第9話 よみがえり
新しい主として君臨していた魔物を倒したことで魔力が安定したのか、難攻不落の不思議な迷宮と化していたファナン邸は元の屋敷の姿に戻っていた。
庭付き三階建ての邸宅はそれでも大きく、ナァドルドに支配されるまでは街を統治していた貴族だったというファナン家の歴史を感じさせる。
その一階、カーペットの敷かれた客間のような一室。
乾燥した薪をくべて火をつけた暖炉の前に並んで座り、激戦を制したばかりの四人は束の間の休息をとっていた。すぐには動き出せぬほど疲れているのもあったが、まずは浴槽にどっぷり浸かって濡れた服や髪を乾かしているのだ。
「ふー、まったく。もう今日は一歩も動きたくないくらいに疲れたな。さすがにちょっと眠くなってきたぞ」
真っ黒な
「出発するまで休んでいてくれと言いたいところだが、寝ても大丈夫なのか?」
ちょっとだけ考えて、口元に手をやってあくびを隠しつつウルシュカが答える。
「フォズリのことを言っているなら、おそらく大丈夫じゃない。私が眠ったら、今は眠っている彼女が目を覚まして、この体が領王に操られてしまうだろうな」
「大変じゃないか」
「ああ、大変だ。だから本当に寝たいときは私が眠る前に手足を縛っておいてくれ。そうすれば安心できる。フォズリには悪いけど……」
「理屈はわかるが、どんな事情があっても仲間の手足を縛るのは気が進まんな」
「じゃあ頑張って起きておくさ」
おどけた調子で両手の指を使って無理に目を見開いて答えたウルシュカだが、言葉とは裏腹に心身ともにくたくたなのか、いつ睡魔に肩をたたかれてもおかしくないほどの激しい眠気を我慢しているようにも見える。
油断すると今にも眠ってしまいそうだ。
見かねた少年が声をかける。
「手足を縛る以外にも安心して眠る方法はありますよ」
「へえ、そいつは興味深いな。どんな方法だ?」
「簡単なことです。今すぐ自分の家に帰って、元の生活に戻るんですよ。魔物を倒したことで迷宮の問題も解決できたので、もしかしたらフォズリさんは騎士団から報酬をもらえるかもしれません」
「それは、つまり……ここで私とお前たちはお別れって話か?」
「はい、そういう話になります。最初からそうであったように、ここから先は僕一人の戦いです。死と隣り合わせになるであろう領王との戦争に、絶対的な勝算もなく皆さんを巻き込むわけにはいきません」
そこまで言って立ち上がった少年は全員に向かって頭を下げる。
「今日は協力していただき、本当にありがとうございました。魔物との戦いでは大変お世話になりましたが、ロンドウィルの領王が待つ城へは僕だけで向かいます」
「……待ってください」
そう言ったのはユリカだ。
疲れを残した表情ではあるものの、ふらふらの足に力を込めた彼女も立ち上がって決意を見せる。
「私はついていきます。どこまで役に立てるかわかりませんが、あなたと一緒に戦わせてください。ロンドウィルの領王はファナン家にとってだけではなく、私を生んでくれた母と、いつも私を心配してくれていた兄の仇でもありますから」
一瞬だけ迷った少年だったが、彼女の申し出を拒絶することはなかった。
その目を正面からのぞき込み、真剣に問いかける。
「それがあなたの心から出た決意なら、僕はありがたく受け取ります。いいんですね?」
「はい!」
あまりに威勢のいい返事をするので、思わずカッシュが立ち上がった。
「待て待て、この場の勢いで決めるんじゃない。領王に戦争を挑んじまったら生きて帰れる保証は全くないんだぞ。せっかくこうして閉じ込められていた迷宮から出られることになったんだ。家族と会うため家に戻らなくてもいいのか?」
「それは……」
半ば脅されるような言葉を受けて冷静になったユリカが口ごもると、やれやれと言いながら最後に立ち上がったウルシュカが二人の間に割って入った。
