「蓼虫とミートボール - 下」
雨音で目を覚ますと、辺りは真っ暗になっていた。
スマートフォンを見ると、午後9時過ぎを指していた。
私は急いで起き上がり、適当に身なりだけを整えた。
下の店に向かうと、もう客もパートも帰っており、父の姿だけがあった。
「あの子、今日は来るのか」
「……どうだろう」
父は「そうか」と、また決まって返して言った。
それから、父はタバコを買うついでに、漫画の立ち読みに出かけた。
私は、暫く1階の店で待つことにした。
――海斗は今日ここに来るのだろうか。もし来たら何て言えばいいのだろうか。
私は机に打ち伏して、そんなことばかり考えていた。
ポツポツと鳴っていた雨音が少し大きくなる。いっそこの雨にでも打たれてこようかと私は立ち上がった。
その時、店の引き戸を弱くノックする音が聞こえた。
開かれた戸の先にいたのは海斗だった。
いつもの青いジャージの肩が、少し雨で濡れていた。
「お邪魔します」
昨日ぶりだというのに、青年の顔は見てもわかるぐらい血色が悪かった。
この店を初めて訪れた時よりも、もっと弱っているほどだった。
「こんばんは。大丈夫だった?」
大丈夫なわけがない。私は、言いながら自分でもそう思った。それなのにいつもの風を繕ってしまった。
すると、彼はエナメルバッグから嫌というほど丁寧に畳まれたジャージを取り出した。昨日貸した父親の服だ。
「あの、すみませんでした」
私は、どんな場面のどんな人の謝罪だって好きではなかった。とりわけ、こんなに辛い思いをしている青年の弱々しい声が、言葉が、トーンが、全てが嫌だった。
「ううん」
私はまた、いつものような声で返す。しかし、次の話題や言葉が上手く見つからなくて、暫く言い淀んで沈黙が生まれた。
それでも、このまま帰すわけにはいかないと思って、口をついて言葉が出た。
「何か食べてく?」
それぐらいしか、自分に出来ることはないと思った。
海斗は小さくこくりと頷いて、いつものカウンター席に座った。
私は、やおら立ち上がり、エプロンを着て髪を後ろで結ぶ。
冷蔵庫で季節外れの白菜と厚揚げを見つけた。業務用の炊飯器にはご飯が残っている。
私は、それらだけを取り出した。きっと食材は少ない方が良いと思ったからだ。
海斗は何をするでもなく、少し惚けた様子で私の所作をじっと眺めていた。
そこに何の言葉も生まれない。丁寧な調理音と換気扇と、少し弱くなった雨の音が店の壁に染みるように広がっていた。
私は、鍋を開けてご飯を入れ、そこにご飯の倍ぐらいの水を入れて煮た。
そして、一口大にした厚揚げと白菜を入れたフライパンも火にかける。
その時、海斗はゆっくりと小さな声を出した。
「今日、婆ちゃんに会ってきたんです」
「……そうなんだ」
「それで、聞いたんです。親のことを」
私は、ハッとして弱い動悸がした。それから、間を置いて「うん」と返した。
「それで……何ていうか。あんまりいい親じゃなかったみたいです」
今日の昼に、青柳から聞いたことが再放送される。それも本人の口から。
「本当に記憶にないんですけど、父は
私がふっと顔を上げると、ほとんど温度を感じない彼の瞳があった。
どうして、この子はそんなことをつらつらと言えるのか。私は不思議で堪らなかった。
「あのさ」
私は、耐えきれなくなって断句を投げ入れた。
「実は、私も青柳くんに聞いちゃったんだ」
「……青柳って青柳先生のことですか?」
「うん。君の親のこととさ。その、ご飯のこととか」
わざわざ言う必要もなかったが、これ以上彼の口から続きを語らせるわけにはいかないと思った。
「そう、なんですか」
「うん。ごめんね」
海斗は少しの間黙り込んで、「いえ」と短く返事をした。
それから、海斗はまた、ぽつりと話を始めた。
