アリエス(2)

   2


 翌朝、チャイムの音で目を覚ました私は扉を開けて唖然とすることになった。

 羽織ったガウンが肩から斜めにずり落ちる。半開きになったまま動かない唇は、さぞ間抜けだったことだろう。車椅子にかけた母が私の目の前で手を擦り合わせていた。そこには会見で見せた理知的な姿は見る影もなかった。扉が開いたにも関わらず、母は私のほうを見なかった。どうしてそういるのかという疑問や困惑よりも、その無関心に対する苛立ちが先立った。

「おはようございます。ミセス・ドート」

 私が母を怒鳴りつけようと息を吸ったのと同時、あるいは私がそうしたのを見て出鼻を挫くように、凛とした声がした。私が視線を上げると、母の奥にスーツ姿の男が立っていた。

「朝早くにすみません。再三ご連絡を入れていたのですが繋がらず……あ、僕はこういうものです」

 男は言って、ジャケットの胸から紙切れを一枚取り出した。それが名刺だと気づき、私はそれを取り上げるように片手で受け取る。

 名前はウィリアム・スミス。そういえばここ数日、宇宙省から電話とメールが届いていたことを思い出す。関わりたくなくて無視していたことが、どうやら仇となったらしい。

「それで、ご用件は……」

「ヘンリエッタ博士、いえ、お母様があなたとのご同居を望んでおられるのです。ご連絡は入れたのですが、やはりご覧になっていなかったみたいですね」

「最近ちょっと、忙しくて」

 私は肩を竦めた。母をちらりと見やり、スミスに視線を戻す僅かな時間の間に、母との同居を断るための理由を考えなければならなかった。けれど起き抜けの頭には、あまりに処理にかかる負荷が大きな問題だった。

「まあ、お母様が地球で暮らしていたのは二五年前ですから、色々なことが変わっていて不安なのでしょう。頼れる家族もミセス・レイル、あなた以外にはいないのです。まあもちろん、メディアはお母様に注目していますからそれで生活していくことも可能でしょうが、ご年齢のこともありますからね。すぐ近くに頼れる人と過ごすという選択は素晴らしい名案だ」

 原稿を読み上げるみたいにすらすらと捲し立てるスミスは、口元に薄い笑みを浮かべていた。それは母に捨てられたあと、遠い親戚や施設をたらい回しにされるなかで何度も目にしてきた大人たちの表情によく似ていた。

 つまるところ宇宙省として母はもう用済みということなのだろう、と私は思った。健康状態にも問題がなく、これといって特筆するような経験をしてきたわけではない母の有用性は低い。二五年も宇宙で行方不明になり生還したことの特異性は珍しいかもしれないが、その大部分はマスメディアの領分ということなのかもしれない。とにかく宇宙省としては、母から得られるリターンに見切りをつけたというわけだ。

 なんだか母が哀れに思えて、私は母を見下ろした。母はまだ手を擦り合わせていた。その行為にどんな意味があるのかは分からなかったし、分かりたくもなかった。

 やがて、硬直する私を見ていたスミスが「ああ」と息を漏らした。

「これね、放浪の副作用なのか、ただの加齢によるものか、はっきりはしないんですけどね、一日の大半はこうなんですよ。薬を飲まないと会見のときみたいには喋れません。まあ相当に強い薬なので、かなり副作用がありますから、切れた後はしばらく寝込んでしまいます」

 そう言って、スミスは背負っていた小さなバックパックからビニール袋に入った紙包みを取り出した。それがその薬なのだろう。私が受け取るのを躊躇っていると、スミスは小さく溜息を吐いて、袋の持ち手を車椅子のハンドルへと引っ掛けた。

「それでは。もし何かあれば、先ほど渡したアドレスに連絡をください。もちろん、何もないことを祈っています」

 スミスは締まりのない敬礼をし、小さく会釈をするとくるりと身体の向きを変えて立ち去っていった。私は文句の一つでも言ってやろうとしたけれど、言葉を呑み込まされる。いつの間にか母の手が、私のガウンの裾を引っ張っていた。