「本当に馬鹿だな、へっぽこ騎士。当然、彼女の家族たちにも領王の命令が行き届いているだろう。会いに行ったらフォズリの時と同じように彼女を殺そうとするかもしれない」
「それはわかっているが、かといって領王と戦いに行くなんて実質的には自分から死にに行くようなものだろ。今は会えないとしても、会える機会を待って隠れていることだってできる。たとえばロンドウィル領の外に出るとかな」
「ロンドウィル領の外へ出たとして、ナァドルドを倒す以外に家族と会える方法があると思うか? 彼女と違って普通の領民はロンドウィル領を出ることはできないんだぞ」
「それはそうだが……もしかしたら少年が戦争に勝って、ナァドルドを倒してくれるかもしれんだろ」
そう言ってカッシュが視線を少年に向けると、今度は迷うでもなく彼は頷いた。
具体的な勝ち筋はともかく、やる気には満ちているらしい。
直接的に問いかけてきたカッシュに対してだけでなく、三人に聞こえるように少年が答える。
「ぜひとも僕に任せてください。巨大カマキリさえ一人では倒せなかった僕が言ったって頼りないかもしれませんが、負けに行くつもりはありませんよ」
「だそうだ。おとなしく任せてみるつもりはないのか?」
しばらく考えて、立ったままウルシュカが答える。
「いいや、こうなったら私も仲間として一緒についていくぞ。少年とユリカが本気で領王との戦いをやるってんなら、こっちから喜んで加勢してやる。生まれたころからずっとフォズリを苦しめてきた悪い奴をようやく倒しに行けるんだからな」
「正気か?」
「お前こそ正気か? 危険の少ない事務員として入ったはずの騎士団で、ろくな訓練もなしに討伐隊の一員として迷宮に突入させられたんだぞ。私がいなけりゃフォズリは死んでたんだ。こんな街の騎士団なんかやってられるか。馬鹿げた運命に囚われたフォズリは契約精霊である私が解放する。邪魔するってんならお前もぶっとばすぞ」
シャツの袖を腕まくりして、勢い余ってカッシュへ向かって踏み込むウルシュカ。
慌てたのはカッシュだ。
「待て待て、まずは落ち着いてくれ、ウルシュカ。俺はお前の敵じゃない。ここに敵がいないと理解したうえで冷静になってよく考えてみてほしいんだが、お前が一人でロンドウィル領の外に出るってのも立派な一つの方法じゃないか。領王に操られているフォズリと違って、お前なら自分の意志でナァドルドの支配圏から抜け出すこともできるんだからな」
「そりゃ可能だろうよ。たぶん今の私が選べる行動の中では一番平和で安全な策だからな、これまでに考えたことが一度もないわけでもない。だけど私はその手段を行使しないと決めたんだ」
「どうしてだ」
勝ち目のない戦いに挑むよりも、戦いを避けて逃げ出したほうが遥かに安全で現実性もある。
それなのに、ここまで強情に領王との戦いを選ぶ理由は何なのか。
疑問に思うカッシュに対し、他に選択肢はないと言わんばかりにウルシュカが答える。
「フォズリは私に言ったんだ。血のつながった家族だけでなく、同じ街に生まれ育った人たちも見捨てては行けないって。フォズリがそれを願うなら、彼女を加護する私もそれを尊重する」
自身の体の内側に語り掛けるように宣言したウルシュカはカッシュを無視して少年の前まで歩き、静かに覚悟を秘めている彼の正面で立ち止まった。
その目をまっすぐに見つめ、彼の胸の前へと震えのない手を差し出す。
「フォズリだけでなく、彼女が愛するロンドウィルの領民たちを苦しめ続ける馬鹿な領王をぶっ倒すため、私はついていくと決めたんだ。お前にかけるぞ、少年」
「はい。ウルシュカさん、よろしくお願いします」
真正面から手を握り合う二人。
恐れや不安、迷いや逡巡があるとしても、ここに強固な協力関係が成立した。
それを間近で見届けたカッシュは静かに首を振り、あきらめたように二人へ背を向けて歩き出した。
