アリエス(4)

   4


 母の吐き気には波があったが、それは収まることなく二週間続いた。バスルームの床や壁には臭いが染みつき、その間ほとんど食事を摂ることができなかった母は、元から痩せていた身体をさらにげっそりとやつれさせていった。

 私はと言えば、さすがに放っておくわけにもいかず、母をつきっきりで看病する羽目になっていた。休んだ分だけ家計が苦しくなるのは必然で、私は母との激しい口論の末に、母の学生時代の後輩だという医者を頼って秘密の上で病院に行くことを勝ち取った。

「何かいるね」

 それがレントゲン画像を見たスティーブ医師の第一声だった。

 私は一瞬意味が分からず困惑した。しかしスティーブ医師は思いのほか冷静で、それは医者としての矜持なのかもしれないし、元からの性格かもしれなかったけれど、おかげで私は呼吸を繰り返しているうちにいくらか落ち着くことができた。

「何かいるっていうのは……?」

「そのままだよ。産婦人科は専門外だけどね、お母さんは妊娠している」

 私は思わず母を見た。収まったはずの困惑は動悸になって再燃し、私の背中や脇は嫌な汗をかき始める。母は落ち着いた様子で、スティーブ医師の言葉に耳を傾けていた。

「これがおそらく胎児。専門外だけどね」

 スティーブ医師はモニターに表示されるレントゲン画像を指差す。そこには小指の爪くらいのサイズの欠片が映っていて、それをじっと見ていると、私は放っておき過ぎて発芽したソラマメを思い出した。

「とりあえずおめでとう、かな。アリエスさん。ま、ちゃんと専門家のところで診てもらうのを進めておくよ。もちろん今日のことは内密に。分かっているとも」

 私たちはスティーブ医師の元をあとにした。母を助手席に乗せ、私は運転席に座る。母の手にはビニール袋を握らせる。ゆっくりとアクセルを踏んで、パーキングを出る。

 運転しながらも、私の頭は母の妊娠のことでいっぱいだった。

 宇宙での放浪があるとはいえ、六四歳の母に出産などできるのだろうか。年齢的にも体力的にも厳しいのではないだろうか。そもそも誰とのあいだに出来た子供なのだろう。私たちと暮らし始めてから半年。ほとんど家から出なかった母がどこかで男を作り、その身に新しい命を宿すような余地があったとは到底思えない。それに母は私を愛さなかった。そのことを覚えていてなお子供を作ったのだとしたら、愚かにもほどがある。

 だから、考えられる可能性は一つだった。時間軸がおかしいことは分かっている。けれど、母のが嘘や妄想ではないのだとしたら――そう考えるだけで、背筋が凍りついた。

 信号が赤になり、私はブレーキを踏んで停車する。シートベルトが弱く身体に食い込んだ。前の車には天使のステッカーが貼って会って、ガラスの向こうにはネズミや黄色いクマのキャラクターの人形が置いてあった。

 私は母を見る。母は手首にビニール袋をぶら下げたまま爪を噛んでいる。私はラジオをつけて音量を上げた。

 流行りだというメタルバンドのひずんだギターが車内を満たした。信号が青に変わった。私は思い切りアクセルを踏む。しかしいくら速度を上げて窓の外の景色を置き去りにしても、喉と胸のあいだに引っかかる靄はなくならなかった。


   †


 驚愕の儀式から四一八回目の朝を迎えた。

 空は薄暗く、〈彼ら〉の肌が溶けだしたような曇天だった。アリエスの脳裏には、溶けて消えるチャールズの姿がまだはっきりと焼き付いていた。

 あれから一二回、同様の儀式が執り行われた。〈彼ら〉の遺体からは毎回決まって極彩色の花が咲き、別の個体がそれを食らった。亡骸は分解され、溶けて大地へと消えていった。

 一三回参加して分かったのは、巫女は特定の個体ではないということ。誰かが死ぬたび、巫女は〈彼ら〉のなかから選ばれる。二本の管を引き裂かれ、同胞の亡骸に咲いた花を食らうべく牙を露わにされる。そして食らったあとは〈パレ〉の奥深くに引きこもり、出てこない。

 同胞を食らった巫女たちが〈パレ〉の奥で何をしているのかは定かではなかった。一度だけ〈パレ〉に侵入しようと試みたことがあったが、〈パレ〉に辿り着くより先にアンに見つかって、珍しく憤った様子のアンを目の当たりにすることになり、アリエスは以来侵入を諦めた。

