第6話 フォズリとウルシュカ

 閉ざされた部屋を出た少年と少女はしっかりと手をつないで、洞窟のように狭くて薄暗い迷宮の廊下をゆっくりと走った。急いでいるのに全速力でないのは、迷宮生活による運動不足で体力には自信がないユリカを危惧してのことだ。

 角を曲がるごとに幾筋もの分かれ道が二人を惑わすように現れては消えていくものの、少女を引っ張るように走る少年は進むべき道を一切迷わなかった。

 ずっと先まで伸びる繭の糸が道を示してくれているからだ。

 外を出ることを選んだ彼女の決意を受け入れた土地精霊が迷宮の出口を教えてくれているのである。


「目的を果たしたから急いで帰りたいところだけど、このまま外へ出る前に何とかしてカッシュさんたちと合流しないといけないな……」


「カッシュさんというのは、あなたの仲間の方ですか?」


「はい。仲間です。実は今日この街で知り合ったばかりなんですが、報酬もないのに迷宮の攻略に協力してくれているんです。もう一人、つい先ほど迷宮の中で出会ったフォズリさんという騎士の少女も一緒にいるはずなんですが……」


「そうだったのですか。あなたに協力していたということなら、私はその方たちにも感謝しなければなりませんね。どうか二人が無事だといいのですが……」


 迷宮を生み出したのは彼女ではないが、迷宮を生み出した土地精霊は彼女を守ろうとした意図が少なからずあるだろう。それを理解しているからこそ、守られるように閉じ込められていた彼女は責任を感じていた。

 もっと早くに自分が勇気を出していれば、誰かの手を借りずとも迷宮を何とかできていたかもしれない。

 無関係な人間を迷宮で苦しませずに済んだかもしれない。

 のしかかってくるような後悔と罪悪感と、それ以上に無力感がある。

 外へ向かって走る今の自分に何ができるのか。

 外の世界に出られたところで、本当に何かできることがあるのか。

 自信を失い不安に思って顔を下げた彼女。その足元に小さな光が見えた。

 それは少年が屋敷に放っていた精霊だ。はぐれているカッシュとフォズリの二人を見つけてきてくれたらしい。


「ありがとう。よし、二人の場所まで案内してくれ!」


 少年の言葉に反応して、集まり始めていた精霊たちが一斉に動き出した。

 ここから少し離れた場所にいるというカッシュたちのもとへ案内するように飛ぶ小さな精霊たちを追いかけながら、不思議に思ったユリカは少年に尋ねる。


「今の精霊たちと会話ができるんですか? 人間の言語を扱えない精霊だったように見えるのですが……」


「はい。会話というか、心が通じ合うんです。名前という加護がないせいか、僕は普通の人が会話できないような低級の精霊とも会話ができるんです。そのおかげで昔から友達はたくさんいて……あ、友達といっても人間じゃなくて、村では精霊の友達ばかりだったんですけどね」


「精霊の友達……」


 彼女は自分のことを考えた。

 人間である父と結婚した妖精を母に持つ、半精霊の自分のことを。

 精霊の友達がたくさんいたという彼は覚えていないかもしれないけれど、おそらくたぶん、その友達の中に当時の自分が含まれていたのではないか。実体のない精霊体になれた子供のころ、彼女は彼の出身だというロンヴェル村に何度も遊びに行っていた。

 そして村では同じくらいの年頃の名もない少年と友達になった記憶がある。

 もしかしたら彼は彼女にとって初めての、そして大切な友達なのかもしれない。

 もしそうだとしたら……そうだとしたら、どうだというのだろう?

