不浄探偵ジャイド

山本アヒコ

不浄探偵ジャイド

「ああっ! どうにも腹が立つ!」

 フィリップ刑事は葉巻をひと吸いすると、盛大に煙を吐いた。

 指に挟んだ葉巻を見て、舌打ちをする。この葉巻が、自分の給料ではとうてい買えないほどの高級品であることも腹立たしい。

 それほどの物である葉巻は、もちろんフィリップ刑事の持ち物ではない。パーティー会場で使用人たちが配っていた物だった。

 聞こえてもかまわないと思いながら盛大に舌打ちをすると、葉巻の火を乱暴に消してその場を離れる。

 フィリップ刑事は大ベン帝国の首都ゲリにある警察署に勤めて、十年以上のベテランだった。犯罪者の逮捕のためならどんな泥にでもまみれる善き刑事だったが、熱心すぎるあまり上層部からは煙たがられていて昇進の見込みは無い。

 そのため嫌がらせとして、他の人間がやりたくないような仕事をまわされる事が多かった。例えば今回のような、いけすかない貴族へのご機嫌伺いだ。

「何が、できるだけ早急な解決を望みます、だ! クソ貴族が!」

 フィリップ刑事は荒く足音をたてながら、人気の無い廊下を進む。

 足下に目を落とすと、汚れてくたびれた革靴が見えた。足で情報を探る刑事の靴はすぐに駄目になるので、もうすぐ買い換える必要がありそうだ。

 靴の汚れを見たフィリップ刑事は嫌なことを思い出して、眉間に深いシワを刻む。唇も歪む。

 彼は上司から嫌われているので重要な事件をまかされることは、まずなかった。現在市民を騒がせている娼婦連続殺人事件や、予告状を出した怪盗の件から外されていた。

 フィリップ刑事が上司から言い渡されたのは、首都ゲリからほど近い農村に出た『人喰い熊』退治への応援だった。ほど近いといえど馬車で半日かけてたどり着いた村は、近くに貴族の別荘が多くあるような風光明媚な場所であった。春なかばの快適な気温と青空とは裏腹に、多数の警察官と狩人たちが群がる村は異様な熱気があった。

 事件は先月から始まった。森のなかで木こりの男が熊に喰い殺されたのだ。それだけなら運がなかったで終わる話だが、その次の週に小さな牧場主の老夫婦が熊に喰い殺されたのだ。異様なことに、熊は牧場の山羊や羊には目もくれず、頑丈な家の中へ押し入って二人を喰い殺していた。

 さらに次の週にも畑仕事をしていた男が喰い殺された。それを妻が目撃している。

 明らかに熊は人間を狙って喰っていた。恐怖にかられた村人たちは警察へ駆け込み、今回の事態になった。

 多数の警察官と狩人たちに混じりながら、フィリップ刑事は「なぜこんな場所にいるのか」と何度も愚痴を言いそうになった。彼は都会育ちであり、娯楽として狩猟の経験はあるがただの鳥撃ちだけだ。鹿などを山で追いかけた事はなく、ましてや熊などサーカスで見たことがあるぐらいなのだ。

 自分は戦力になるとは思えないが、襲われたら闘うしかない。フィリップ刑事は貸し出された猟銃を強く握りしめ、山へ向かった。

 結果としてフィリップ刑事は熊と出会わず、狩人によって熊は撃ち殺される。ただ一日中山のなかを歩き続けただけだった。

 その時もこの靴を履いていた。署長から急に命令されて靴を買う余裕すら無かったからだ。この靴の汚れと傷のいくつかは、山でのものだろう。

 この出来事だけではなく、ここ最近はずっと疲れる事件を押し付けられていた。その一つが貴族の屋敷に入った泥棒の事件だ。とは言っても盗まれたのは金や宝石など値打ちがあるものではない。

 盗まれたのは貴族の屋敷から出た汚物だった。汚物拾いの男が、貴族の屋敷から残飯などを荷車に運んでいたのだが、目を離した隙に荷車ごと盗まれてしまったのだ。しかも一件だけではなく、十件以上も同様の事件が起きていた。

 直接的な被害は無いものの、気味が悪いとして貴族たちから早急な解決を求められていた。その事件を任されたというか押し付けられたのがフィリップ刑事だ。事件の進展を貴族様へ報告してこいと署長から言われ、その貴族からは蔑んだ目とイヤミを言われ、彼の機嫌は最悪である。

