第8話 迷宮の主(2)

 リーダー然として、威風堂々と三人の真ん中に立つカッシュ。

 いつ襲い掛かってくるかわからぬ魔物から目をそらさぬまま、両隣に並んだ二人に声をかける。


「とにかく俺は奴の正面で槍を振り回す! 巻き込まれないように注意しながら、二人は左右から頼む!」


「わかりました!」


「いや、私はわからん! 巻き込まれないようにって、お前が巻き込まないように気をつけろよ! 馬鹿!」


「いいから敵を見ろ、ウルシュカ! 攻撃だ!」


 カッシュが指摘した通り、命を刈り取ろうとして大鎌が来る。

 水平方向に払われる大きな鎌。

 これまで何人もの命を奪い取ってきた巨大カマキリは作戦など何も考えていないらしく、諦めもせず目の前に立つ人間の首を狙っている。

 もう何度も見慣れた攻撃だ。

 しかし今度はタイル張りの床の上、今までと同じように湯の中に潜ってやり過ごすことはできない。

 ほとんど同じタイミングで後方へと向かって床を蹴った少年とカッシュは鎌の届かない距離まで下がり、ウルシュカは膝を曲げた反動を使って肩より高く跳び上がって回避する。


「踏み台がないと避けるのも大変だな!」


「踏み台とは聞き捨てならないが、一応は俺の盾を褒めてくれていると受け取らせてもらおうか!」


「お二人とも、敵の前で仲良く言い合ってないで気を付けてください! お湯の中を出たせいか、先ほどまでより魔物の動きが素早くなってます!」


「そうらしいな!」


 二度目の大鎌は逆側から即座に襲ってきた。

 次こそ獲物を逃がすまいと巨大カマキリは大足で踏み込んできたので、そのままでは少年とカッシュも鎌が届く距離だ。

 少年は身をかがめることで向かってくる鎌を下から潜り抜けて前進し、左の側面から巨大カマキリの背面へと回る。ウルシュカは再びその場でジャンプして鎌をやり過ごすと、着地と同時に駆け出して右側から回り込む。正面に残るカッシュは精霊樹の槍を魔物の鎌とは反対側から振りかぶり、少し下がりながら上手くぶち当てることで大鎌の速度や衝撃を落とした。

 迎え撃つタイミングは合っていたものの、さすがに力負けしたのか槍は折れる。

 けれど折れた先から精霊樹が伸びていき、たちまち槍は元通りになった。


「今まで相手してきた人間がどうだったかは知らんが、簡単に俺を倒せるとは思わんことだな!」


 くるりと回して構え直したのを威嚇行為だと受け取られたのか、巨大カマキリはカッシュへと狙いを決めて鎌を振り下ろす。

 それを一回目は余裕で避け、二回目はぎりぎりで避け、三回目はかろうじて槍を打ち合わせることで回避する。

 三度の振り下ろしと同時に踏み込んでいた巨大カマキリは敵をにらみつけ、今度は口を使ってカッシュへと噛みつく。

 ただのカマキリとはわけが違う。人間など比べ物にならないほど大きな口だ。

 単純に大きいだけでなく、短剣と呼んでも差し支えないであろう鋭い牙も上下に並んでいる。

 反撃と防御のためカッシュが槍を振り上げて魔物の顔を狙うが、驚くことに巨大カマキリは槍を噛み砕いた。樹齢三千年の大木でも平気で切り倒せそうな大鎌だけが魔物の武器ではなく、岩も砕ける程度に顎の力があるらしい。