「何なのよ、もう」

 額を押さえて吐き出した嘆きは、果たして目の前の母の耳にも届いているのだろうか。母の表情を見ても、私には何一つとして分からない。


   †


 こうして私たち夫婦は母との同居を始めることになった。最初は戸惑っていたジョナサンも、三ヶ月もすれば随分慣れた様子で母に接するようになり、いつまでも馴染めない私だけが狭い家のなかで浮いているような、そんな空気が少しずつ出来上がっていった。

 母の調子は相変わらずだ。担当医から言付けられたのか毎日体温を測ったり、しきりにカレンダーを確認したりしつつ、基本的には家にいる。車椅子は外出のときくらいしか使わないらしく、筋力が徐々に回復してくると玄関に鎮座する大きなオブジェになった。母の姿は認知症の老人そのものと言えばそうなのだけど、案外意識ははっきりしているし、ジョナサンとの会話も明朗だった。トイレやシャワーなどは自分一人でこなすことができた。時折、テレビ出演や取材の依頼が来たけれど、母はその全てに首を横に振った。あの会見以来、公の場に姿を見せなくなった帰還者に、世間は少しずつだけど興味を失っていった。

 ようやく平穏が訪れたような気がしていた。そもそも私の人生にとって、母という記号が持つ意味は限りなく薄いのだ。それなのに母がいると思うから決まりが悪いのであって、最初から赤の他人、ただの老婆が同居していると思えばいくらか気が楽にもなった。ひょっとすると、このままなし崩しで生活を続けていけば、私と母の間にあるわだかまりも、コーヒーに落とした砂糖がいつの間にか溶けているみたいに、消えてなくなるのではないかと、そんな気さえしていた。

 だけどそれは気がしていただけ、あるいは所詮私の願望でしかなかったのかもしれない。

 ある日の夜のことだった。ジョナサンが泊りがけの仕事に出掛けていたので、私と母は二人きり。普段はジョナサンが私たちの間を取り持ってくれるから、二人きりになる日はいつもほんの少しだけ息苦しい。私はそんな気分を紛らわすように、リビングでテレビを見ている母にコーヒーを淹れる。掛ける言葉はなく、私はマグカップを母の前に置く。

「航宙艇で不時着した私はね、ギシギシと何かが軋む音で目を覚ましたの」

 母が唐突に言った。最初、それが私に向けられた言葉だとは思わなかったし、実際に経験した宇宙での話だとも分からなかった。だってあの会見で話したことと、何から何まで違っていたから。まさかあのとき、母が全世界に向けて真っ赤な嘘を並べていたなんて考えつきもしなかった。

「目を覚ますと、蜘蛛の巣みたいに割れたガラスの向こう側に脚……触手みたいなものが見えたわ。それは航宙艇に巻き付いて締め上げていた。ギシギシと軋む音は締め上げられた期待が歪んでいく音だったのよ」

「何の話……」

「宇宙の、もしくは私の話」

 私が眉を潜めると、母はそう答えた。二五年ぶりに通じた、久しぶりの会話だった。

 私はソファに腰を下ろした。まだ隣りに座ることはできなくて、人一人分の距離があった。母はまだ湯気の立っているマグカップを手に取ると、コーヒーで唇を潤した。そしてそれから、ゆっくりと話し出す。バラエティー番組を映すテレビから、笑い声が響いていた。


 アリエス・ヘンリエッタはまずいと、混乱する頭のなかで思った。このまま航宙艇のなかにいれば、あの触手によって航宙艇ごと潰される。逃げ出さなければと、シートベルトを外した。

 でも逃げるって一体どこへ?

