アリエス(3-1)

   3


〈彼ら〉はアリエスとチャールズを囲み、集落へと連れ帰った。アリエスはただひたすら、できうる限りの様々な身振り手振りで自分の無害さを示し、チャールズの負傷を訴えた。それが通じたのかは分からない。もちろん油断はしてなかったけれど、アリエスには〈彼ら〉に従うほかになかった。

 集落は深い谷の絶壁にあった。岩肌には白い蔦がびっしりと生え、せり出した僅かな部分に家屋らしい建物や洞穴が見て取れた。〈彼ら〉は蔦を器用に掴みながらほとんど垂直の絶壁を滑らかに降りていく。アリエスは見通しのきかない谷底の暗闇を見下ろして尻ごみをしていた。

 既に体力は限界だった。重力の薄い宇宙航行でアリエスの体力は落ちていたし、地表で活動するには宇宙服は重すぎた。加えて朦朧としたチャールズをここまで運んできているのだ。片腕でチャールズを抱えたまま、もう一方の腕で二人分の体重を支えながら絶壁を降りていけるだけの力は残されていなかった。

 アリエスはじりじりと足裏で地面を擦りながら前に進む。蔦を掴み、少し強く引っ張ってみる。たしかに強靭そうな蔦であったが、自分の命を預けるとなるとやはりどうしても心もとなかった。

 アリエスは意を決して一歩を踏み出した。チャールズを抱えていたほうの腕にかかっていた重みがなくなる。しまったと思ったアリエスが振り返ると、しんがりを務めていた〈彼ら〉のうちの一人――おそらく最初に目が合ったあの個体――がアリエスの腕から取り上げたチャールズを抱えていた。

「……ありがとう」

 アリエスは思わずそう言ったが、その個体はチャールズを抱えたままその言葉には応えず、器用に絶壁を降りていく。アリエスは蔦を両手で掴み直し、慎重かつ懸命にその後を追った。


 アリエスがアンと名付けたその個体はチャールズをどこかへ運び入れたあと、アリエスを連れてさらに絶壁を下った。やがて空から届く光すら乏しくなると、蔦のところどころになっていた実が発光を始める。幻想的な青白い光がアリエスの手元と足元、そして前を進むアンの背中をぼんやりと照らした。

 やがて集落の端にあたるだろう位置に、洞穴が一つぽつねんと口を開けているのが見えてきた。どうやらアンの家はあそこらしい。わずかな足場から洞窟へと入ると、すぐに木の根と蔦が立ち塞がった。アンが複雑に絡まる根と蔦に触れ、七本ある指でその表面を撫でる。ずずず、と鼻を啜るような音とともに根と蔦が脇へと開き、人一人分の通れる隙間が生まれる。アンはアリエスを一瞥し、さらに奥へと入っていく。

 アリエスは呆気に取られていた。あの根と蔦に指紋認証のようなテクノロジーは感じられない。ともすれば呪術的な何かだろうか。いずれにせよ、とてつもない好奇心が湧いた。しかし身一つで航宙艇から脱出したアリエスには、地球が誇る分析のためのツールを何一つとして持ち合わせていなかった。多機能端末はおろか、ペンと紙すらない。アリエスは落胆した。

 アンの後へ続くと、やはりどうやらこの洞穴が住居であることが明らかになる。大きな空間には植物を梳いて編み込んだらしいラグが引かれていて、壁際には土をこねて作ったらしい置物が並んでいて、壁には絵画のような幾何学模様が貼り付けられている。

 どれも好奇心を掻き立てるものだった。だがまずはしておくべきことがある。アリエスは地べたに腰を下ろしたアンの前に回り込んだ。

「助けてくれて、ありがとう」

 アリエスは笑顔を作り、頭を下げる。言葉が通じない場合でも、なんとなくのニュアンスは伝わるし、笑顔は友好を示す効果的なツールだった。とはいえそれは相手が同じホモサピエンス――地球人の場合で、〈彼ら〉の場合でも意味があるものなのかは分からなかった。

 その証拠に、アンは動かずにアリエスを見返していた。やがて立ち上がり、匂いでも嗅ぐかのように顔を近づける。ここまで気づかなかったが、アンからはつんと鼻の奥に抜けるハーブに似た匂いがした。

 アリエスはゆっくりと呼吸をしながら、こちらをつぶさに観察しているアンを観察し返した。

 灰色の体躯にはうっすらと産毛が生えていて、頭頂部はほんの少しだけ毛が濃くなっていた。呼吸はしているらしく、肩甲骨のあたりが規則的に上下動を繰り返している。瞳はアリエスたち人類と同様に黒目と白目に分かれていて、時折、下瞼が上下してまばたきをした。骨格はどうだろうか。おおよそ人間のそれと似ているが、肘と膝の関節が二つあった。指は七本。ということは彼らに数学の概念があるとすれば十進法ではなく、一四進法なのだろうか――。

