アリエス(5)

   5


 チャールズがいなくなったことを、誰も気づいてすらいないようだった。あるいは気づいていたとしても、誰も気にしていなかった。それは一度風に舞って放たれた綿毛の行く先を、たんぽぽ自身が気に留めないようなそういう自然さに似ているような気がした。

それが〈彼ら〉の元々の性質なのか、それともチャールズが異種交配による歪な個体だったからなのかは分からない。たぶんそのどちらも正解で、おそらく前者のほうがより正しいのだろう。アリエスはそう勝手に結論付けた。

相変わらずアンは外に出るとアリエスを避け続けた。アリエスは懲りることなくアンを追いかけた。

 おかげで絶壁を移動する腕は目覚ましく上達した。並みの〈彼ら〉となら比べても遜色ない手際で移動できている自信すらある。ある程度上達したことで、アリエスはどうやらアンが〈彼ら〉のなかでもかなり器用で素早い移動能力の持ち主だったことを知った。

 平穏な時間が流れていた。時間は有り余るほどあるのに〈彼ら〉やアンについて研究する術がないもどかしさも、〈彼ら〉の生活に馴染むにつれて消えていった。やがてアリエスは何か自分にも集落での役割が欲しいと思い、アンにそのことを伝えた。しかしアリエスの言葉はアンには伝わらなかった。もしかしたらチャールズなら通訳が可能だったのかもしれない。アリエスはそのときはじめて、チャールズを谷底へ落としたことを少しだけ後悔した。

 徐々に〈彼ら〉がアンの洞穴にやってくる頻度が増えた。アンはそのたびに私を部屋の奥へと追いやった。相変わらず会話の内容も訪問の理由も分からなかったけれど、アンの立場があまりよくないことだけは空気でなんとなく伝わった。自分には何もできないことが、アリエスはもどかしかった。

 アリエスはこの日もアンを追いかけた。集落の誰よりも早く起きてどこかへ出て行くアンよりもさらに早く起き、入念に準備運動をした。

〈彼ら〉がどうかは知らないが、アンは立ったまま壁に寄りかかって眠る。アリエスは寝床にしている枯草の上で寝たふりをし、目を覚ましたアンが出て行くのを待った。そしてアンが通ったあとの入口が再び閉まってしまう前に触感樹の蔦の隙間を抜け、絶壁を登っていくアンを追いかけた。

 アンに追いつくためには、多少リスクを抱えてでも最短経路で登らなければいけない。蔦にしがみついたアリエスは壁を蹴りつけて跳躍。次の蔦へと飛び移り、それを掴んだまま垂直に壁を駆け上る。

 振り返ったアンがアリエスの想定外の奮闘に目を止める。しかしもう余所見を許すほどの実力差はなかった。アンが絶壁を登り切る直前で、アリエスはとうとうアンに追いついた。

「やったわ……」

 アリエスはアンの腰に手を回し、丸まった背中に体重を預けた。アンももう抵抗はしなかった。

 ちょうど夜明けがやってきて、遥か彼方、茂る木々と暗色の空が黄金に染まっていった。アリエスたちの左側から差す光は暖かくて、頬を押し付けたアンの背中は少し冷たかった。

 アンはついに追いついた褒美とでもいうように、アリエスの同行を許してくれた。この集落を訪れたとき以来の外だった。久しぶりに歩く平な地面は少し違和感があって、アリエスは少し笑った。

 森へ踏み入ると、奇怪な植物たちが出迎える。中には植物を捕食する植物がいたり、カエルのように苦しげな鳴き声を上げる花があった。アンが先んじて危険を制してくれたので、アリエスは緊張しながらも安心して歩くことができた。そして足の裏に少し疲労を感じ始めたころ、少し前を歩いていたアンの足が止まった。目的地に着いたのだと、アリエスにも一瞬で分かった。

 そこにはもう見ることは叶わないと思っていた航宙艇があった。機体には蔦が絡み、ところどころには苔が生え、損傷した部分は手荒に直されていたが、それは紛れもなくアリエスをこの惑星へ運んできた舟だった。

「これ、あなたが?」

 アリエスはアンを見た。アンもアリエスを見ていた。言葉は伝わらなかったけれど、想いのようなものは確かに伝わったような気がした。

 きっとアンはずっとこの航宙艇を直していたのだ。自分が本来作るべきものを差し置き、〈彼ら〉にとって完全なオーバーテクノロジーの産物である航宙艇を。たとえ同胞の顰蹙を買い、文句を言われることになろうとも決して止めなかった。

一体何のために?