「よし、わかった。お前らの覚悟は本物だ。もう俺からは何も言うまい」
「おい! どこに行くんだよ、へっぽこ騎士!」
出口へとたどり着く前にウルシュカから怒声交じりに呼び止められ、ある程度は予想していたのか、驚くこともなく振り返ったカッシュが肩をすくめる。
「どこって、一足先に俺は自分の家に帰らせてもらうぞ。忘れてもらっちゃ困るが、お前らは三人とも特別なんだ。普通の領民に過ぎない俺はいつ領王に操られるかわからん。どんなに不服だろうが殺せと言われれば剣を抜く。このまま一緒にいるとお前たちに危険が及ぶ可能性が高い」
「そんなことを言って逃げるのか?」
「逃げるんじゃない。お互いのために離れるんだ。お前らだって迷宮の中でユリカに矢を放ったフォズリを見ただろ? あれは未来の俺の姿だ。……彼女が参加していた討伐隊には、ファナン家の娘を殺すように命令が出されていた。たまたま俺は討伐隊には参加していなかった。ただそれだけだ。俺が自分の意志で領王の命令に抵抗できているわけじゃない」
「つまり今はまだ命令を受けていないんだろ?」
「そうだろうよ。今はまだ、な。……隠さずに本音を言えば、領民を苦しめ続けている領王をぶん殴るための戦争だってんなら俺も全力で協力したいさ。たとえ勝ち目がなかったとしても、命懸けの戦いだとしても。だが現実は非情で、個人の努力や覚悟だけではどうにもならん。俺はお前たちの足かせになりかねないんだ」
それを別れ言葉にして立ち去るつもりだったカッシュだが、納得しないウルシュカが大股で近づいてきて腕をつかんだ。
「
「わざわざ俺のことなんか書かなきゃいいだろ。この迷宮もおまえら三人で攻略したことにすればいい」
「いいや、書く。腕のいい芸術家に肖像画も描いてもらって、末代までの恥にしてやる」
初めてできた人間の友達だからか、このまま別れることを寂しがっているようにも見えるウルシュカの意志は固い。
それを態度でも示すように、腕をつかんだままカッシュをにらみつけている。
このまま意地を張り合うこともできたが、先に折れたのはカッシュだ。
「……わかったよ。そこまで言うなら俺も行く。脱落者は許さないと強情になっているウルシュカはともかく、少年、本当にいいんだな?」
「もちろん歓迎しますよ。カッシュさんがいてくれると心強いです」
問われた少年が屈託なく笑顔でそう答えるものだから、ついにカッシュは観念した。
「くそったれ! こうなったらどうにでもなれだ! もし俺が領王の野郎に操られてお前らを襲おうとしたら遠慮なく殺してくれ! その時までは力になってやる!」
こうして四人は領王との戦争のため、命を預け合う仲間となることを誓ったのであった。
それからしばらく暖炉を囲んで休養した一行は、完全なる日暮れを迎えてしまう前に屋敷を出た。
大事を取って屋敷で一晩過ごすことも考えられたが、迷宮が攻略されたと知られれば領王の命令を受けた騎士が乗り込んできてもおかしくはない。このまま一か所にとどまることは危険だと判断してのことだ。
すでに庭師がいなくなり、荒れ果てた花壇はもちろん、草木までが枯れて殺風景になっている屋敷の前庭。摩訶不思議な迷宮でなくなっても敷地の広さは変わらない。
押し入った時のまま鍵が壊れて開いている状態の正門へ向かって四人が歩いていると、ふと思い出したようにカッシュがウルシュカを呼び止めた。
「ウルシュカ、そろそろ剣を返してくれ」
「……ん? ああ、そう言えば借りたままだったな。悪かったよ、ほら」
「助かる」
どこか奪い取るように伸ばした右手で受け取ったカッシュはそのまま鞘から剣を引き抜いた。
刃こぼれのない鋭い刀身が夕日を受けて茜色に輝く。
「何をやってんだ? しまっとけよ。物騒だろ」
これには答えず、左手に持っていた邪魔な鞘を投げ捨てたカッシュはいきなり駆け出した。