〈パレ〉に近づく以外、行動が制限されることはなかった。とはいえ、あの巨大樹のような脅威にいつどこで遭遇するかは分からない。だからアリエスは滅多に集落の外には出ず、安全が約束されている範囲において〈彼ら〉の生活を観察し続けた。

 集落には、それぞれ食料などの採集に出る者たち、それを受け取り管理する者たち、武器や衣服を制作する者たち、例の儀式など祭事を担う者たちなど、アリエスが見て判断できるだけで四二のグループが存在した。そしてそれらが個別に役目を果たしながらも無駄なく、集落全体がまるで一個の生き物であるかのような流動性によって、集落での生活を推し進めていた。アリエスの面倒を見てくれているアンはどうやら道具や衣服を制作する者たちに属しているようだったが、その仕事ぶりが芳しくないのか、時折別の個体が家へ訪ねてきては剣呑な雰囲気でアンと向かい合っていた。相変わらずコミュニケーションの声は聞こえないし、彼らは例の儀式のとき以外は極めて最小限の動作で生活するきわめて温厚な種族らしく、本当にただ向かい合っているだけだったが、まばたきの回数や微細な身振り手振りや姿勢の変化で、それぞれの感情をなんとなく推測できるくらいには、アリエスも〈彼ら〉に馴染んでいた。

〈彼ら〉の生活の骨子となっているのは、やはり集落のいたるところを這っている蔦だった。その蔦の一部には、触れたときの体温、接触の面積や圧力などによって規則的に蠢く性質を持っているものがあった。最初にアンの洞穴を訪れたとき、行く手を塞いでいた蔦で編まれた扉もこの性質を利用したものだった。アリエスはこの蔦を触感樹セルマン・カプリシューと名付けて、その繊細な法則を探った。しかし〈彼ら〉のように触感樹を使いこなすことはもちろん、どの蔦が触感を有し、どの蔦が非触感なのかすらも判別することができなかった。

 またアリエスはアンの家のなかに並ぶ置物の意味の解読も試みた。どれも胴と頭に分かれた人のかたちをしていたが、一つ一つ微妙に違い、描かれた文様も異なっていた。やがてそれらは集落の誰かが死ぬたびに数を増やしていることが分かり、それぞれの故人を偲ぶための意味を持っているとアリエスは解釈した。その証拠に、一件異なるように見える文様には共通する部分が少なからずあり、それはどうやら所属するグループを記しているらしいと推測できたのだ。

 いずれにせよ、アンは地面のシミになっていった同胞たちに思いを馳せていた。いや、アンだけがそうだった。それはたとえ同胞が崖から落ちようとも気に留めないほどに個という観念が薄い〈彼ら〉において特異なことだった。

 だからアリエスはアンに興味を持った。それは今から思えば、単なる観察対象に抱くべき興味を超えていた。アンが何を思い生きているのか、自分についてどう考えているのか――つまりそれは、自分がやがて死んだとき、アンはどんな置物を作ろうと思っているのか――知りたくなったのだ。

 アリエスはアンについて回るようになった。しかしアンは洞穴にいるときと違い、屋外でアンにつきまとわれることを極端に嫌がった。チャールズがシミになった夜から四一八回目の朝である今日もアンに容易く撒かれてしまったアリエスは、触感樹に掴まりながら崖に切り取られた空を見上げていた。

 自分がこの空のさらに向こうから落ちてきたのだと思うと不思議だった。果たして自分は帰れるのだろうか。いや、帰りたいと思い、そのために手を尽くすことができるのだろうか。そもそも今更帰ってどうするというのだろう。そんなことを考えた。

 やがてアリエスは散漫な思索に耽るのを止める。現状、アリエスの望みに関わらず、帰るための手段がない。あまりに独自の文明と文化を発展させている〈彼ら〉の技術では、航宙艇を直すことはほぼ不可能だろう。開放的とは言えない〈彼ら〉の社会が、宇宙へ出て行くことを想定した技術を持っているとも思えない。だからもし地球へ帰りたいと願ったとしても、それは無駄なことだった。

 アリエスは徐々に腕の疲労を感じてきて、移動を再開した。触感樹セルマン・カプリシューの蔦を掴んで地面を軽く蹴り出す。振り子の要領で蔦が大きく前進し、向かった先で垂れ下がる蔦を掴まえる。蔦を脚でもしっかりと掴みながら程よく力を緩め、一気に下へと降りていく。降りきる前に別の蔦を掴み直して移動し、一足分と少しの幅の足場を飛び移るような軽やかさで移動する。