 決まっている。この惑星に不時着したアリエスを、元の場所へと帰すためだ。アリエスが望もうが望むまいかは関係がない。元の場所で、待っている者がいるはずだと、アンは言いたいのだ。今日こうして連れてきてくれたのも、修理が終わった航宙艇をアリエスに見せるためだったのだろう。追いついたとはしゃいでいた自分が恥ずかしくなった。

 アンに背中を押され、アリエスは航宙艇に乗り込んだ。見かけは修理されているが、一度死んだ電気系統が復活しているわけがないと思った。そうすればアンも諦めがつくだろうか。このままずっと自分とともに生きる選択をしてくれるだろうか。だがアリエスの想像は裏切られ、航宙艇は起動された。

 燃料タンクの損傷がなかったことが功を奏していた。もしそこが壊れていれば、いくら修理が完全でも飛び立つことはできなかっただろう。残りの燃料は十分とは言えないが、宇宙に戻る分くらいは申し分ない量だった。

 涙で視界が滲んでいった。それはアンの献身に対する感動でもあり、唐突に訪れることになった別れへの寂寞でもあった。

「帰る必要なんてないのに」

 アリエスは呟いた。アンの目には集落で過ごす自分の様子が故郷へ帰りたいように見えたのだろうか。アリエスは満たされていた。もちろん慣れないことは多く、不便はあった。けれど五感で感じられる全てが新鮮で豊かなこの土地に、深い愛着を感じていた。それはアンには伝わらなかったのだろうか。

 いっそここで航宙艇を破壊してやろうかと思った。所詮は機械だ。太い木の枝を引き摺ってきて、何度か力いっぱいに振り下ろせば操縦盤コンソールくらい破壊できるだろう。そうすればさすがのアンも、もう元通りには戻せやしない。

 アリエスは決めた。しかし操縦席から立ち上がった瞬間、その決意を引き裂くように、艇内に電子音が響き渡った。

 続くのはノイズ混じりの音だった。激しい砂嵐のなかを掻き分けてきたように、声がかたちを結んでアリエスの耳朶を打つ。

 内容はほとんど頭に入らなかった。信号を受信した、失踪中の機体で間違いないか、すぐにそちらの座標を割り出す、と聞こえてきて、アリエスは慌てて航宙艇のシステムを落とした。

 暗くなった艇内で、アリエスは倒れ込むように操縦席に座った。全身の毛穴から疲労感が滲み出ているようだった。しばらく天井を見つめたあと、深呼吸をした。気持ちを落ち着かせ、いつも通りの思考を取り戻すには少し時間が必要だった。

 通信相手はこちらの座標を割り出してしまっただろうか。もし割り出していたとして、到着まで残されている時間はどれくらいだろうか。そもそもこの惑星はどこなのだろう。小惑星帯のどこかなのか。それとも全く違う場所なのか。量子通信の範囲は教えてもらったはずなのに思い出せなかった。

 軽率だった自分を呪った。人類が〈彼ら〉を見つければ、間違いなくチャールズの言葉通りになるだろう。人類は、イルカやカラスがそうだったように、意思疎通が図れない者たちを同等の知性生命体だとは認めない。見つかった暁に〈彼ら〉を待っているのは、人類による研究という名の徹底的な搾取だ。

 今すぐこの場を離れ、宇宙へ向かえば事なきを得るだろうか。そう考えて、あまりにも短絡的なその思考を切り捨てる。既に航宙艇の座標は割り出されているかもしれない。ただ宇宙へ出るだけでは、人類による〈彼ら〉の発見を先延ばしにするだけだ。思考はまとまらなかった。

 アリエスは一度外の空気を吸おうと航宙艇から降りる。しかし深呼吸をする暇もなく、アリエスの目には倒れたアンが飛び込んできた。

「アンッ!」

 アリエスはアンを抱き起こす。倒れるアンの身体はぐったりと力が抜けていて、まるで発泡スチロールのように軽かった。

 アリエスはアンの脇に肩を入れ、集落へと引き返す。幸い女一人の力でもアンを運ぶのは難しくない。草が生い茂り、根が跋扈する悪路を、アリエスはできる限りの最速で走り抜ける。

大丈夫よ。すぐに着くわ。もう少し。頑張って。アリエスは切れる息で、絶えずアンに声をかける。伝わっていないと知っている。だけど言語や文化が根本から違っても、伝わる何かがあるとアンが教えてくれた。アリエスは必死に集落を目指した。

太陽が照っていた。額には大粒の汗が浮いていた。集落のある谷にまで辿り着くと、ちょうど採集に出掛けるグループと鉢合わせた。グループのうちの一人が絶壁を下って同胞を呼んだ。やがて〈彼ら〉が集まってきて、アンを担いだまま地面に手をついていたアリエスからアンを取り上げた。