 そこまで考えたところでアンがアリエスから離れた。アリエスは一七一センチと決して背の低い方ではなかったが、猫背で二メートルはあるアンに見下ろされると、経験したことのない威圧感を感じずにはいられなかった。

 息を呑んだ。まだ〈彼ら〉が友好的にアリエスたちを助けたと確証できる要素は何もない。アリエスは汗ばんだ拳を握る。

 見つめ合う時間がどれだけ過ぎたのだろう。

 やがてアンはアリエスに背を向け、洞穴のさらに奥へと行ってしまった。アリエスは膝から力が抜け、その場に座り込む。すぐに立つことはできなかった。気が抜けたことでデブリ群の襲撃から息つく間もなかった心身に疲労が押し寄せたのだった。

 アリエスはそのまま横になった。まだ予断が許される状況ではない。けれど微睡みに沈んでいく意識は、その重力に抗うことができなかった。


 アリエスは芳醇な香りを感じて目を覚ます。関節や筋肉が固まって痛む身体を無理矢理起こせば、傍らに立っていたアンの姿が目に入った。

 アンは黙ったまま身をかがめ、湯気の立つ歪な椀を差し出した。覗き込めば、中にはいくつかの木の実らしいものと薄っすらと透明感のある緑色の液体が入っていた。アリエスが椀を受け取ると、アンは少し離れたところに腰を下ろした。それから同じような椀に注いだ同じスープを、顔の中心から垂れ下がる二本の管のうちの一本で吸い始める。

 食べ物なのだろう。だが、もちろん原材料は不明だった。少なくとも地球に存在しないものであることは確かで、アリエスがこれを食べて何事もないかは定かではない。試しに匂いを嗅いでみる。ほんのりと生臭さがある。あえて近いものを挙げるなら、ドリアンあたりが連想できた。

 ぐぅ……。

 不思議と食欲が刺激されて、腹の虫が盛大に鳴る。アリエスは唾を呑む。どうやら自分は自分が思っている以上に欲求に正直で、動物的らしい。さっき眠気に抗えなかったのと同様に、目の前の得体の知れないスープに惹起された食欲に抵抗することもできそうになかった。

 恐る恐る口に椀をつけ、スープを含んだ。臭いそのままの味が脳を揺らした。透き通った見た目に反してえぐみのある味だったが、それに顔をしかめる間もなくマーズバーを頬張ったときのような強烈かつ濃厚な甘さが口のなかに広がった。

 濃密な味の暴虐に、アリエスは思わず咽た。アンは表情のない顔をアリエスに向けていた。

「……とても個性的な味ね。生まれて初めて味わうわ」

 アリエスは笑顔をつくって言い、スープを一気に流し込む。身体にどんな影響があるか分からないが、わざわざ用意してくれた食事とその善意を無碍にするわけにもいかない。それに当面の帰る手段が断たれている以上、食事の可否は切実な問題でもあった。何か食べられなければどうせ助からないのだから、僅かでも助かる可能性があるほうに懸けるのが合理的でもある。スープを嚥下したアリエスの喉は熱を持ち、心拍数も僅かに上がっていった。全身に血が巡っていくのが感じられ、首や脇はじんわりと汗で湿り始める。若いころ冷え性だったアリエスは一時期、漢方を飲んでいたことがあった。身体のうちから湧き出すような温度は、それに似ていた。

 スープを飲み終えると、ほろりと涙がこぼれた。空腹が満たされて少なからず気持ちが落ち着いたのだろう。それはひとまずの安堵ではあったが、同時に自らが陥った状況への莫大な不安でもあった。

 自分は無事に地球へ帰れるのだろうか。

 あるいはこの惑星で、生きていくことができるのだろうか。

 地球での生活に未練があるわけではなかったが、〈ラインスター計画〉参加のせいで中座している自分の研究と地球に残してきた娘のことが思い浮かんだ。

 アンがアリエスを見ていた。今はこの奇妙な姿の隣人だけが生存のよすがだった。


   †


「認知症なんじゃない?」

 私が長々と語った母の話を聞いて、同僚のキムはそう締めくくった。吐き出した煙が広がって、空気を濁らせていく。私は紙コップの冷めたコーヒーを啜る。狭い小さな部屋のなかで、換気扇のファンだけが忙しく働いてた。