 もう慣れたものだ。通る道はだいたいいつも同じなこともあって、なんとなくどこをどう踏んで、どの蔦を握ればいいのかが感覚として理解できた。特に筋力が必要な登りと違い、テクニックと判断力がものを言う下りでは、髪を靡かせる風の心地よさを感じていられるくらいには余裕があった。

「――――タ」

 そうやって油断をしていたからだろうか。アリエスは頭上から聞こえた、聞こえるはずのない声に気を取られて上を向き、その瞬間、着地すべき足場から足を踏み外した。

 喉の奥から空気を圧し潰したような悲鳴が漏れた。しかしそれは落下の際に生じた風音に掻き消される。アリエスは手を伸ばした。岩の突起を掴みかけるが、かかった重さで爪が割れ、岩の表面を指先が滑っていった。死を感じた。空がゆっくりと離れていった。

 しかしアリエスと空のあいだに何かが割り込んだ。その影は重力に引かれて落ちていくアリエスよりもさらに速く、頭上からこちらへと迫ってくる。肘関節が二つある腕が伸ばされ、落ちていくアリエスを抱える。急減速したアリエスの脳が揺れるなか、影は蔦を掴んで減速。やがて絶壁に両足を押し付けて完全に制止した。

「アン!」

 アリエスは思わず声を上げ、恩人の胸にしがみつく。しかしすぐに顔を上げる。わずかな匂いや触れたときの感触ですぐに分かった。それはアンではなかった。

「……ごめんなさい。誰、なの?」

 それは見たことのない個体だった。二回りほど小さいが、アンや他の〈彼ら〉同様の黒灰色のくすんだ皮膚に離れた両目。四肢の関節は二つずつあって、顔の中心からは二本の管が垂れている。だけどそれだけではなかった。産毛が生えているだけだった頭頂部には豊かな赤茶色の毛が生えていたし、二本の管の間には円形の歯茎によって囲まれたような、小さな穴が空いていた。

「どクタあ、ヘんリえッた。ぼクデすヨ」

 懸命に耳を澄ましたとしても聞き取るのが難しい、か細くて奇妙でいびつな発音だった。だからアリエスは次の言葉を発したとき、ほとんど質の悪いジョークのつもりですらあった。だが同時に、自分のことをドクターと呼ぶ人間が、この惑星で一人しかいないこともまたちゃんと理解できていた。

「ひょっとして、ジェンキンス教授?」

 その個体はまばたきを一つして、それから神妙に頷いた。


   †


 チャールズだという小さな個体は集落よりもさらに谷の奥深く――蔦が届くぎりぎりの低さにまで移動すると、事の敬意をゆっくりと語った。

「つまり、あなたは〈彼ら〉の胎内で意識を取り戻し、生まれたらその姿だったってこと……」

「ソノ通りでス」

 チャールズは頷く。常識を優に超える現象を突き付けられて、アリエスは思わず額を押さえた。

 最初は半信半疑で聞いていた。しかし彼の見た目が他の〈彼ら〉と大きく異なることは〈彼ら〉とは異なる遺伝子が発言している証拠と言って問題ないように思えたし、彼が音声言語、しかも英語を話すことや〈ラインスター計画〉に参加していた乗組員クルー全員の名前を諳んじたことは記憶が引き継がれていることを証明していた。

 要約すれば、チャールズ・ジェンキンスは転生したということになる。

 今もまだ完全に信じ切ったわけではなかったが、目の前に並べられた事実がその確からしさを示していた。

 きっとチャールズの遺体から咲いていた花はその細胞や記憶などの生体情報を養分として育ったのだろう。宿主の死とともに生育が加速し、死後間もなく成熟して花開く。〈彼ら〉はそれを食らい孕むことで死んだ同胞を次の世代へと引き継いでいく。

 まだあくまで目の当たりにした現象をさらっただけの仮説だが、そう考えることで納得できる部分もあった。

 たとえばアリエスがずっと感じていた〈彼ら〉の個としての感覚の薄さ。肉体の死が個別の魂の死を意味しないならば無暗に悼む必要もない。ただ器が変わるだけでやがて全ては引き継がれ、この集落の営みは連綿と続いていくのだから。アリエスにはまだ理解しがたい感覚ではあったがそういうことなのだろう。

「どクタあ、ヘんリえッた、彼ラハ危険だ」

 チャールズのぎこちない声には、もう手遅れだろうという諦めが含意されているような気がした。問題は一体どうやって生体情報を吸い上げる植物を植えられたのかということだったが、考えられる限り、毎日一度は摂取しているあの緑色に透き通ったスープに違いないだろう。