 自分が何を期待しているのか、相手が同じように何かを期待してくれているのか、それが彼女にはわからなかった。

 いっそ自分から問いかけるべきかどうか迷っていると、同じく何かを言いにくそうにしている少年の方から問いかけられた。


「あの、もしかしたら失礼なことを聞いているのかもしれませんが、ユリカさんは昔、ロンヴェル村に遊びに来て僕と会ったことがあるんじゃないですか……?」


「えっ、いや、ありません」


 一瞬、頭が真っ白になったユリカは思わず否定した。

 考える間もなく、とっさに話を打ち切ってしまった。

 言ってしまった後で心が痛む。

 嘘をついているとばれたくなくて顔をそむけた。


「……そうでしたか、すみません。どうやら僕の思い違いだったようです。なんだか懐かしい気がして」


「いえ、どうかお気になさらず」


 だが彼女の方は気にせずにはいられなかった。やっぱりそうだったんだと思うにつれて、どんどん胸が熱くなる。彼女にとって唯一といっていい友達に再会できたかもしれないのだ。

 ただ、その喜びがかえって恥ずかしさを助長する。

 言えない。

 会えて嬉しいと、正直な気持ちを伝えることもできそうにない。


 ――もう駄目だ。私には人と上手く付き合っていける自信がない。


 そう、自信がない。

 長らく一人で孤独に生きてきた彼女は昔の友達との再会を喜ぶことさえ素直にできないのだ。こんなことでは、これから先の人生において、外の世界で新しく出会うであろう人たちと上手く渡り合っていけるはずがない。

 悔しさと情けなさに唇をかみしめた彼女は早くも心が折れそうになった。

 嫌われるかもしれない。見捨てられるかもしれない。

 そういった不安が追いかけてくる。


「大丈夫ですか?」


 足取りの重さが相手に伝わってしまったのか、心配して足を止めた少年が振り返って尋ねてくる。

 自分だけが先へ行くわけにもいかないので、もちろん彼女も足を止めた。

 思考まで止まりそうになって、けれど彼女は顔を下げることなく少年の顔を見た。


「……大丈夫です!」


 不思議と、手を握っている彼から勇気をもらえている気がした。

 今までは弱かったかもしれない。

 それでも、これからの生き方で、いくらでも自分は強くなれる気がした。

 だから、今は歩みを進めよう。彼女はそう思った。





 長い階段を上っては下り、曲がりくねった細い通路を進み、広い部屋と狭い部屋を交互に抜けて、やっと二人はお目当ての人物の姿を見つけた。

 もう大丈夫だろうとユリカから手を離した少年は彼の元へ駆け寄っていく。


「カッシュさん!」


「おお、少年か! こちらから探しに行こうにも、どこにいるのかわからなくて困っていたところだ!」


 背後から呼びかけられたカッシュも少年の姿を見つけて笑顔を浮かべる。


「よくぞご無事で……。ですけど、どうしてフォズリさんを背負っているんです?」


「いや、これにはちょっとした事情があってな。背負わなくちゃならんほどに彼女が怪我をしているってわけでもないんだが、こうやって楽をしてもらって、さっき助けられた借りを返していたんだ」


「なるほど、例の精霊契約ですね。僕は迷宮の奥に閉ざされていたユリカさん……えっと、つまりファナン家のお嬢さんを連れてきました」


「うむ、でかした! よし、だったらあとは、そのユリカというファナン家のお嬢さんを連れて外に出るだけだな。ほら、フォズリ、そろそろ降りろ。もう十分に借りは返せただろう」


 一人で納得したカッシュは返事も聞かずにフォズリを降ろす。

 背負われていたフォズリにも不満はないのか、おとなしく指示に従っている。


「あ、あの……」


 遠慮がちに追い付いてきて後ろに控えていたユリカが、好奇心と臆病さをないまぜにしたまま少年の背後から覗き込む。

 まずはカッシュと、それからフォズリと目が合う。

 礼儀知らずと思われたくなくて挨拶をしようとしたその瞬間、表情を変えないままフォズリが動いた。

 ただし、それは挨拶でも握手でもなかった。

 弓を構え、矢をつがえ、弦を引き絞り、そして放つ。

 無駄のないスムーズな動き。獲物の息の根を止める狩人のような攻撃だ。

 状況が呑み込めないまま驚いて目を見開いたユリカの顔を狙って、ぶれることなく真っ直ぐに矢が飛ぶ。

 再会したばかりで気が緩んでいた少年とカッシュを挟んで向き合う少女たち二人。距離としては大股で歩いて数歩分しか離れておらず、初動を見て避けるのは難しい。

 間違いなく当たる。

 そして死ぬ。

 しかし矢がユリカの頭を貫くことはなかった。

 彼女に当たる直前、不可視の力によって矢は誰もいない方向へと弾き飛ばされたのだ。誰かが魔法を使ったのではなく、少年の精霊契約の一つが自動的に発動したのである。

 それは「自分の手が届く範囲に入った飛び道具は、視界に収めている限り精霊の力で弾き飛ばす」という防御に優れたものである。何も事情を知らなければ、飛んできた矢を少年が目にもとまらぬ速さの剣で打ち払ったように見えただろう。

 焦ったのはカッシュだ。


「おい、フォズリ! 何をやってる! 殺す気か!」


 これには答えず、やはり無表情のフォズリは無言で二本目の矢をつがえる。

 魔物との戦闘を終えた後、ホールで拾い集めていた矢だ。

 ためらいもなく弦が引き絞られ、先ほどと同じようにユリカへと狙いをつける。とっさに少年が前に出ると、邪魔だと言わんばかりにそのまま少年を狙う。

 彼女がそうする理由は全くわからないが、放っておけば再び射るに違いない。

 そうはさせるかと血相を変えたカッシュは慌ててフォズリに飛び掛かり、地面に押し倒して覆いかぶさるように組み伏せる。

 力尽くで弓を奪い取ってから手の届かない遠くに投げ捨て、自由にさせまいと両手をつかんで抑える。


「抵抗をやめろ! フォズリ、いったいどうしたって言うんだ! おとなしくならんというなら俺だって強硬手段に打って出るしかなくなるぞ!」


 しばらく上と下で組み合って格闘していたが、唐突に抵抗する力を失ったフォズリが苦しそうに唸った。

 そして今度は彼女が焦ったように目を見開く。


「待て! 落ち着け、へっぽこ騎士! フォズリは私が眠らせた!」


「フォズリの契約精霊か! しかし矢を放ったのがお前じゃないとわかるまで安心などできるものか! フォズリよりもお前の方が危険だ! 魔物との戦闘では世話になったがな、だからといって――」


「うるせぇ!」


 聞く耳を持たなかったフォズリの契約精霊は自分の体を抑え込んでいるカッシュを足で蹴飛ばした。

 あっけなく上と下が逆転して、今度はカッシュが組み伏せられる。

 疲れたような表情ながら、どこか勝ち誇ったように少女が微笑む。


「どうだ、へっぽこ騎士。これで矢を放ったのが私じゃないとわかったか?」


「う、うむ……。悔しいが認めよう。矢を放ったのがお前なら、あれほど簡単に俺に組み伏せられることもなかったはずだ」


 ふーふーと二人ともが息を荒くしているものの、ひとまず両者とも争いをやめて、おとなしくなってくれたようだ。

 ユリカをかばって前に出ていた少年は困惑したまま二人を見つめている。


「な、なにがなんだか……。カッシュさん、よろしければ僕たちにもわかりやすく説明していただけますか?」


「俺に可能だと思うか?」


 ぐったりと仰向けになり、情けなく床に組み伏せられたままのカッシュが顔だけを動かして少年を半目で見つめる。

 その状態で説明を求めるのは、あまりにも酷かもしれない。


「いや、えっと、じゃあ……フォズリ、さん?」


 彼女はフォズリであってフォズリではない。

 その正体が敵か味方かもわからず、何があってもいいように身構えたまま少年は問いかけた。

 すると少女はやや緊張したような顔で答える。


「私のことならウルシュカだ。フォズリの魂にくっついて生まれてきた彼女の契約精霊でな、今はフォズリの体を借りてお前たちとしゃべっている。名で縛る魔法を使うナァドルドの野郎が支配しているロンドウィルで自分の名前を教えるのは危険だってわかっちゃいるけど、お前らには教えておく。なんでかわかるか?」


「僕の誤解や思い上がりでなければ、友達になるため、ですよね?」


「そうだ。より正確に言えば仲間として信頼してもらうためだな。もっとも、実際のところはウルシュカとは別に私の真名がちゃんとあって、それは体を共有しているフォズリしか知らないんだが……」