 アリエスは巻き付く触手の隙間から見える外の景色を見やる。

 外には植物とも鉱物とも似つかない奇妙なジャングルの景色が広がっている。気温が低いのか艇内は寒く、吐き出す息は白い。ここがどこかは分からずとも地球ではないことは明白で、航宙艇の外に出たところで逃げる先があるのかは分からなかった。

 それでもここから脱出しなければと思ったのは、単に訳の分からない触手に潰されて死ぬなんてまっぴらだったという以上に、後ろの座席に座っていた地質学者のチャールズが血とともに呻き声を吐き出したことが大きかった。

 チャールズ・ジェンキンス博士は高名な地質学者で〈ラインスター計画〉に参加したなかでは唯一、アリエスと同じ学者だった。分野こそ違ったが、話が合った。道中では夜毎お互いの研究について話し、違う分野からの意見だからこそ得られるような新しい発見もあった。それはアリエスにとって、この危機的な状況において多少の情が湧くのに十分だった。

 チャールズの腹にはピザ一切れぶんくらいの大きな破片が突き刺さっていて、宇宙服は真っ赤に濡れていた。出血が多いのか顔色が悪い。この惑星に治療できるものがあるかでは定かではなかったが、このまま放っておけばチャールズは死ぬだけだった。アリエスは彼の身体を固定するベルトを外し、肩を担ぐ。

 チャールズが痩躯だったのは不幸中の幸いだった。もし筋骨隆々の偉丈夫であれば、アリエスはきっと彼を運び出すことができなかった。

 航宙艇のハッチは開かなかった。電気系統がいかれているのか、巻き付いた触手が開くのを邪魔しているのかは分からない。アリエスは運よく見つけた機体の裂け目から、チャールズを抱えたまま飛び降りる。

 下が湿気を含んだ柔らかい大地だったのはもう一つの幸運だった。少なくとも水分が存在することの証拠になる。アリエスは呻くチャールズを抱えながら、頭上で軋む航宙艇を見上げる。

 一言で言えば、航宙艇を締め上げているのは木だった。だがその木は異常なほど巨大だった。艶のある木肌はゴキブリやカブトムシのボディにも似ていて、複雑に伸びる枝は生き物の毛細血管を思わせた。葉はないが、ところどころに鈍色の花弁がついていた。

 アリエスはその異形の巨大樹に神々しささえ覚えた。もちろん実際に見たことがあるはずはないが、もし北欧神話のユグドラシルが現実に存在するならばまさにこの巨大樹のことを言うのかもしれないと思った。

 不意に触手が緩み、航宙艇がするりと抜け落ちる。アリエスたちは既にその場を離れつつあったが、墜落の衝撃が引き起こした突風に煽られ、大地がめくれ上がるように生まれた津波に呑み込まれる。

 理解の追いつかない現象の連続に振り回されていた。しかしそれでも、学者の性分なのか、アリエスは混乱のなかで必死に周囲へと注意を払い続けていた。

 だから気づくことができた。巨大樹の周囲に、あたりに生い茂る植物たちとはまた違う別の気配があることに。

 蛇のように大地を這う根の間で、アリエスは息を殺した。真っ青な顔に脂汗を浮かべているチャールズの耳元で励ましの言葉を囁いた。けれどそれは自分自身を安心させるためのものでもあった。

 大地を踏みしめる足音が聞こえた。それを掻き消すように心臓が早鐘を打った。アリエスは慎重に視線を上げる。まだ薄く巻き上がっている土埃のなかに無数のシルエットが見えた。

 アリエスは息を呑む。それは二本の足で立ち、二本の腕で槍か杖のようなものを持っていた。

 もしアリエスの知識のなかで最も姿の近い何かを例として挙げるなら、それはまさしくヒトだった。

 やがて土埃が晴れていき、おぼろげだったそれらのシルエットがはっきりと目に映る。

 バーベキューで使う炭のように、黒ずんだ灰色の体躯。腰に巻かれている衣服のようなものは中世のチェインメイルを連想させたが、琥珀色のそれが地球のそれと同じような金属製なのかは判断がつかない。手にはシルエットで見た通りに槍のような杖のような長い柄の棒が握られていた。姿勢はやや猫背気味だが、二メートル前後はありそうな長身。首は姿勢に合わせて前にせり出していて、目は草食動物とまではいかないものの、顔の側面に広くついていた。鼻や口にあたる器官は見当たらず、顔の中央から管が二本、胸のあたりにまで垂れ下がっていて、それ自体が生き物のように揺れていた。

 彼らは見える限りで三人いた。姿はコピーのように似ているせいで個体差までは判別できなかったが、それぞれ顔を突き合わせ、何かを話しているような素振りを見せる。ような、というのは声が聞こえないからだった。人間の可聴域を超えた音声なのか、あるいはそもそも音声言語を用いてすらいないのか。いずれにせよ、彼らが互いに意思疎通を図っているらしいことだけはなんとなく推測ができた。

 アリエスは目の前の光景に圧倒されていた。人類が夢にまで見た異星知性生命体が、今こうして目の前にいるのだ。〈ラインスター計画〉のメンバーだからでも、一人の研究者としてでもなく、途方もない長さの人類の系譜の末席を占める一人のヒトとして、この偶然に打ち震えていた。

 声を掛けるべきかと逡巡する。もちろんアリエスに彼らと意思疎通を図る手段はない。そもそも彼がこの惑星の部外者であるアリエスたちに友好的である保証はどこにもない。

 けれど彼らには衣服のようなものがあり、道具を使用する文化がある。今すぐ隣りで死にかけているチャールズの命を救う方法があるとすれば、それは彼らに頼る以外に道はなかった。

 アリエスが意を決して立ち上がろうとすると、それより早く彼らのうちの一人がアリエスの隠れている場所へと顔を向けた。

 向けられた視線がアリエスを射抜く。彼らは半歩後退って警戒を露わにしたけれど、すぐに攻撃的な態度は取らなかった。

「私はアリエス・ヘンリエッタ」

 アリエスはゆっくりと両手を挙げて、地球の作法で無抵抗を表明すると、そう名乗った。


   †


 母の話を聞き終えた私は言葉が出なかった。妙に渇く口のなかを潤したくて、私はキッチンへと向かい置きっぱなしになっていたペリエを呷る。口元から溢れた水があごを伝い、ブラウスの胸にしみを作る。話し終えた母は再びテレビに見入っていた。テレビは古い映画を流していて、激しい銃撃戦の音が静かな部屋に響いている。私は母の横顔をじっと見つめた。

 母は長い宇宙の放浪のせいで、やはり気が狂ってしまったのかもしれない。精密検査では見つからない、現代の医学では解明できないような何かがあって、母は狂ってしまった。だからありもしない出来事を事実のように語るのだ。そうに違いない。だけど、妄言として片づけてしまうには、母の話が克明すぎることもまた、私は確かに感じていた。

「それは本当なの?」

 長い長い沈黙の末、私は口にする。私の言葉が母に届いているかは分からなかったし、届いていなくてもいいとさえ思った。だけど母は今回に限って「そうね、本当よ」と答えた。

「とうとうイカれたのね」

 私は母に向けて吐き捨てる。もちろん母の気が狂ったと思ったのが半分。だけどもう半分は積もった嫌悪感が喉を通って吐き出されたものだった。しかし母はそんな私の悪態に対して怒ることも、否定することもしなかった。その冷静さがこの瞬間はなんだか不気味だった。

 しかし母は次の日も、さらに次の日も夕食を終えたそのあとに、決まって名前のない惑星での空想を語り出した。私がまともに取り合うのを止めても、興味深そうに耳を傾けていたジョナサンが居眠りを始めても、母は一人誰に聞き届けられることのない話を延々と語り続ける。その様子はどう見ても気が触れてしまったようにしか見えなくて、呪いをかけられてしまった腹話術の人形のようでもあったし、呪いをかけようとする魔女そのもののようでもあった。

 私には母を止める術がなかった。淡々と狂っていく母に掛ける言葉すら見つけることができなかった。そしてそれは、なんだか切なくて、とても寂しいことのように思えたのだ。

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