 そこまで分かっても、アリエスは思いのほか冷静だった。〈彼ら〉はアリエスたちの命を積極的に奪っているわけではない。むしろ空から降ってきた得体の知れない生命体であるはずのアリエスたちを、〈彼ら〉は快く自分たちの文化のなかへ迎え入れてくれている。

 しかしそれはあまりに牧歌的な思考なのかもしれなかった。その証拠に、チャールズが描く青地図はアリエスの考えとは違っていた。

「ダが、興味深イこトモ確カダ。だかラ、君ハ、ナンとカシテ地球ニ帰ラナクチゃなラナイ。彼ラの生命さいクるは、人類ニ必ズ益ヲモタラす」

 チャールズは饒舌だった。〈彼ら〉の妊娠と出産と死、件の植物の生育のメカニズムを明らかにできれば病の克服はもちろん、不老不死ですら現実味を帯びるはずだ。生体情報を人類が解読可能なコードに変換できれば、ロボットやAIの開発にだって飛躍的な進歩をもたらすだろう。彼が興奮気味に語る一方で、アリエスの頭からはすっと熱が引いていく感覚があった。

 チャールズは〈彼ら〉の生命サイクルのなかに取り込まれた。

 しかし彼はどうしようもなくヒトだった。

「そうね。あなたの言うことは一理ある。一度、上に戻ってから具体的な方法を検討するわ」

 アリエスはそう言って両腕を広げる。チャールズは戸惑うように視線をぐるりと彷徨わせた。

「さっき落ちたとき、手首を捻ったみたいなの。これじゃあ登れないわ。おぶって上まで連れていってくれる?」

 チャールズは、ぶしゅうと顔の真ん中にある穴から息を吐いた。アリエスに背を向け、しがみつくよう促した。

「ありがとう」

 アリエスはそう言って、チャールズの肩に手を掛ける。そして足を思い切り払うや、肩を掴んだまま腕を強引に引いた。バランスを失ったチャールズの身体がアリエスを追い越して壁から離れていく。チャールズは咄嗟の反射でアリエスの手首を掴んだが、アリエスは自由になる右足でチャールズの腹を思い切り蹴りつけた。

 顔の穴から再びぶしゅうと息が漏れ、アリエスを掴んでいたチャールズの手が引き剥がされる。あとは重力に引かれるまま、チャールズの身体が谷底に広がる闇に呑まれるのを見送るだけだった。

 ヒトはどこまでも強欲だ。慎ましくひっそりと営まれる〈彼ら〉の生活を、荒らさせるわけにはいかなかった。

 アリエスは掴まれた手首を押さえながら頭上を見上げる。空はやはり遥か遠い。しかし人類はこの遠大な距離を縮めうる技術を持っている。

「これじゃ本当におぶってくれる相手が必要ね」

 アリエスはそう呟いて、蔦を掴む。力を込めると、やはり手首は痛んだが、すぐに気にならなくなった。


   †


 家に着くや、私は母をソファに座らせ問い詰めた。

「どういうつもりなのよ」

 母を睨む。母はテレビをつけようとリモコンを手に取ったので、私は母の手首を掴んだ。リモコンを取り上げようとしたけれど、母も頑なに離さなかったので、私は母をソファから引き摺り下ろすように押し倒した。

「何考えてるの」

 床に這いつくばるように倒れたまま、母は私を見上げて黙っていた。母には私の曖昧な質問の意味が分からないらしかった。リモコンは床を転がっていて、その拍子に電池が抜けていた。電池はゆっくりと転がって、テレビボードの下の隙間に入っていってしまった。

 本当に産む気なの? その年で産めると思ってるの? 一体誰との間にできた子供なの? 産んで育てられるの? ちゃんと愛情を注いであげられるの? 私にはしてくれなかった。あなたは私を愛さなかった。捨てた。それなのにその子のことは愛すの? どうしてあのとき、私を捨てたの?

 言いたいことは山ほどあった。けれど一度考え始めると、それは頭のなかで溢れてしまって言葉にすることはできなかった。

 見つめ合う時間が過ぎていって、やがて母は立ち上がると言った。

「私は産むよ。そのために、地球に帰ってきたの」

 私はベッドルームに引き上げていく母を見送った。地球へ帰ってきたのが私のためじゃないことくらい、最初から分かっていた。けれど改めて突き付けられる母の冷たさに、私はその場から一歩も動くことはできなかった。

 やがて扉が閉められる音がして、ようやく私はその場に崩れ落ちた。母がいなくなって、初めて流れる涙だった。

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