アリエス(3-2)

 仕事を終えて家に帰ると、母の姿が見当たらなかった。ベッドにも寝ておらず、リビングのソファにもいない。つけっぱなしになっているテレビだけが、やたらと大きな音でスーパーボウルの試合結果のニュースを流していた。

「お母さん?」

 私はテレビを消して、呼びかけた。返ってくる声はない。

 どうして探しているのだろう。私はキッチンと自分たちのベッドルームを覗きに行きながら、ふと思った。いなくなったならそれでいいはすだ。全部が元に戻るだけ。母なんて、最初からいないも同然だったのだから。

 けれど母はバスルームにいた。トイレに顔を突っ込み、目を見開きながら嗚咽していた。

 私は駆け寄り、母の背中をさする。母は相当な時間ここで苦しんでいたのか、トイレのなかは吐しゃ物と胃液でいっぱいになっていた。

 母が激しく嗚咽した。薄黄色の胃液が口から溢れて糸を引いた。おかしいのは吐き出される胃液の量で、私は母が内臓までいっぺんに吐き出してしまうのではないかと不安になった。

 普通でないことは明らかだった。母の身体には、やはり何らかの異常事態が発生している。

「とにかく、スミスさんに連絡するわ。もう一度検査を――」

 端末を取りに戻ろうと立ち上がりかけた私の腕を、母が掴んでいた。飛び散った吐しゃ物がつき、乱れ切った髪の毛の向こうから、母の目が真っ直ぐに私を見ていた。

「痛いわ。スミスさんに連絡するから離して」

 しかし母は離さなかった。そして振り解こうとしても母の手は簡単には解けなかった。それは拒絶だった。

「ようやくなの」

 母は言った。半開きの口からは相変わらず胃液が流れ、床にまで伸びていた。今にも死にそうなほど悪い顔色なのに、目だけは力強く、光を湛えていた。

「ずっと待っていたの。だから、余計なことはしないで」

 母の手は、自分の下腹部を大切そうに抑えていた。


   †


 それが起きたのは、惑星不時着から一七回目の朝のことだった。

 目を覚ましたアリエスは並べられた埴輪のような置物を手に取って観察していた。するとどこからか戻ってきたアンがいつの間にか背後に立っていて、離れた両目の視線をじっとアリエスに注いでいた。

「ついてこいってこと?」

 アリエスが気づくや踵を返して入口に戻っていくアンの行動を、アリエスはなんとなく察する。蔦を掴みながら岩肌を登っていく。本来なら猿の曲芸のようにするすると登っていけるアンもアリエスのペースに合わせながら掴むべき蔦や体重をかけるべき足場を教えてくれる。最初こそ登りも下りも膨大な時間がかかったが、慣れてきた今となっては多少手加減してくれれば〈彼ら〉の速さにもついていける。少しずつではあるが、〈彼ら〉の文化と生活に馴染みつつあることを、アリエスは嬉しく思った。

 アンが向かった先は集落の中心部に位置するひと際大きな建物だった。ただ穴が空いているだけの他の大抵の住居と違い、岩はちょうどラグビーボールを横向きにめり込ませたような形で削り出されている。側面には埴輪のような土の置物と同じ流線型の文様が彫り込まれ、窓のような正八角形の穴が空いている。アリエスは明らかに特別な意味を持っていそうなその建物を〈パレ〉と名付けていた。

 アリエスが最後の蔦を掴んで身体を引き上げると、入口に繋がる少し開けた足場の上に〈彼ら〉が集まっていた。〈彼ら〉のうちの一人がアリエスたちに気づき、脇へと避ける。すると次々に行動が伝染し、〈パレ〉までの一本道が出来上がる。やはりアンが先を進み、アリエスはそのあとに続いた。

 四角く切り取られた入口から〈パレ〉のなかへと入る。おそらくは神官など高い位であることが推測される、身体に白い塗料で文様を描き込んだ〈彼ら〉が出迎えるように待っていた。そのまま道なりに通路を曲がりながら奥へと進んでいくと、やがて数人の〈彼ら〉が取り囲んだ中心に、白い蔦で編みこまれた台座が見えてきた。空気がしんと冷たさを増した。

 絡み合う蔦の一本一本をはっきりと視認できるくらいまで近づいたとき、籠のように少しくぼんだ台座のなかに収められているものの存在に気づく。私はそこで立ち止まった。

 台座のなかでは療養していたチャールズが胎児のように丸まっていた。肌は青白く、身体は置物のようにぴくりとすら動かない。死んでいるのだと一目見て分かった。

 悲しみや不安、怒りは湧かなかった。〈彼ら〉が治療に手を尽くしてくれたことは知っていたし、そもそも助かれば奇跡と思えるほどの深い傷だった。それに何より、儀式めいた台座やこの静謐な空気が否応なく示唆する弔いの風習の存在に、アリエスは興奮してさえいた。

 アリエスは一歩一歩と近づき、永遠に眠るチャールズを覗き込む。随分と痩せたチャールズの口は大きく開かれ、中から極彩色の蕾が突き出していた。蕾は開きかけていて、今にも花開かんとしている。その有様はグロテスクで、それゆえに美しかった。