 本物の真名ではないにしても、自分の存在と名前を教えた意図を理解してもらえて嬉しいのか、満足そうなウルシュカは子供みたいな笑顔を見せる。

 嘘をついているようには見えず、その無邪気な表情を目にした少年も安心して警戒を解いた。

 だが、納得していないらしい不服の声は彼女のすぐ下からあがった。


「おい、フォズリの契約精霊のウルシュカとか言ったか。仲間として信頼してくれているなら、そろそろ俺の上からどいてくれないか? 迷宮の床は痛くて冷たい」


「おっと、こいつのことを忘れていた。しょうがないな。お前のことを信用していないわけじゃないけど、さっき組み伏せられたときにフォズリは結構痛がってたんだぞ。だから、今、ここで、今後はフォズリの体に傷をつけないと声に出して約束するならどいてやろう」


 そこまで言って、少しだけ指に力が入る。

 あのままではユリカが危険だった状況を正しく理解しているからこそ、フォズリを止めようとしたカッシュのことを怒っているわけではないにせよ、ウルシュカの目は本気だ。


「もしもフォズリが止まらなかったら強硬手段に出るつもりだったんだろ?」


 さすがに殺しはしなかったにしても、と続けるウルシュカ。

 それを聞いたカッシュは素直にうなずく。

 ともかくウルシュカを安心させなければ解放されないらしい。


「わかった。約束する。今度からは彼女が弓を取り出して錯乱したとしても、いきなり飛び掛からずに優しく丁寧に体を抑えることにしよう。たとえそれで仲間に向かって矢が飛んで行ったとしても、大声で怒鳴りつけたりせず、できる限り穏便に正気を取り戻させるように努める。なかなかうまくいかずに彼女の凶行のせいで誰かが負傷したとしても、そんなことよりフォズリの体が傷つかないことが一番大事だから――」


「……わかったわかった。そこまで言わなくてもいい。へっぽこ騎士だとしても、お前が悪い奴じゃないのはなんとなく察した。融通が利かない、ひねくれ野郎だってこともな。……とにかく立てよ、ほら」


 そう言ってウルシュカはカッシュの上からどいたうえで手を差し伸べた。

 今まで冷たく当たったことへの謝罪を込めて、彼女なりの信頼の表し方だろう。

 しかし、その手をカッシュはつかまない。

 自分一人の力で立ち上がった後で、気まずそうにコホンと咳払いをする。


「ありがとう、ウルシュカ。だけどそういった助けはいらない」


「……あん?」


 立ち上がるのを手伝ってあげようと差し伸べていた手をグッと握りしめ、不機嫌そうな顔でこぶしを持ち上げて目を細めたウルシュカはカッシュをにらみつける。

 優しさや信頼を一方的に拒絶された気分がして、彼女の声色は険しくなっている。

 返答によっては今にも殴りかかりそうだ。


「待て待て、つまらない意地を張っているわけじゃないんだ。これには事情がある。迷宮を出るまでの一時的な付き合いかもしれないが、これからのためにも俺の精霊契約を覚えておいてくれ。誰かに借りを作ると、それを返すまで俺の力が弱体化してしまうんだ」


「ふうん……? つまり今のは私に借りを作りたくなかったってわけか。立ち上がるために手をつかむだけでも?」


 ひとまずは怒りが収まってきたらしいウルシュカはこぶしを下げた。

 それどころか今度は逆にカッシュを心配して同情するくらいだ。


「それが本当だとすると、やけに面倒な精霊契約を結んだもんだな。『借り』って言葉の定義にもよるけど、そんなんじゃ人と協力するのも難しくなるだろ。……で、その精霊は今もそばにいるのか?」


「いや、俺は子供のころに精霊契約を結んで加護だけを受けた。今あの精霊がどこにいるのかは知らんな」


「そうなのか。お前が契約した精霊みたいに加護を与えて姿を消す精霊って多いらしいが、一つの身体を共有して生きてきた私とフォズリからすると不思議に聞こえるな。誰かと契約を結んだら、ずっとそばにいたいと思いそうなもんだが……」