 あれに噛まれたら人間など無事では済まない。

 間違いなく即死だ。


「なんて馬鹿力だ! 避けるのに精一杯で反撃を試みる余裕もない! ここは魔物の注意を引き付けて時間を稼ぐしかなさそうだな!」


「だったら時間稼ぎはお前に任せるぞ! ちょうど狙われているみたいだしな!」


「任せるって、まさか俺一人でか!」


「一人でだ! さっきは私がやった! 無理なら言え!」


「……任せろ! 貸しを作るのは好きだと言ったばかりだからな!」


 やけっぱちになって一人で魔物の攻撃を引き付けることにしたカッシュを残し、隙だらけとなった巨大カマキリの背後で合流した少年とウルシュカは二人で肩を並べて立った。


「実はさっきからずっと困ってたんだが、名前がないってのが本当なら、お前のことはなんて呼べばいいんだ?」


「そうですね、カッシュさんと同じように”少年”でいいですよ」


「じゃあ少年。こいつには剣も炎魔法も通じないらしいんだが、どうすれば倒せると思う?」


「カッシュさんの槍でも……」


「たぶん無理だろうな」


 そう強く断言したわけでもないのに意外と遠くまで声が響いたのか、魔物を相手に槍を振り回していたカッシュがちょっと待て、と異議を唱える。


「無理とは聞き捨てならんな!」


「だったら倒せるのか!」


「……無理だ! すまん! 意地を張るのはやめにする!」


 魔物を挟んだ反対側から見守っている二人にいいところを見せようと無理をしたのが裏目に出たのかもしれない。

 あっけなく大鎌に槍が折られて、これではいかんとカッシュは跳び下がる。

 残念ながら精霊樹の槍では巨大な魔物に効果的な傷を与えることはできなそうだ。


「ということで私たちも頑張らなくちゃいけないんだが、さて……」


「ウルシュカさん」


「ん?」


「作戦と呼べるものはないですけど、ひとまず僕がやれるだけやってみます。ロンドウィル騎士団や土地精霊、そして領王ナァドルドとの戦いのために色々なものを温存しておきたかったけれど、ここで死んじゃ意味がないんです。名前を失って存在が消えかかっている精霊たちの力を借りることも考えないと」


 そう言って剣を構える少年。

 彼の決意や覚悟に反応したのか、濁りなき青い刀身が美しく輝く。

 すると、それを隣で見ていたウルシュカがうろたえた。


「お前、その剣……」


「え? あ、そうか、ウルシュカさんは精霊だから……」


 慌てて剣をしまおうとする少年だったが、それを止めたのは身を震わせていたウルシュカだ。


「いや、ほんのちょっぴり本能的に怖気が走って背筋が凍ってしまっただけだ。臆病な私に気を遣って鞘にしまわなくてもいい。その剣、ちょっと切れ味がいいってだけじゃないだろ?」


「はい。僕の友達でもある物知りな精霊が教えてくれたんですが、これは冥界の魔力で鍛えられた精霊剣、ユングシールだそうです。魔物だけでなく、多くの精霊を殺めてきた呪いの剣だとか。ある程度弱らせられれば、殺せずとも相手を問答無用で冥界に落とせます」


「とんでもない力だな……。もちろん、今まで出し渋っていたってことは、そう何度も気軽に使えるってわけじゃないんだろ?」


「そうですね。単純に僕が戦い慣れていないというのもありますけど、使える魔力に限りがあるんです。回復には時間がかかります」


「私の魔法と同じってわけか。だとすれば、闇雲に切り込んで体力や魔力が尽きるのは避けたい」


「同感です。まずは三人で協力して魔物をけん制し続けて、弱点を探しましょう」


「よし!」


 作戦は決まりだと力強く頷いたウルシュカは顔の向きをカッシュに合わせて叫ぶ。


「聞いたか! まずは奴の弱点を探るぞ!」


「そりゃいいな! つまり俺は今やっていることを続ければいいんだろ! ほら、わかったから二人も早く加勢してくれると助かる!」


 どこまで聞いていたのやら、早口で答えたカッシュ。先ほどから魔物を相手に防戦一方なので、さすがに焦りを隠せていない。

 一瞬だけ顔を見合わせた少年とウルシュカはお互いに剣を構えて、右と左に別れて魔物のもとへ駆けた。

 三人は三方向から、タイミングを合わせたりずらしたりしながら魔物へ斬りかかる。

 誰を狙えばいいかわからず翻弄される魔物の攻撃をかわして、一振り、二振り、三振り。

 代わる代わる着実に攻撃を当てていくが、なかなかひるみもせず、斬撃や打撃が効いている様子はない。

 全力を出さずに様子を見る、という作戦を忘れたウルシュカが精一杯の力を込めた一撃を魔物の足に叩きこむ。

 それでも目覚ましい効果は見られなかった。


「思った以上に外皮は硬いな! 頑丈な鎧みたいで剣じゃ傷もつけられないぞ!」


 危うく剣を取り落としそうになって、ジンジンする手を震わせながらウルシュカは顔をしかめた。

 頑丈な鎧みたいな外皮。

 いったいどんな感じだろうかと気になった少年も彼女に続いて力を込めた攻撃を何度か試してみたが、繭で覆われている部分には刃が通らず、繭がない外皮は本当に鎧かと思えるほど硬い。

 長身なカッシュに比べれば小柄な少年は剣士として十分な腕力があるわけでもなく、幼いころから訓練を積み重ねて剣技を鍛えてきたわけでもないので、これはもう正攻法で挑まないほうがいい。


