込んだ。思いのほか瑞々しいせいで、口の端から汁がこぼれそうになる。アリエスはそれを手で拭い、丁寧に舐め取った。アンの生きた印は、余すことなく食わなければならなかった。
追手が迫る前に、森へ分け入った。途中、吐き気を催した。アリエスは地面に突っ伏したが奥歯のあたりまで込み上げた吐しゃ物を強引に呑み込んだ。身体の芯は凍えるように寒いのに、汗が噴き出た。手足は痺れ、アリエスの意志とは関係なく小刻みに震えていた。
アリエスは走る。〈彼ら〉からすれば、アリエスは儀式を踏み躙った大逆人だろう。寛大に出迎え、手厚く扱ってきたにも関わらず恩を見事な仇で返したと思っているに違いない。だがアリエスには確信があった。これがアンを、〈彼ら〉を救う、最も確度の高い方法なのだ。そして同時に、自分とアンが共に生きていける可能性を残す唯一の方法でもあった。
視界が二重に見えた。何度も何度も込み上げる吐き気を呑んだ。根に躓き、草で肌を切った。それでもアリエスはアンが遺してくれた航宙艇を目指した。
果たしてアリエスは辿り着く。操縦席に座り、システムを起動する。そのころになってようやく〈彼ら〉が追いついてきたが、既に遅かった。航宙艇は離陸し、〈彼ら〉も、〈彼ら〉が生きる広大な森もあっという間に小さくなっていった。
航宙艇の外には果てのない闇が続いている。かつてはいくら見ても何も感じなかった漆黒も、今こうして眺めると、とても純粋で美しい景色のように感じられた。
やがて静寂が満たす艇内で、アリエスは操縦席からずり落ちる。痙攣は全身に及び、絞り忘れた雑巾のように全身が汗で濡れていた。
まだやることが終わったわけではなかった。〈彼ら〉の痕跡を消すために、航宙艇を墜落時の状態まで破壊しなければならない。しかし身体は動かず、意識は朦朧としていた。
地球に帰らなければ――。
妄執のようにそう思った。あまりに長い一日だった。ついさっきまで、おそらく何年も、人類未踏の惑星で暮らしていたことが全て夢のように思えた。
だが印はここにある。アリエスはまだ何の変化もない自らの腹を、慈しむように優しく撫でる。
全ては可能性で、確証のない憶測に憶測を重ね続けた大博打にすぎないとしても。
この身にあの人は宿るだろうか。宿ったとして、無事に産まれてきてくれるだろうか。声は、持っているあろうか。
仮説には検証が必要だ。だからそのためにも、まずアリエスは見果てぬ故郷――地球へ無事に帰りつかなければならない。
だけど今だけは少し、アンを想って眠りにつきたかった。
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