「人間がみんな違うように、精霊もまたみんな違うんだろう。そんなのが出会って契約を結ぶんだから、色々あって当然さ」


 カッシュが言うように、一種の畏怖も込めて「尊きものたち」と呼ばれることもある精霊には、発見されているだけでもたくさんの種類がある。

 ある一定の地域において支配的な存在である土地精霊、人型をした精霊である妖精、そしてユリカのような半精霊、などなど。

 当然、そんな精霊が人間に与える加護も多種多様であり、祝福もあれば呪いもある。

 その中でも、人間と一緒に生まれて一つの身体を共有しているというウルシュカは珍しい存在だろう。

 気に入った人間と契約を結び加護を与えた精霊というよりも、フォズリとウルシュカは双子の姉妹と言ったほうが本人たちの感覚的には近い。


「とにかく、まずは私から釈明しておきたい。どうかフォズリを責めないでやってくれ。矢を放ったことは事実にしても、さっきの行動は彼女の本意じゃない。私の感覚が正しければ、フォズリは領王の命令に操られていたようなんだ」


 これに少年は頷く。


「そうだと思います。二度目に矢をつがえた時はユリカさんの前に立った僕を狙っていたんですが、弓を構えるフォズリさんからは殺意が感じられませんでした」


「だろ? フォズリが起きているときは眠っていることが多いせいで私には彼女がいつ領王の命令を受け取ったかわからないが、あいつは離れた場所にいる相手だろうと名前さえ知っていれば魔法で操れるというじゃないか。全く、理不尽で許しがたい迷惑な野郎だ」


 けっ、と唾を吐き捨てるように悪態をつくウルシュカ。そのしぐさからも領王に対する激しい憤りが見て取れる。

 もし、フォズリだけでなくウルシュカまで操られていたら……。

 不安がる少年は心配して声をかけた。


「フォズリさんが領王の命令を受けて操られているのはわかりました。けど、ウルシュカさんは大丈夫なのですか?」


「私は大丈夫だ。フォズリと身体を共有しているおかげなのか、どうやら領王は私の名前を見抜くことはできないらしいからな。存在に気付いているのかどうかも怪しい」


「なるほど。なら安心ですね」


 納得を深め合うウルシュカと少年だが、そこに割って入ったのはカッシュだ。

 フォズリとカッシュは同じ騎士として、なかなか簡単には納得がいかないようである。


「待て、領王の命令だと? いったいどんな命令を受ければフォズリが彼女を殺そうとするんだ」


「お前は馬鹿か? そりゃ『彼女を殺せ』っていう命令に決まってるだろ」


「彼女……というと、ここにいるユリカ・ファナンを、か?」


「他に誰がいる?」


「つまり、この迷宮に入った討伐隊の目的は迷宮の攻略ではなく、迷宮に閉じ込められていた彼女の討伐だったと?」


「そうだ。さっきから私はそう言ってる。理解力が足りないなら何度も読み返せるように丁寧な字で紙に書いてやろうか?」


「言葉がわからないわけじゃない。理屈がわからないんだ。どうして彼女が狙われるんだ。暴走した土地精霊や魔物を殺すなら話はわかる。けど彼女は迷宮を作った土地精霊と違って、運悪く閉じ込められていたに過ぎない被害者の少女だろ? わざわざ討伐隊を組んでまで領王が彼女を殺す理由がどこにある」


「本気で言ってるのか?」


「いや……」


 頭が冷静になってきたカッシュはユリカを見た。

 理由なら、ある。


「このロンドウィル領で領王の強制力に屈しない人間は俺が知っている限り、たった三人しかいない。一人はそこに突っ立っている名前を持たないとかいう少年で、一人はフォズリと体を共有しているという精霊のウルシュカ、そして残るもう一人は……」


「……私ですね」


 答えたのはユリカだ。


「ロンドウィルに張り巡らされた魔法の糸に触れると真名を見抜かれてしまうそうですが、ファイゼルの加護する迷宮に閉ざされていた私は今もまだ名前を知られていない。だから領王に操られることもないんです」