「それで、よくミートボールを作っていたらしくて、だから、それで昨日吐いちゃったのかもって思ったんです」
彼はまた平静を装っている。不気味なほど。
「だから、あの……私さんの料理は悪くなくて、本当に俺のせいで、すみませんでした」
「君のせいなわけがないだろ!」
私は、自分の声に驚いた。
それでも、熱くなった目頭の勢いで、気持ちに任せて続けた。
「何でそんなこと言うの。全部他の奴らのせいでしょ!」
海斗は、驚いたような顔をしてこちらを見つめていた。
当然だ。こんなヒステリーなやつがいたら、誰だってそんな顔をする。
それでも、私にとって母との一番温かい思い出だったミートボールが、彼にとっては、今でも彼を傷みつける古傷や呪縛そのものだったことが本当に悔しかった。
「だから、泣いてよ。悲しんでよ。怒ってよ」
気づけば、私の目から涙が出ていた。
その滲んだ視界の中で、海斗の目も潤んでいたのを見て、私はふと我に返った。
「……ごめんね。こんなこと言って」
海斗は首を強く横に振った。涙が落ちそうなほど。
それから、震える口でぼそっと言った。
「……俺、ずっと逃げてたんですかね」
「逃げればいいじゃん」
私は、ぶっきらぼうにそう言った。しかし、それは本心だった。
「君はまだ子供なんだから。もっと元気になって、もっと強くなって、それから気が向いた時に向き合えばいいし、向き合わなくたっていいんだよ」
私は、偉そうに説法を説いている自分が急に恥ずかしくなって「なんて」と付け足した。
それでも、海斗は赤ん坊のように真っすぐ潤んだ目で私の目を見ていた。
だから、私は、カウンターを挟んで海斗に手を差し出した。
「君は強くなれるさ」
海斗はその手を取って、深く頭を下げながら。酷く冷たい、柔らかな手だった。
私は、何も言わずに微笑んで、その手を強く握っていた。
それから、海斗は思い出すように言った。
「あ、鍋……焦げてませんか」
私は大きく口を開いた。
やっとテーブルに今日の献立が並んだ。
明らかに火が入りすぎて、お餅みたいになったお粥と梅干し。
少し焦げた厚揚げと白菜を、酒と砂糖、醤油で煮たもの。
本当にただ、それだけだった。
「いただきます」
2人は手と声を揃えて言った。
海斗は、お餅みたいになったお粥をレンゲで持ち上げて口に運んだ。
「……おいしいです」
「……
「おいしいです」
「味もわからないのに?」
「それでも、おいしいんです」
海斗は素直なことを言っている人の、どこまでも澄んだ目をしていた。
「そっか、ありがとう」
私は、応えるように笑って言った。
いつか誰かと、幸福の味を分かち合える瞬間が、彼に訪れることを強く願った。
例えそれがミートボールでなくとも、自分とでなくても構わない。
私が愛してきた、色んな食べ物の色んな幸せを、彼にも知ってほしかった。ただ、それだけだった。
それから、私は海斗を家まで送ることにした。
海斗は1人で帰れると何度か断っていたが、最後は私に言い包められた。
夜の雨道を2人でいくと、ちょうど帰ってきた父がタバコを咥えながら歩いていた。
海斗はそれを見つけてぺこりと深く礼をした。
父はタバコを口から一旦離した。
「……元気になったか」
「はい。昨日はありがとうございました」
父はそっけなく、手をあげて身振りで返事した。
それからまた重そうな足でずんずんと店に帰っていった。
私と海斗の間には、父の吹かしたタバコの煙が微かに匂った。
「きっと君は、タバコの苦さも分からないんだろうな」
私はニヤリと笑いながら茶化すように言う。
「……臭いのは分かります」
海斗もおどけて笑って見せた。
蓼虫とミートボール 高津すぐり @nara_duke
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます