「蓼虫とミートボール - 中」

 金曜日の夜21時半。「ひさ屋」としての営業が終わると、私はまた調理を始める。

 このごろは、その目と鼻の先のカウンターに、快活な青年が座るようになった。

 最初は小動物のように縮こまっていた彼も、1ヶ月するとそのカウンターで課題をこなすまでになった。

「何の勉強してんの?」

 私はチチチチと、ガスコンロをつけながら話しかける。

「数Ⅱです」

 海斗はペンを持った手で頭をポリポリ掻きながら答えた。

「数学か。懐かしいね。何も覚えてないけど」

「ずっと昔のことですもんね」

「やかましいな」

 私は、ちょっと前まで気の毒なほどに気を遣っていた彼が、嫌味を言ってくれることがこの上なく嬉しかった。

 私は慣れた手つきで合い挽き肉を丸めていた。

「今日は何ですか」

「今日はだよ」

「ポルペッティ、って何ですか」

 海斗は一層、怪訝そうな顔をした。

「まぁ、要はミートボールだよ」

「……なんでわざわざよく分からない言い方するんですか」

「さぁ。イタリア人に聞いて」

 海斗は笑いながら洗い終えた容器の水滴を布で拭く。

 チチチチと鳴り、フライパンの火を点けた。

「俺、あんまミートボールって食ったことないかもしれないです」

 海斗がカウンターに戻りながら言った。

 私は「ほんとに?」と返した。

「そういえばさ。君、家ではどうしてたの? 」

「あぁ、親はいないんですよね」

 海斗は表情ひとつ変えずに言った。

 私は小さく「そっか」と返す。

「小さい時にいなくなっちゃったみたいで」

 味覚の話の時と同様に、まだ高校生の彼は慣れた口振りで暗いことを話す。それが一層、私の胸を抉っていた。

「なんか婆ちゃんは色々知ってるみたいですけど」

 彼は、宿題を進めながら慣れたように話す。

「あんまり喋りたくなさそうだし、そこまでして聞きたくもないかなって」

 私はまた「そっか」と繰り返し、「じゃあ」と精一杯に切り返した。

「初めて食べるミートボールが私のだなんて贅沢だな」

「……そうですね」

 私は「ふふ」と笑って、ミートボールを火にかける。

「ま、私の一番の得意料理だから期待しててよ」

 海斗は「はい」と嬉しそうに言った。


「はい。宿題しまって」

 寸分の狂いもない、完全無欠のポルペッティが出来上がった。店中に幸せの匂いが充満している。

「いただきます」

「いただきます」

 2人の声はほぼ重なった。

 海斗は早速ミートボールに箸を伸ばした。

 私は、ほんの一握りの期待をもって彼の顔色を窺った。それぐらい、自分にとってポルペッティは自信のある料理だった。

 すると、その期待とは真反対に、彼の顔はみるみる青ざめていった。

「ちょっと、すみません」

 彼はガタンと椅子から倒れ、床に四つん這いになった。

 全身の毛が逆立ち、脂汗が吹き出ている。

 私はすぐに立ち上がって彼の背中をさする。

「どうしたの! 大丈夫!?」

 海斗の瞳孔は完全に開いている。

 音に気付いてか、2階から父も来て「どうした!」と叫んだ。

 その瞬間、彼の口から少量の吐瀉物が床にばら撒かれた。

 私は、それが自分にかかるのも躊躇せず「大丈夫、大丈夫」と繰り返して、海斗の背中を摩り続けた。

 父は、必死の剣幕で厨房から袋と水を持ってきた。

 「救急車、呼ぶか?」

 海斗は、必死に息を整えながら、父に手のひらを向けた。

 「だ、大丈夫です」

 青年は、私の手の中で、涙をいっぱいに溜めて、小さく「ごめんなさい、ごめんなさい」と繰り返し震えていた。


 〇〇〇

 

 窓から見える電線の向こうで、東の空が明らむ。朝が来た。

 私はほとんど眠ることもできず、偏頭痛を抱えながらゆっくり体を起こした。

 私の頭の中では、何度も何度も昨晩の映像が流れていた。

 海斗が落ち着いてから、彼を家の風呂に入れ、少し大きめの父のジャージと大きめのおにぎりを2つ渡して帰らせた。

 そのどこを切り取っても、苦しむ海斗の顔が断片的に明滅する。

 彼の嘔吐はアレルギーだったのか、体調が悪かったのか、それとももっとずっと考えられないような複雑な何かが原因だったのか。

 私はそんな堂々巡りを、夜を越えて続けていた。

 長い時間をかけて着替え1階に降りると、店の扉前に50リットルのゴミ袋を見つけた。

 その一番上には、昨日海斗の戻したものが三重の袋に入って置かれている。

 彼の苦しみみたいに、強く頑丈に包まっていた。

 私は、それを見てから深い息を1つして、原付の鍵を強く握った。


 私は、海斗の高校に向かうことにした。

 もしかしたら、いつも通り、何事もなかったように土日の部活に出ているのかもしれないと思ったからだ。

 何がここまで私を動かすのかも分からないが、せねばならないと思ったのだからしょうがない。

 原付で駆けると、住宅街を抜ける春風が酷く冷たく感じられた。

 高校に着くと、グラウンドで3〜40人ほどの男子が熱心にサッカーに励んでいた。

 私は集団を見渡したが、その中に海斗の姿は見つけられなかった。

 私がどうしたものかと考えあぐねていたら、グラウンドを歩く黒いジャージを着た男性が私を見つけて「こんにちは」と話かけてきた。

「保護者の方ですか?」

「いや……保護者というかなんていうか」

 私は、形容し難い関係を説明できる自信もなく、不審に目を泳がせていた。

「その、海斗君って来てますか」

「海斗、ですか」

「はい」

「……そうですか」

 海斗の名前を聞いた男性は、少し驚いたように目を開いた。

「私、サッカー部顧問の青柳 あおやぎという者なのですが、海斗の担任でもありまして」

 珍しい苗字の割に、聞いたことのある響きだった。

「青柳……もしかして青柳くん?」

 青柳は、私の高校の同級生だった。

 私はヘルメットを外して、目を見開いて言った。

「私、わかる? 布木ひとみ。高校の時の」

「……存じ上げませんが」

 私は彼の目と反応を見て、何となく「|は私のことを覚えている」と確信を持った。

 これが世に言う「女の勘」というのかもしれない。

 思い返せば、高校時代の青柳が性格や見た目以上に口の悪い男で、歪んだ人間だという思い出が蘇ってきた。

「嘘ついてるでしょ」

「……申し訳ないですが、部外者の方は帰っていただいてもよろしいですか」

 青柳は取り合うつもりがなく、本当に去る素振りを見せたので、私は必死に叫んだ。

「待って! 昨日、実は海斗が夜吐いちゃって」

「……吐いた?」

 青柳はその足を止めて振り返った。

「そう! いつもみたいに晩御飯食べたら急に全部戻しちゃって」

「話が見えないのですが」

「ええと、まずその」

 