 アリエスは顔を上げて〈彼ら〉を見回し、最後にアンを見た。〈彼ら〉はチャールズの死を悼むように、あるいは開かんとする花を畏怖するように、僅かに首を傾けていた。

 それはきっと、祈りだった。


 チャールズを弔う儀式は、それから二回目の日没と同時に執り行われた。

〈パレ〉の周囲に大勢の〈彼ら〉が集まっていて、アリエスもまたそのうちの一人だった。あちこちで焚かれている松明の炎が〈パレ〉を朱く浮かび上がらせている。〈パレ〉前の広場の中心には石から削り出した柱が二本立てられていて、そこから伸ばされた蔦によってチャールズの亡骸が磔になっていた。顎が外れるほどに大きく開いた口から突き出した極彩色の花は完璧に開いていて、チャールズの死を悍ましくも美しく飾り立てていた。その光景は咎人を見せしめにしているようにも見えた。アリエスは最初こそこれから起きることを推測しようとしていたが、やがてそれも止めて目の前の光景をその目にただ映すだけになった。憶測によって観察眼を曇らせるのは愚行だ。〈彼ら〉は人類の常識や経験で推し量れるような存在ではないのだ。大勢の気配はあるのに〈彼ら〉は身じろぎの一つすらしていないくて、その静けさは遥か先の葉擦れの音が鮮明に聞こえてくるほどだった。

 やがて〈パレ〉のなかから数人の〈彼ら〉がぞろぞろと姿を見せた。白い塗料による文様を全身に描いた〈彼ら〉に囲まれて、豪奢な衣装で着飾った個体がいた。

 初めて見る個体だった。地面を擦るほどの長さの真っ白なガウンも、黒灰の肌を飾り付けた白銀の冠や首飾りもそうだったが、それだけではなかった。その個体は〈彼ら〉の最も顕著な外見的特徴だと思っていた、顔の中心から垂れる二本の管がなかった。――いや、正確にはなくなっていた。引きちぎられたように顔の中央が裂けていて、その傷の奥には女性器にも似た穴が見えた。ほんの一瞬、その穴の奥が光ったのは鋭利な牙状のものがびっしりと生えていたからだった。

 巫女、だろうか。

 いずれにせよ、〈彼ら〉のなかにおいてあの個体が特別な地位にいることは明らかだった。それは単なる外見的な差異ではなく、その周囲を漂う空気の異質さゆえだった。

 巫女個体が磔になったチャールズの前に立つ。すると周囲にいた白文様の神官個体たちが散り散りになり、向かい合う二人を囲むように配置について跪く。

 巫女個体の右腕が地面と水平に掲げられる。それが合図だった。

〈パレ〉の周囲に集まっていた〈彼ら〉が一斉に足踏みを始める。蔦を引っ張り、絶壁を叩く。アンも例外ではなかった。アリエスは突然の地震に見舞われたときと同じ恐怖を抱きながら、蔦とアンの腰にしがみついた。それでも、チャールズと巫女から目を離さなかった。

 大音声の地鳴りが谷にこだましていた。壁は揺れ、頭上から土や砂礫が雨のように降り注いだ。巫女がゆっくりとチャールズに近づいていく。巫女がチャールズの眼前でガウンを靡かせながら身体をくねらせ、揺らす。呼応するように周囲の〈彼ら〉は一層激しく足を踏み鳴らす。離れた部分で足場が崩れ、〈彼ら〉の何人かは谷底の闇へと吸い込まれていった。しかしそれを誰も気に留めることはない。激しい足踏みは続いていく。

 巫女がチャールズの足元に傅く。差し出した両手でチャールズの足先に触れ、身体をなぞりながら立ち上がる。やがて左右一四本の指がチャールズの頬へと到達する。まるで生まれ落ちた赤子を抱え、掲げるようにして、その手はチャールズの頭をしっかりと掴んでいた。そして巫女はチャールズの亡骸へとキスをする――いや、そうではなかった。

 巫女はチャールズの体内から口を伝って咲いていた花を食らっていた。

 食らっていたという表現すら正しいのかは分からない。とにかく、顔の中心に現れた裂け目から自らの体内へ、チャールズに咲いた花を貪るように取り込んでいた。

 花弁を取り込んだ巫女はチャールズの口内へと自らの顔を捻じ込むようにして喉を通っていた茎までをも引き摺り出していく。するとチャールズの肉体が先からどろりと溶け出して地面へとこぼれていった。夢でも見ているようだった。

 間もなく、チャールズの体内から根の先までが完全に引き摺り出された。もうチャールズの四肢は溶けてなくなっていて、身体も横隔膜から上しか形をとどめてはいなかった。しかしそれも間を置かずして溶けてなくなる。亡骸に寄生していた植物は巫女の体内へと完全に収められ、チャールズは地面のシミになった。蔦を引っ張り、絶壁を揺るがしていた〈彼ら〉はぴたりと静まり返り、儀式の余韻を残すことなく〈パレ〉の周囲から離れていった。

 チャールズは死んだのだ。アリエスはそのとき改めてそう思った。

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