まさか敵襲でもあったか。いや違う。
かといって魔物の気配があるわけではない。
ならばと、即座にカッシュの狙いを察したウルシュカは大声で叫ぶ。
「少年、逃げろ!」
危険を知らせる忠告。
鬼気迫る彼女の声に反応して振り返った少年は反射的に剣を抜き取って、思考が追い付くより前に動いた手でカッシュの剣に打ち合わせた。
お互いに手加減はない。紅蓮色に空を染めた夕焼けに負けぬ、激しい火花が散る。
一撃にすべてをかけていたわけではないにせよ、背後からの不意打ちで倒せなかったことを知るとカッシュは後ろ向きにステップを踏んで少年から距離を取った。
「今なら油断しているかと思ったが、さすが一人で領王に戦争を挑むだけのことはある。簡単には殺せそうにないな」
「カッシュさん!」
「こうなったら正々堂々と勝負だ。覚悟しろよ、少年」
「カッシュさん! やめてください!」
護身のため剣を握りつつも、本気で戦うつもりのない少年はカッシュに停戦を呼びかける。
しかし声は届いていないのか、ためらうことなく剣先を少年へ向けたカッシュは口元をゆがめて目を細める。
ごくりとつばを飲み込んだ少年。
そこへ声をかけたのはウルシュカだ。
「少年、何を言っても無駄だ! 今のそいつは正気じゃない! 放っておいたら少年を殺しに来るぞ! だから私が抑える!」
「くそっ! すばしっこい奴め!」
いつの間にかカッシュの背後に回り込んで接近していたウルシュカが足払いをして地面に倒すと、そのまま馬乗りになってカッシュを抑えつけた。
同時に剣を奪い取って、簡単には手が届かない場所へと投げ捨てる。
「土地精霊であるファイゼルの加護下にある屋敷を出た途端にこれか! 認めてやるのも
「どけ、ウルシュカ! 俺の邪魔をするな!」
「馬鹿を言え、邪魔されてるのはこっちだ! まったく、領王との戦争についてくると観念したから数日くらいは戦力として役立ってもらうはずだったのに!」
領王に操られているらしいカッシュに対して優勢ではあるものの、根本的な体格差があるせいで上下関係を維持するのは簡単ではない。彼女にしてみれば仲間に対して力を加減する必要があるという意味でも、本気を出したカッシュに逆転されるのは時間の問題だ。
いつまでもウルシュカだけに任せているわけにもいかない。
加勢するため少年は近づこうとしたが、それに気づいた彼女が叫んだ。
「手助けはいい! 危ないから命を狙われている二人は離れてろ! しょうがないからこいつは私が首を絞めて眠らせる!」
「なっ! ふざけるな!」
「うるせえ、お前こそふざけるな! あんまり抵抗すると加減を間違って気絶させるだけじゃすまなくなるぞ!」
実際、殺しかねない勢いで首に手をまわしている。
気道がふさがれ呼吸が止まって苦しいのか、あがくカッシュは声が出にくくなっていく。
「お前が私より弱くて助かったよ! 通り名を持ってる上級クラスの騎士だったら私たちは全滅してたからな!」
「……くっ! 言ってくれる!」
「よし、このまま……」
と、ひとまずカッシュを支配下に置いたウルシュカは事態の収束を願ったが、それは叶わなかった。
「な、なんだ!」
彼らが位置する屋敷だけでなく、街全体に響く音量で鐘の音が鳴ったのだ。
市民のために時間を知らせる穏やかな音色ではない。火事か、魔物の襲撃か、何らかの緊急事態を伝える鐘だ。
一体何事が起ったのかと状況が呑み込めず、困惑して無意識に腕の力が弱まったウルシュカに対し、ゲホゲホと咳き込んだカッシュが苦しそうに声を出す。
「ウルシュカ、お前も街の騎士団の一員なら知ってるはずだぞ。非常事態宣言だ。俺みたいな非番の騎士も一人残らず警戒任務のために駆り出され、逃亡者を一人も出さぬため街の門も閉ざされたに違いない」