 大声で罵りたくなったが、少し先右へ曲がる角から女性がひとり出てきたのでやめる。ドレスを着ているので貴族だろうから顔をジロジロ見るわけにもいかず、目をやや伏せながらすれ違う。

 すると前方でなにかが動いた。目を上げると、スーツを着た人物が右の廊下へ姿を消すところだった。

「ん?」

 その姿に違和感があった。それは刑事の勘というもので、何度もフィリップ刑事はこれに助けられてきた。迷わず男が消えた場所へ早足で向かう。

 近づくと刺激臭が漂ってくる。嗅ぎ慣れた臭いだ。香水や煙草の煙のような、芳しき香りなどではない。

 その臭いのもとを毎朝毎晩、昼でも自らひり出すことになる、人体の不思議。舌に乗せれば幸せを感じる美味が、一晩体内にあるだけで、あのような醜く汚く悪臭を放つ、ドロドロに溶けたタールを固めたようなものになってしまうなど信じられない。あまつさえそれは、不浄なる尻の穴から這い出すのだ。

 この場所は、それをひり出して貯めるための壺が置かれている場所だった。近づかなくても臭うほどなのだから、壺の中身は地獄の沼のごとく腐臭が漂い、目と鼻だけでなく肌すらも焼け爛れさすのではと思える。だというのに、その男は。

「ほほう、これはこれは」

 嬉しそうに笑う男から、フィリップ刑事は目を逸らすことができなかった。あまりにもおぞましいが故に、目を閉じることを忘れてしまう。見開かれた瞳は、男の大罪を見逃すことを許さない。

「ははーん? なるほどねえ」

 男は壺に顔が当たってしまいそうなほど近づけて、中を覗いていた。それだけではなく、彼は右手を壺の中に突っ込み、かき回していた。ゆっくりと、ひと回しふた回し。まるで魔女が煮えたぎる大鍋をかき混ぜるように。

 フィリップ刑事の耳に、どぷんどぷんと、湿った水音の幻聴が聞こえた。粘性のある液体は指に絡みつきながら波をたて、壺の内壁に当たるとピチャピチャと腐汁のごときしぶきをあげる。

「おやおや? これは何だろうか?」

 男は壺の中身を手のひらで掬い上げ、鼻を近づけて勢いよく臭いを吸い込む。それはまるで、料理人が料理の出来を確かめるかのように。

 精神を汚濁に飲み込まれそうになっていたフィリップ刑事は、そこでやっと自我を取り戻す。頭を左右に振ると、呆然とした表情から、眉をつり上げた厳めしい刑事の顔を取り戻した。

「何をしている!」

「おや、どちら様で?」

「それはこっちのセリフだ! 俺は刑事だ動くな!」

 フィリップ刑事の恫喝を全く気にした様子もなく、男は顔だけを向けた。

 その顔は若く整っているように見えた。しかし鼻から下を布で覆っているため、顔の詳細はわからない。長い髪の毛を後ろで縛っていることから、貴族のようだ。大ベン帝国の貴族は男も女も髪の毛を伸ばす。フィリップ刑事のような平民は髪が短い。

「もう一度言うぞ、何をしていた」

「何って……」

 男は右手で再びかき回す。どぷん、どぷん。

「右手を動かすのをやめろ!」

「わかりましたよ」

 男が壺から右手を引き抜くと、肘まで名状し難き粘液が絡みつき、指先から滴る汁が糸のようにのびている。フィリップ刑事は嘔吐感に手で口を覆った。

「顔を見せろ!」

 無言で顔を隠していた布を下げると、美男といえる顔立ちがあらわになった。ただし表情は不機嫌そうだ。

「お前は誰だ」

「私の名前は、ジャイド=ヴンコスキー」

「ヴンコスキーだと? 嘘をつくな! ヴンコスキー家といえば司法省の大臣らのいる貴族だぞ!」

「ええ、その貴族です」

「だったら指輪を見せてみろ。本当に貴族なら紋章入りの指輪をしているはずだ」

 ジャイドは左手を右肩へ持っていく。彼の右腕は肩の近くまである長手袋で覆われていた。壺の中に腕を入れるためだ。脱いだ長手袋を床へ投げ捨てると、耳障りな粘着音がする。