「生半可な攻撃では意味がなさそうですね!」


「お前ら二人にたがわず俺もそう思うがな、だからといって諦めるのは早いぞ!」


 何度も折られながら大鎌を繰り返し槍で受け続けたことで、確証はないものの敵の弱点らしき部位を見抜いたカッシュ。

 騎士として街を守ってきた彼は三人の中で一番魔物との戦闘経験がある。

 なので、たとえ直感に過ぎずとも無視はできない。

 自分の見解を共有するため、二人にも聞こえるように大声で告げる。


「関節は弱いと見た!」


「狙います!」


 指示されたわけでもないが、すかさず答えたのは少年だ。

 決断も早ければ行動も速い。

 隙を見て後ろから接近すると右足で踏み込み、反動をたっぷり使って飛び上がってから、ぐるりと回転するように剣を振り下ろす。


冥月斬めいげつざん!」


 透明な世界が切り開かれるように青い刀身が輝きを放ち、巨大カマキリの大鎌を肩口のところから斬り落とした。

 硬質な表皮が覆えない、わずかながらに隙間の見えていた関節部分が弱点だったのは事実だったが、それに加えて少年の剣が綺麗に入ったのも功を奏した。

 断面となった傷口から大量の体液が飛び出し、痛みをこらえた絶叫なのか、顔を上へ向けた魔物は金属同士をすり合わせたような不快な声を響かせる。


「でかした! そうやって残るもう片方の鎌も……」


 同じように狙って、立て続けに斬り落とせば勝てる。

 そう言おうとしたカッシュだったが言葉が続かなかった。


「おいおい、嘘だろ……」


 それは目を疑う光景だった。

 巨大なカマキリの体に巻き付いていた白い繭から複数の糸が伸びて、地面に落ちた鎌を捕まえると、それを肩のところまで引き寄せて元のようにくっつけたのだ。接着したばかりの肩口を覆うように繭の糸がぐるぐる巻きにされ、魔力が通ったのか切断面が治癒されていく。

 たちまち復活する魔物の右腕。

 見かけだけが元通りになったのではない。腕を切り落とされた傷など最初から存在しなかったかのように、素早く大鎌が振り下ろされてきた。

 至近距離から狙われた少年は逃げるのが間に合わず剣を振り上げる。

 斜めから交差するように打ち合わせて、衝撃を受け流し、転がるように懐へもぐりこむ。

 魔物の足元、敵を見上げる少年は剣先を頭上へ向け、構えた直後に跳び上がる。


冥風めっぷう!」


 もう一度、青く透明な剣筋で巨大カマキリの肩を切り裂いた。

 肩の関節を脇の下側から切断され、少年が過ぎ去った後の空間へ吸い込まれるように飛び散る魔物の体液。

 しかし今度は攻撃が予測されていたらしく、斬り落とされたばかりの大鎌が地面に落ちる前に繭糸が伸びて繋がった。

 そして巨大カマキリの右腕は元通りになる。

 事実上の治癒魔法。

 攻撃が意味をなしていない。

 ため息を漏らしながら着地した少年の代わりに、カッシュが苦々しい気持ちで吐き捨てる。


「まずはあの繭をどうにかせねばならんらしいな! 魔物の手足を切り落としてもすぐにくっつけられてしまう!」


「しかし剣も炎も通じないぞ! そこらの昆虫が吐き出す繭なんかじゃなくて、土地精霊の魔力がこもった特別な繭糸なんだ! 馬鹿みたいな回復力もそれが原因だろうな!」


「すぐに折れてしまう俺の槍では無理だろうが、少年、お前の剣でもあの糸を切るのは無理そうか!」


「一本や二本なら大丈夫かもしれませんが、あの繭糸は絹のドレスのように何本もの糸が絡まり合っているんです! あいにく僕には無理そうです!」


「なら他の方法を探そう! 真正面から挑んで全員で無理をするのは最終手段だ!」


 声を掛け合った三人は再び三方に別れて、魔物の攻撃をかわしながら無理をしない程度に反撃を試みる。

 そうやって時間を稼ぎ、別の弱点や攻略法を探すのだ。

 だが、剣や槍の攻撃を通さない硬い表皮だけでなく、土地精霊の魔力に染まった繭に守られた巨大カマキリはやはり強い。

 まるで少年たちの体力だけが奪われていくようである。


「繭をどうにかしないと……」


 その声はユリカだ。

 手に汗を握って見守るあまり、思わず声が漏れていた。

 誰かに届けようとして発した声ではない。どちらかと言えば己に対する鼓舞を含んだ問いかけである。

 いつしか迷宮の主となり、土地精霊の加護をかすめ取ったらしい巨大カマキリであるが、そもそもファイゼルヤママユの加護を受けているのは自分だ。

 あの魔物に対して、単純な力で上回っているとは思えない。

 けれど、剣や槍の代わりに魔法を使うことができる自分になら、あの繭をどうにかすることもできるのではないか。

 その思いが彼女を突き動かそうとしている。

 ただし、事態はそう簡単ではない。

 精霊にとって魔力とは命そのものだ。魔法の源でもある魔力は、精霊にとって魂を形成する根拠の一つでもある。自分の限界以上に魔法を行使して魔力を使い果たせば、精霊としての「形」を維持することができなくなりかねない。