「騎士団の一員なのはフォズリであって私じゃないが、今はそれはいい。それよりも非常事態宣言ってのは……」
「屋敷を出たとたんに俺がこうなったことから推測できるだろうが、強大な魔力を通じて領王からの命令が出されたぞ」
「……察するに、少年を殺せっていう命令か。同時にユリカもだろうな。どうしてこのタイミングなんだ?」
「話は単純だ。どうやら俺とお前たちは領王に利用されていたらしい。ユリカの命を狙って屋敷に入った討伐隊が失敗した以上、そこの少年に邪魔な迷宮を退治させたがったんだ。そして、それはうまくいった」
それを聞き、少し離れて様子をうかがっていた少年がカッシュとウルシュカのもとへゆっくりと近づく。
「つまり、ユリカさんを閉じ込める迷宮がなくなった時点で僕はもう用済みになったと」
「そうだとも。挑んできた相手が一人きりだったとはいえ、正式な戦争を受けたにしてはおとなしいと思っていたが、裏があったわけだ。領王の側から攻撃を仕掛けないことで、仲間のいない少年がこの街に入りやすくしたのだろう」
「だったら、僕たちはもう完全に狙われていると考えたほうがよさそうですね」
遅れてそばに来たユリカをかばうように立ち、しゃべりながら周囲をきょろきょろと見回す少年。注意深く四方八方を警戒していれば、こちらを狙って放たれた飛び道具は彼の精霊契約で防ぐことができる。
「その”僕たち”に俺が含まれていないのを幸運とみるか不幸とみるか、今の俺は判断に迷うな」
「なにしろ私の下敷きになっている境遇だもんな。情けない騎士め」
「違いない」
くすくすと自嘲気味に笑って、ウルシュカに組み伏せられたままカッシュは少年へと顔を向ける。
「少年、これからどうするんだ。迷宮にいた魔物と違って、何の罪もない騎士や市民を退治するわけにはいくまい。領王の命令はファスタンに暮らしている市民の全員に出された。彼らは自分の意思にかかわらず領王の命令に従うほかない。つまりこれから出会う人間はすべてお前の敵だ。もはや街を出られはしないぞ」
「そうですね……」
どうしようもない現実。普通に考えれば勝ち目はない。
それでも少年の目に絶望の色は見られなかった。
厳しい戦いになるのは最初から覚悟の上だ。
「方法はあります。危険ですが、この街の誰とも戦わずに済む方法が」
そう答えた少年は腰の剣を引き抜き、その切っ先を地面に突き刺した。
すると、剣を握りしめている少年を中心として地面に沼が広がっていく。
それを見ていたカッシュは言い知れぬ恐れを感じながら問いかけた。
「お前、何を……」
「この精霊剣に秘められている力を使って、強引に”扉”を開いたんです。この世界と冥界との狭間にある空間……
「境界封穴を通るって、お前……。実物を見たことがないから物語や風の噂でしか聞いたことはないが、それは死者にしか通れないんじゃないのか? 精霊界が精霊にしか入れないように、地上よりも冥界に近いとされる境界封穴は生きた人間が簡単に入れる場所じゃないはずだろ」
「普通はそうですね」
「普通は、って……」
当然のことのように答えた少年に対して、驚きのあまり言葉を失ったカッシュ。
それはつまり、少年が自分のことを「普通ではない」と宣言したにも等しい。
ただ者ものではない雰囲気を感じ取って、仲間であるはずの少年をいぶかしむウルシュカがカッシュの上で身を固くする。敵対心ではなく、ある種の恐れを抱いているのだ。
「初めて聞いた時から、名前がないのはおかしいと思ってたんだ。普通、名前という原初の加護がない人間は『魔なるもの』に狙われて無事では済まない。生まれたばかりの子供ならともかく、少年くらいの年齢になっても名前を持たないのは不自然だ」
ごくり、と唾を飲み込むウルシュカ。
背中越しに緊張感が伝わったのか、口を閉ざしたままでカッシュも息をのむ。