「ほら、どうです?」

 赤いルビーが埋められた指輪には確かにヴンコスキー家の紋章が刻印されいた。本物のルビーなので偽物ではないだろう。

 フィリップ刑事は投げ捨てられた長手袋を見る。いくら手袋をしているとしても、大切な指輪をした手で多数の人間の内蔵からにじみ出た汁で溢れる壺の中身をかき回そうなどと誰も思わないだろう。

「たしかにヴンコスキー家の紋章だ。だが、あんたの顔を見たことがない。あそこの息子は司法省の役人と弁護士だったから、何度か顔を見ている」

「それは兄たちですね。僕は法律の道から外れた出来損ないの息子なので」

「では何を?」

「僕はスーカトロ大学の生物博士です」

「スーカトロ大学は国一番の名門じゃないか! そんな優秀な博士がなぜこんな場所で、見るのも嫌でおぞましい事をやってたんだ」

「おぞましいとは失礼な。ちゃんとした調査と研究です」

 フィリップ刑事の眉間のシワが深くなる。その眼光はこれまで何人もの犯罪者を震えあがらせてきたが、ジャイドにはそよ風にもならない。

「僕の研究テーマは、生物の消化における胃腸の働きです。現在でも生物の内蔵の役割については謎が多い。その中でも胃腸に関しては研究が進んでいるほうでしたが、最近とんでもない進歩があったんです。知っていますか? それは顕微鏡です! 望遠鏡は知っていますよね。あれをもっと凄くして、目に見えない砂粒より小さいものを見えるようにした物だと思ってください。これによって目に見えない生物、微生物というものが発見されたのです! 顕微鏡のおかげで僕は腸内にも微生物がいることを発見して……」

「わかった。それであんたは研究のために壺の中身を調べていたってわけか」

 そこでフィリップ刑事はとんでもない可能性に気がついた。

「まさか……貴族の屋敷から汚物を盗んでいたのは、お前か?」

「ええ。そうです。最初は研究のためでした」

「最初はだって?」

「この前農村で起きた人喰い熊事件を知っていますか?」

「ああ。俺もいたからな」

「では話が早い。僕はその熊の中身を調べたかったんです。人を食べて消化するとどうなるかというのは、なかなか調べるのが大変ですから。それでまあ調べてみると以前に見たことがあるような気がしたんです」

「ちょっと待て。それはつまり、他にも人喰い熊がいたってことか」

「いいえ違います。僕が見たのは鶏の腸内からです。失敬した荷車の積み荷に、鶏の腸が丸ごと残っていました」

 人喰い鶏なんてものが存在するのか。フィリップ刑事は言葉を失う。

「ところで、人喰い熊が出たあの近くに、このパーティーの主催者である貴族の別荘があるのを知っていますか?」

 急に変わった話題にフィリップ刑事は首を横に振るだけだ。

「人喰い熊と同じものがあった鶏の腸を手にいれたのは、同じ貴族がパーティーをしていた場所からです。この貴族は美食家として有名なので、珍しい餌を与えているはずなので、貴重なサンプルが手に入るのではと考えました」

 そこでジャイドは言葉を切り、フィリップ刑事が理解するのを待つ。

「人喰い熊と鶏から同じ、人を消化した『結果』が残った。これは変だぞと何度も調査しましたが出ない。どうやら美食家貴族は月に一度ほど少人数の特別なパーティーをやっている。しかし警備は厳重でサンプルを入手するのは無理でした。あの腸は幸運のおかげだったようです。ではどうする? 食品からではなく、食品が食べられた後のサンプルを入手すればいいのでは? 実は昨日その特別なパーティーがあったんです。その出席者が今日このパーティーにも来ています。『運』が良ければそのサンプルが入手できるのでは、という理由で僕はここに来ました」

「いや、待て。それはおかしい。熊と鶏が人を食べたなら腸に同じものは残るだろう。しかし『人を食べた動物を食べたとしても同じものは残らない』はずだ」

「人を食べた動物を使った料理が出る理由は何でしょう。美食家である貴族は、専用の牧場をつくり特別な餌で牛や豚を育てた。しかし満足できなくなり、ついには人を餌にした。人喰い熊は動物ではなく、人ばかりを狙っていました。あの熊は秘密の牧場で、人を餌として育てられたのが脱走したものでしょう。そうして罪深い肉を楽しんでいた貴族だったが、やがてそれにも満足できなくなればどうするでしょうか?」

 ジャイドはフィリップ刑事の両目を見つめる。

「この壺の中には、熊と鶏と同じものがたっぷり詰まってますよ」

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