 それは死と同義である。

 人間であるフォズリと身体を共有しているウルシュカや、妖精と人間の混血であるユリカの場合は魔力だけが存在の根拠ではないので事情は異なるものの、それでも魔力を使い果たしてしまうことへの恐怖感は人間のそれとは別物だ。

 特別な力だと自惚れるより前に、魔法を使うことに対する恐れや不安がある。

 どんなに強い魔法だとしても、それを完璧に制御できるとは限らない。

 失敗すれば死ぬ可能性がある。


「だけど、それは私だけの問題じゃない」


 そう、彼女だけの問題ではない。

 彼女の目の前にいる彼らは死への恐怖を抱えながらも、命を賭して魔物と戦っているのだ。

 少年も、カッシュも、ウルシュカも、そして今は眠っているけれどフォズリも。みんなが戦ってくれている。

 最初の一歩は自分が助かりたくて踏み出した。

 なら、次の一歩は。


「……よし」


 とはいえ、たとえ勇気と決意によって恐れを克服したとしても、彼女にはそれ以外の現実的な問題があった。

 今の彼女にとって、閉ざされた部屋で自分と少年の体を拘束していた糸を断ち切ったような風の魔法をもう一度使うのは難しい。

 いくら疾風ストームが低級の魔法だとはいえ、これまで彼女は魔法をろくに使わずに生きてきたのだ。下手をすると次の一発で魔力が尽きてしまいかねない。もっと下手をすると、魔法が暴発して三人を巻き込んでしまう危険性だってある。

 だが、どうだろう?