そんなカッシュを抑え込んでいることも忘れて、少年を見るウルシュカは片手で地面を指さした。
「それに、すぐ足元で境界封穴に通じる扉を開いても平然としているあたり、普通じゃない。普通じゃないとすれば……お前、ひょっとして冥界に落ちた経験があるな?」
「はい、そうです。名前がなかった僕は『魔なるもの』に襲われて、一度冥界に落ちたことがあるんです」
「なるほどな。つまり一度は死んだことがあるってわけか」
と、すんなり納得したウルシュカと違って納得がいかないのはカッシュだ。
相も変わらずウルシュカの下敷きになったまま、自由が与えられている首と口だけを動かして二人の会話に割り込む。
「おい、二人とも、ちょっと待ってくれ。当たり前のように言っているが、それはおかしいだろ。じゃあ、お前はどうしてここにいる。一度でも死んじまった死者は冥界から出られないというのは子供でも知ってる常識だ」
「確かに、もしも死者のままだったら冥界を出られなかったでしょうね。誰にでも与えられているはずの名前という加護がなかった僕は冥界でとある神に襲われて、人間としての魂を半分奪われた代わりに神としての魂を半分与えられ、半神半人として地上の世界に戻ってきたんです。つまり、神の不死性を半分だけ手に入れた僕はいわゆる”蘇り”なんですよ」
「は? 蘇り、だと……? それに、今、お前は神と言ったか?」
「言いましたよ」
「言いましたよって、お前な……」
あまりにも平然と答える少年。すぐには理解が及ばないカッシュは冗談を言われたような気分になって、再び言葉を失った。
冥界に落ちたことがあるだとか、神だとか、にわかには信じられない話だ。
すぐそばで彼らの話を聞いていたウルシュカにも言いたいことはたくさんあったけれど、状況がそれを許さなかった。
「くそ、このままゆっくり話している暇はない! 屋敷の外を見ろ! 騎士が駆けつけてきたぞ!」
それを見た少年は頷く。
「もう時間はないようですね。皆さん、僕は境界封穴を通ります。穴とはいえ限りなく冥界に近い場所なので通るだけでも危険ですが、この剣で開いた扉は生きた人間も入ることができます。なので、領王と戦う覚悟がある人だけ追って来てください!」
「あっ、おい!」
身動きの取れないカッシュがそれでも右手を伸ばして呼び止めようとしたものの、間に合わなかった。
少年は沼の中へと飛び込んだのだ。
それを見守っていたユリカが振り返ってウルシュカを見た。
「私は追います」
「わかってる! すぐに私も追いかけるから、ここで別れの言葉はいらない! 私がこいつを抑えている間に先に行け!」
「はい!」
そう答えたユリカはためらうことなく少年を追って、地面に水たまりくらいの沼として開いている扉をくぐった。その顔に恐れや不安の色は見られなかった。
次には、今までずっとカッシュを抑え続けていたウルシュカも手の力を緩めた。
「さて、私も二人を追いかけるとするか。急がないと扉が閉まってしまいそうだ」
「お前らはどうかしている。何度も言うが、無事で済む保証はないんだぞ」
「ああそうかい、だったらこっちだって何度でもお前に言ってやる。命の保証がないだと? はんっ、だからどうした! 奴は平気で人を殺すんだぞ! 自分の命が惜しいからって領王を放っておけるか!」
言い捨てたウルシュカはカッシュの上から飛びのいて冥界の扉へと走った。
「待て!」
依然として領王の命令に操られているのか、それとも彼自身の意思なのか、なんにせよ近くに落ちていた自分の剣を拾ったカッシュも駆け込んだ。
直後、沼が干上がるようにして境界封穴への扉が閉まる。
ファスタンの騎士たちがファナン邸の中庭に入った時には、もはや少年たちを追いかける手段は残されていなかった。
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