「まだ六〇代って言っても、うかうかはしてらんないらしいよ。ハイスクールのときに仲良かった子の親なんて、まだ六〇手前なのにボケがひどくって、介護とか大変だって言ってたし」

「そういうものなのかしらね……」

「そういうもんね。それに、一人でいる時間が多いとボケるって言うし。ほら、長年連れ添った妻が死んで、残された夫が急に老け込んでボケちゃうあれね。よく聞くでしょ」

 私はもっと別の、得体の知れない可能性を考慮していたのだけど、彼女には宇宙で二五年過ごしていたことの影響とかは関心がないことらしかった。

 キムは歯に衣着せずにものを言う。親に捨てられ、似たような境遇で育ってきた彼女は、清々しく真っ直ぐでたまに厳しいことを言うけれど、その分負い目を感じたり気遣いをしたりする必要もなくて、私にとっては友人と呼んでもいいと思える唯一の相手でもあった。

「ボケかぁ」

 私はあえて呟いてみる。言葉にすると、それまでぼやけていたその対象の輪郭や、周囲にくっついて回る現実のあれこれが急にはっきりとかたちを帯びていくような気がする。

 母との同居にあたり、私たち夫婦には宇宙遭難生還者への保険金が支払われている。もともと生活が楽ではなかった私たちにとって食い扶持が一人増えるというのはそれだけで大問題だったけれど、保険金のおかげでなんとか賄うことができている。

 だけど。キムの言う通り仮に母が認知症だったとして、私たちはその高額な医療費やケアマネージャーにかかる費用を支払うことができるだろうか。不安がたちまち立ち上がってくる。

 介護に専念するために仕事を辞めることはできない。そんなことをすれば、私たちの生活は一気に傾く。だからといって母に必要な介護を外部化アウトソーシングするだけの経済力も私たちにはなかった。

「そんなに気になるなら、病院とか、宇宙なんとかフレディセンターの、その若い男に訊いてみたらいいじゃない」

 キムは言って、二本目の煙草に火を点けた。実際、私もそうしたい気持ちは山々だった。深く吐き出した息は、見えなかった。

 母は、私にとってもうとっくに存在しない人だ。しかし母は、こちらの気持ちも都合も関係なしに突然姿を現した。私たちが必死の思いで漕いでいる舟に乗り込んできた。そのせいで生活が沈んでいくというのなら、母と一緒に沈んでやる道理はない。ないのだ。

 だけどそう心に決めようとする瞬間に決まって、あの日の母の姿が頭の隅にちらついた。厄介者や不要物をお払い箱にするときの眼差しを向けられるながら、母は車椅子に座ってあやとりに夢中になっていた。

 違う。そうじゃないだろう。私は叫びだしたくなる。母は聡明で冷酷で、路傍の野草を知らずに踏み折るのと同じように、娘である私を傷つける氷のような人だったはずだ。他人を疎ましく思う側であって、疎ましく思われる側ではなかったはずだ。

 母を疎ましく思う気持ちと愛されたかったという気持ちが混ざり合う。

 私は自分がどうすべきなのか、あるいはどうしたいのか、もう分からなかった。

「旦那は? なんて言ってるの?」

 私は首を横に振る。

「彼はだめよ。最初こそ本当かどうか分かんない話なのに、君のお母さんはすごいよなんて興奮気味に言ってたけど、母が毎日のように同じ話をし出したら、距離を置くようになったわ」

「ほんっと、男ってそういうとこあるよね。面倒なことはいったん様子見してくるっていうかさ。あたしの元旦那もそうだった。子供の世話とかさ。なんていうか、美味しいとこだけ持っていこうとする感じ? 腹立つよねぇ」

 キムは語気を強めた。楽しいとうんざりの間のような表情だった。

 私と同じように親がいない境遇で育った彼女には、私とは違って子供がいる。一度だけ写真を見せてもらったことがあるが、可愛らしい姉妹だった。見せてもらったのが一度だけなのは、私が苦しくなってしまうからで、それは自分が子供を持つという決心をできないからなのだけど、キムのほうも私のそんな微妙な空気を悟ったらしく、以来写真を見せてくることはなくなった。

「別に不満があるわけじゃないけど、困ってるときこそ頼りにならないっていうのがね」

 私は自嘲するように口元だけで笑って、肩を竦める。たぶん不満がないと言ったのは、キムの子供の世話に対する私なりの防衛で、キムにはマウントを取るようなつもりがないことは分かっていたけれど、私にはそうする他なかった。

 もちろんキムは私の矮小でねちっこい感情に気づくはずもなく、冗談めかして肩を竦めた。

「結局ね、あたしたちは一人で生きていかなきゃなんだよ」

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