アンの額は左右に裂け、極彩色の花が咲いていた。

アリエスは間に合わなかった。いや、〈彼ら〉の肉体の死がどう訪れるのかを知らない以上、間に合わなかったかどうかすらも分からなかった。アリエスはアンの死の、責任を負うことさえできなかった。

涙は出なかった。悲しくて苦しいはずなのに、アリエスは泣けなかった。

それは思いついていたからだった。たとえ近い将来、人類に見つかってしまうことになったとしても〈彼ら〉を生かす方法が一つだけあった。

アリエスは笑い声を上げた。壊れたように笑い続けた。その行動の意味を、〈彼ら〉は誰一人として理解しないだろう。だが不気味さだけははっきりと、〈彼ら〉の脳裏に焼き付いたに違いなかった。


   †


 一月もすると母のは少しずつ収まっていった。それどころか母は料理を始め、髪を手入れし、積極的に散歩へ出かけた。かつての美しさを少しずつ取り戻していった。そして容態が安定していくのと引き換えに、母の腹は少しずつ膨れ上がっていった。

 劇的なことは何もなく、淡々と耐え難い日々が続いていった。かつて私がかたちを為し、生まれるまでの一〇カ月を過ごしたその場所で、別の何かが育っていた。母は膨れていく自分の腹に毎日のように何かを話しかけ、優しく撫で、愛しさの込められた視線を向けていた。そのどれもが私にとって、とてつもない苦痛だった。

 私は自分のことをずっと強い人間だと思って生きてきた。少なくとも弱くはないと思ってきた。だけどそれは勘違いだった。たった一ヶ月で、懸命に生きてきた三二年の私は何をされるわけでもなく崩れ去っていった。

 長い時間眠ることができなくなって、食欲が減った。いつも何かに苛立つようになって、時計の針の音が耳障りで家中の電池を捨てた。洗濯かごの中にジョナサンの丸まった靴下を見つけたときは、眠ろうとベッドに入っていた彼の顔にそれを思い切り投げつけた。気に入らないことがあればすぐに声を荒げたし、片づけられない家のなかはすぐにゴミで溢れかえった。そうやってちゃんとできない自分に腹が立って掻き毟った髪の毛は、嘘みたいにぼろぼろと抜けた。

 そんな状態でも仕事にだけは行っていたのは、もちろん休んでいられないという経済的な理由もあったけれど、少しでも母から距離を取る方法がそれしかなかったからというのが一番の理由だった。でも帰れば、ただ苦しいだけの時間が待っている。私の心身は熱心な学生の消しゴムよりも呆気なく、磨り減っていった。

「ほら、もうすぐよ。地球の空気は、あの場所より少し汚いけど、見える景色にはきっとたくさんの驚きがあると思うわ」

 家に帰ると、母が腹に語り掛けている。私は乱暴に鞄を置いたけれど、それでも母は恍惚とした顔で自分の腹を撫で続けていた。

いつもと変わらない光景のはずだった。母と暮らすようになってから、母も私もお互いに最低限の関わりしか持たなかったし、会話だってほとんどなかった。それなのに、私の劇場は急激に沸点に達した。

 テーブルに置いた鞄をもう一度引っ手繰るように手に取った。足を踏み鳴らしながら母へと歩み寄り、その後頭部目がけて思い切り鞄を振り抜く。大したものが入っている鞄ではない。中身は化粧ポーチと財布、キーホルダー。それからペンケースくらいのものだ。

 だけど不意を突かれた母は前につんのめり、腹の重さもあってかソファから落ちた。その何とも言えない無力で弱々しい母の姿が、逆に私の嗜虐芯を呷った。もう一度鞄を振りかぶり、鋭く母に振り下ろす。中身が飛び散って窓ガラスを打った。私は軽くなった鞄を何度も何度も母に叩きつけた。母だって抵抗しなかったわけではない。腹を庇うように腹ばいになりながら、私の足首を引っ張った。私はそれを蹴り払い、母の背中を踏みつけた。

 母が苦痛の声を上げた。お腹を押さえたまま横になり、私に背中を向ける。母の股からは墨汁のような黒い液体が漏れ出していた。私はそれを見下ろしながら、やっぱり悍ましくてしかたなかった。

 流産すればいい。私を愛さなかった母が、次の子供を持つ資格なんてあるはずがない。そんなこと許されていいはずがないのだから。

 私はこのとき初めて、母に対して激しい憎悪を感じていた。このまま母を死なせることになったってかまわないと、背中を踏みつけ、鞄を振るった。

もしジョナサンが帰ってこなければ、私は本当に母を殺していたに違いない。もしそうなっていたら、私は後悔したのだろうか。それともこれでおあいこね、と清々しい気分で罰を受け入れていたのだろうか。今となっては分からない。

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