 もっと範囲を狭めて、威力を抑えつつ狙いを定めれば可能かもしれない。

 難しかったとしても、挑戦するだけの価値はある。

 ならば、やるだけだ。


「そうだ。やるんだ……」


 決意が十分だとしても、実力がそれに追いついているかどうかは別問題だ。魔法の訓練をしてきたわけではない彼女の力では、標的から遠く離れていては正確に狙えない。

 だから危険を承知で踏み出した。

 先ほどから目の前の敵に集中していたカッシュが気配を感じて振り返る。


「なっ、どうした! 下がっていないと危ないんじゃないか!」


 敵との戦闘中に長々と会話をしている猶予はない。

 ユリカは決意だけを伝えた。


「私、魔法を使います! 上手くやれば繭を吹き飛ばせます!」


「……ならやってくれ! 俺たちが援護する!」


「お願いします!」


 慣れていれば即座に魔法を撃てるが、魔法使いとしては目覚めたばかりの彼女はそうではない。

 狙う相手が魔物であれ、何かを傷つけるために発動させる魔法は無意識に心が制動をかけることもある。

 余計な情報や思考を遮断するために固く目を閉じ、焦りや緊張を追い払うため呼吸を整える。

 覚悟と、準備と、それらを裏付けるための集中を要する。

 攻撃する対象は前後左右へと不規則に動いている魔物だ。閉ざされた部屋で彼女の体を縛っていた動かぬ糸ではない。

 当然ながら魔力にも限りがあるので、そう何度も繰り返して使えない。たとえ二度以上使えたとしても、チャンスは一度きりだと考えたほうがいい。

 彼女は真っ直ぐに標的を見据えて、心を荒立てず、しかし決意と勇気をみなぎらせて叫んだ。


旋風ワールウインド!」


 つむじ風が音を立てて巻き上がり、狙い通りに足元から巨大カマキリの体を包む。

 精霊としての力を有する彼女の魔法だ。

 上下左右から幾本もの剣で斬りかかるようにして、目には見えない鋭い風の刃が魔物を襲う。

 全身を包んでいた繭の白い糸を切り刻み、次々と吹き飛ばす。

 だが、まだ足りない。

 まだまだ分厚い魔物の鎧を突破するには至らない。

 そう判断したユリカは片目をつぶって周囲に響くように宣言した。


「威力を強めます! どうか皆さん、安全な場所まで少し離れてください!」


「わかった! いったん攻撃の手を止めて離れるから遠慮なくやってくれ!」


「はい! もしも魔法に巻き込んだらすみません!」


「馬鹿! だが全力でやれ!」


 向かい風に身をかがめ、魔物のもとから逃げるように三人が下がったのを見て、ふーっと深呼吸をした彼女は叫ぶ。


強旋風トルネード!」


 掛け声に呼応して魔法の旋風が勢いを増すと強力な竜巻となり、ごうごうと振動を伴った轟音を立てて魔物を飲み込んだ。

 魔物の周囲だけではなく、全員が居合わせている大浴場全体の空気の流れが変わるほどの暴風。

 すさまじい風の音にかき消され、何かを叫んでいたとしても誰の声も聞こえない。

 目を開けているのもつらく、渦を巻いて走る風が壁となって、魔物の姿もよくは見えない。

 だから油断も隙もなく、力の続く限り、最大出力の魔法を浴びせ続ける。


「……はっ! ……はぁっ!」


 やがて嵐が晴れるように風が止まった瞬間、現時点における限界を出し切ったユリカは息を吐き出しながら膝をついた。

 魔力も体力も精神力も尽きそうだ。

 もはや一歩も動けぬせいで後ろに下がることもできないが、それは魔物も同じだった。


「よくやった! 邪魔だった繭がなければ私の炎が届くはずだ!」


 希望的観測ではなく、現実感のある勝機を見出したウルシュカが顔を輝かせ、身を伏せていた魔物の背後から巨大カマキリの上に飛び乗る。

 むき出しの背中に剣を突き刺して体を安定させ、がら空きの首筋を狙って右手を突き当てる。

 そして叫んだ。


火炎爆発フレイムファイア!」


 爆発するように広がった炎が巨大カマキリの全身を包んで激しく燃え上がる。

 もはや防御する術はない。

 手足をばたつかせたところで逃げられるものでもなく、なされるがまま魔物は苦しんだ。

 焼け焦げた匂いが充満する。普通の魔物なら、もう生きてはいられない。


「くそったれ、しぶとい奴だな!」


 だが巨大カマキリは生きていた。

 とどめを刺すために火力を上げていたせいで意識が飛びそうになるものの、まだウルシュカの魔力は残っている。

 こうなったら根比べだ。

 熱くなってきた右手をひっこめ、恨みつらみを込めた左手を同じ場所に殴りつける。


火炎爆発フレイムファイア!」


 再びの爆発が彼女の左手の先で発生した。

 内側から膨れ上がるようにして、根元からちぎれた二つの大鎌が遠くへ吹き飛ぶ。

 しかしそれでも魔物の息の根を止めるには至らなかった。

 二連続の魔法で魔力の大部分を使い果たしたのか、ふらつくウルシュカ。


「私にはもう無理だ! 少年っ!」


「任せてください!」


 もはや足元がおぼつかず、ふらりと落ちるように飛び退いたウルシュカと入れ替わるように、全身が黒焦げとなって床に伏せた状態でいる魔物の背中へ飛び乗った少年。

 手にしたユングシールを天井へ向かって天高く掲げ、空で発生した雷が大地に突き刺さる速度を思い描きながら、勢いよく振り下ろす。


「……眠れ! 冥封めいふう!」


 バチバチと紫電を放った剣先は魔物の体を突き抜け、タイル張りの床まで到達し、そこを起点にして穴が開くように円形の沼が広がった。

 あがき、もがき、苦しみながら魔物が沼に沈んでいく。

 さすがに抵抗する力は微塵も残っていない。

 やがて巨大な全身が完全に冥界へと落ち、沼は枯れ上がるように扉は閉ざされた。

 後には静寂だけが残る。


「は、はは……、終わってくれたか……」


 転げ落ちた先で尻餅をついていたウルシュカはぐったりと仰向けに倒れ、高い天井を眺めて力なく笑う。

 魔法を使った直後からずっと床に手をついて座り込んでいたユリカは顔を下げると前傾姿勢になって、肩を上下に揺らして荒い呼吸を繰り返す。

 魔物の消滅とともに精霊樹の槍は小さな二つの種子に戻り、やっと重い荷が下りたカッシュは額の汗をぬぐって片膝をつく。

 最後に少年が青く輝く剣を鞘にしまって、全員の気持ちを代弁するみたいに大きくため息を漏らした。

 圧勝というには程遠く、四者ともに疲労困憊のありさまだが、これにて迷宮の攻略は果たされたのである。

 彼らが再び動き出すには、しばらくの休息を要した。

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