 これにウルシュカが言葉を続ける。


「ナァドルドとの戦いに負けて力が弱まったとはいえ、仮にも彼女は土地精霊の加護を受けているファナン家の娘だ。しかも名で縛る術式が通用しないとなれば、警戒した領王が彼女を葬り去ろうと考えるのも無理はない。ロンドウィル領の全域に張り巡らされている糸に触れると真名を見抜かれてしまうが、どうやら彼女は不可視の繭で魂を包まれて守られているようだ」


 なら、このまま迷宮の外に出ても彼女は大丈夫かもしれない。

 領王の命令に屈しないということは、ロンドウィル領を抜け出して本物の自由を手に入れることも可能だ。


「ちなみに今後のためにも確認しておきたいんだが、君の真名はユリカじゃないのか?」


 それはカッシュの問いかけだ。

 人当たりのいい少年よりも声が鋭く、体格も大人びた年上の青年が相手なので、少しだけ緊張した彼女は固くなって答える。


「違います。ユリカも私の名前ですが、それとは別に正式な名前があるんです。一応は誰にも教えず秘密にしているので、私の他には名付けてくれた母しか知りません」


「その母というのは……」


「すでに亡くなっています。なので、私が自分の口でしゃべらない限りは真名を知られることはないと思います」


「……そうか」


 迷宮に閉じ込められていたことといい、領王に敗れたファナン家の一族である彼女には辛い経験がたくさんあるのだろう。

 あまり深く彼女の事情には踏み込まないようにしておいて、今度はウルシュカへと問いかける。


「一つ疑問があるんだが、屋敷が複雑怪奇な迷宮になったのは土地精霊の暴走が原因なら、どうして今もなお迷宮が残ったままなんだ? こうして糸が俺たちを導いてくれているってことは、ファナン家のお嬢さんであるユリカを加護する土地精霊の暴走が収まったってことだろ? 迷宮もおとなしくならないとおかしいじゃないか」


「まず間違いなく迷宮を生み出したのは土地精霊だろう。だが、魔力が渦巻く迷宮は土地精霊の管理下を離れ、今では魔物の巣となっている。それを支配する新しい主がいるのさ」


「迷宮の主、ねえ……。そいつは一体どんな魔物なんだ? ウルシュカ、お前は見たことがあるんだろう?」


「見たというか、フォズリが参加させられていた討伐隊の連中と一緒に戦った。騎士の連中は次々とやられて、最後には私だけが残った。一人ではかなわないと判断したから逃げた。そう、あいつは……わかりやすく一言で言うなら、巨大カマキリだ」


「巨大カマキリ?」


 想像していなかった意外な言葉が出てきてカッシュは困惑した。

 討伐隊が苦戦した魔物というからもっと凶暴な姿かと思えば、カマキリとは。子供のころ、庭で見つけたカマキリと遊んだ記憶がよみがえる。

 小さな枝切れを使って遊んだカマキリとのチャンバラごっこ。人間が相手では勝ち目もないのに両腕を振り上げて威嚇してくる虫の姿に、蛮勇を振るって逃げもしない無謀さをあざ笑う気持ちだけでなく、子供なりに畏敬の念を抱いた。

 勝手に感情移入してしまっただけかもしれないが、小さな虫にも闘争心は備わっているのだ。

 それが、もし、人間を凌駕するほどの大きさになって襲い掛かってくるとしたら、枝切れはもちろん、鍛え抜かれた剣で立ち向かったとしても苦戦は免れないかもしれない。


「ちょっと大きくなったくらいで昆虫を怖がっていると思われちゃ心外だから、これだけは言っておく。……お前たち、油断して首を狩られるなよ?」


 それが冗談や軽口の類ではなことは、気難しい顔をするウルシュカの表情を見れば一目でわかった。

 おそらく敵は強い。ただの虫ではないのだ。自分たちの生活圏を守るべく人間が魔物を何度も殺してきたように、魔物だって何度も人間を殺そうと襲ってくる。

 そこに容赦や馴れ合いは存在しない。

 相手を侮って気を抜けば即座に殺される。

 過酷な戦闘を予感して、四人の間には言い知れぬ緊張が走るのだった。

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