 私は、自分と海斗のここ1ヶ月の関係と、昨夜の出来事について出来る限り簡潔に青柳に説明した。

 話を進めると、青柳の眉間にどんどん皺が寄っていくのが分かった。

「そうか」

 青柳の声色は重々しく沈んでいた。

 それから、青柳は左手で顎を触りながら考える仕草をしていた。

「今から、少しお時間よろしいですか」

「う、うん」

「ありがとうございます。少々お待ちください」

 すると、彼は腕にキャプテンマークを付けた選手を呼び出し、指示を出した。


 青柳は学校の古びた門を開け、私を校舎の中の相談室に案内した。

 そこは小さな机と椅子が数脚置いてあるだけの質素な空間。その名の通り、生徒が少人数で相談をするための部屋に思えた。

「座れ」

 青柳は、部屋に入るとがらっと人が変わった。

 言葉遣いも声のトーンも顔つきすらも、高校の時の青柳に戻ったようだった。

「お、元に戻ったじゃん」

「……世間話をするために呼んだんじゃない」

 青柳の顔は、今までに見たことがないほど真面目だった。

 2人は、部屋の真ん中にある長机を2つ挟んで腰掛けた。

「それで、海斗のことだけど」

 青柳は、改まった形で話を始めた。

 窓から、ほとんど花を落とした桜と、それを暗ます分厚い雲が見えた。

「実は、ちょっと前に海斗の婆さんと面談をして」

「そうなんだ」

 昔からめったに目を合わせなかった彼は、私の目だけをじっと見つめて話した。

「そこで、海斗の家族、というか両親について話してもらったんどけど」

 私が相槌を打つと、青柳の顔がさらに強張った。

「あいつの父親は、頻繁に家庭内暴力を振るっていたみたいなんだ」

 移動した雲が完全に陽を覆って、部屋が急激に暗くなった。

 さっきまで聞こえていた部活少年たちの声も耳に入ってこなくなった。

 私は何の反応も取ることが出来ず、青柳は話を続けた。

「それで、小学校の時には離婚をしたんだけど、母親はその影響で病んだみたいで」

 青柳の話はどんどん進んでいく。私は、そのどれもが全く飲み込めないでいる。

「自分の子供、海斗について異常な愛情を持つようになったらしい」

「……異常っていうのは」

 私は聞きたくもないことを、それでも知りたいことを、震える口で尋ねた。

 青柳は「その」と一度言葉に詰まり、軽く目を伏せた。

「反抗的なことをすると、海斗の首を絞めたり」

 青柳はもう一度目線を上げ、私を見つめ直す。

「果ては、自分の作った食べ物に体の一部を入れたり」

 私は青柳が一音一音を発するたび、脈が乱れるような感覚になった。息をする肩が上がって落ち着かない。

 それを見て、青柳が「大丈夫か」と声を掛けた。

 私は窓の向こうを見てなんとか呼吸を整えた。

「ごめん」

 青柳は「いや」と言って、要約するように続けた。 

「だから、もしかしたらそのことと昨日の出来事が関係あるかもしれないと思って」

 青柳は来る時に持ってきたクリップボードを持ちあげる。

「一応、伝えた」

 私は、昨日の海斗を思い出していた。味覚障害のことを告白する時、彼が見せたあの弱々しい表情を。

「うん……ありがとう」

「じゃあさっきのとこから、勝手に帰れ」

 青柳は開いたメモ帳に何か書き込みながら言った。

 そして、「あと」と言って、そのメモ帳のページを千切って私に渡した。

「海斗について何か変わったことがあったら、俺に連絡しろ」 

 青柳は、それだけ言って部屋を出ていった。

 その後ろ姿は、立派な1人の高校教師の背中だった。

 

 校舎を出ると、暗い雲がまだ雨を我慢したまま流れていた。

 私は、原付に乗り、青柳との会話を思い返した。強くて、鋭くて、嫌な言葉が頭でたくさん響いていた。

 暫く走り続けて、私は自宅に着いた。

 原付を裏に停めて、勝手口から店に入ると、まだ昼前なのに客でいっぱいだった。

 邪魔にならないように自室に上ってベッドに倒れ込む。

 それから、自慢の料理ノートのうち、昨日のポルペッティのページを開いた。

 ――海斗の母親のトラウマと、昨日の料理に繋がりがあるとしたら、ミートボールに自分の「何か」を入れていたのだろうか。

 それを考えるだけで、気分が悪くなった。

 何より、それらの行動の裏付けに「愛情」があるのが辛くて酷くて堪らない。

 そんなマグマを抱えたまま、私は暫くぶりの眠りに落ちた。

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