第5話 ユリカ・ファナン

 複雑に入り組んだ迷宮の最奥には、出入りすることが難しいほどに固く閉ざされた部屋が一つある。厳重な鍵がかけられている扉の他には窓が一枚もなく、息苦しさを感じるくらいに薄暗くて小さな部屋だ。

 そこには一人の少女が捕らわれていた。

 線の柔らかい華奢な体で、顔つきは幼く、体格も小柄な少女。不健康さを張り付けたような病弱さは感じられないが、目を閉じた彼女は力を失ったようにベッドに横たわっていた。肩まで伸びる長い髪を持つ彼女こそ、この迷宮に取り残されているファナン家の娘であるユリカ・ファナンだ。

 昔から屋敷に住み着いている世話焼きな精霊がたまに訪れるくらいで、基本的には一人きりで暮らしている彼女。時間の流れもあいまいになる閉ざされた部屋で、この数日ほど断続的に続いていた長いまどろみから彼女は目を覚ました。

 魔素に反応して光をともす小さなカンテラが薄明かりを発しているのみで、夢から覚めて目を開いても、見えるのは窓のない部屋の内側だけ。外へ出ようにも扉は当然のように閉まっていて、もちろん日の光が入ってくるわけもない。


「ん、んん……」


 どうせ誰もいないので意味のある言葉を口にしようと思っているわけではないけれど、うまく声が出てくれない。寝ぼけているせいもあるが、何よりも長時間の眠りが身体を固くしたのだろう。

 凝り固まった肩をゆっくり揉みほどくように、あくびをかみ殺して息を吐きだす。

 年端のいかない子供に与える寝室にふさわしい、そう広くはない部屋。その中心に据えられている大きなベッドから起き上がろうとして、彼女は自分の全身が白い糸で雁字搦めにされ身動きが取れなくなっていることを思い出した。


「ああ、そうだった。私はこのまゆに捕まって……」


 どうにもならない現実を直視して愕然とした彼女は力なくベッドに倒れこむ。


「今は眠るしかない。眠るしか――」


 と言っても、彼女を心地よく夢の世界へといざなってくれる眠気はちっともない。

 沈み込むように仰向けのまま四肢を投げ出して、かろうじて自由が与えられている首から上だけを動かして、視線を天井から壁へと傾ける。

 どこか遠くを見ようとしても無駄だ。もともとそこにあったはずの壁も目には見えないほどに、彼女のいる部屋は分厚い繭に覆われているのだから。


「ファイゼル……。きっとあなたは私を守ろうとしてくれているのだろうけれど」


 彼女が名を連ねるファナン家を代々守護してきた土地精霊はファイゼルヤママユといい、世界屈指の腕のいい職人が一年がかりで編んだタペストリーのように美しい羽をもった蛾の精霊である。そのファイゼルと個人としてではなく一族として精霊契約を結んだファナン家は強力な加護を受け、風を操る精霊術を得意としてきた。

 上位の精霊である土地精霊に与えられた力のおかげもあり、国や地方を支配する王を名乗れるほどではなかったが、何百年も昔からロンドウィルの王のもとで地方領主としてファスタンを治めてきたのがファナン家である。

 血縁を大事にして一族としての結束も強かった彼らは身内同士で権力をめぐって争うこともなく、私欲にまみれず仕事をこなしてきたことで人々の信頼も厚かった。幸いにも天変地異や諸外国との戦乱に巻き込まれることもなかったため、世界の中心と呼ばれた大陸に比べれば質素ではあったものの、辺境として知られるロンドウィル領の中でもファスタンは長期的に安寧なる時代が続いた。

 ところが、今から二十年ほど前にファナン家は地獄を見た。

 急速に野心を募らせた領王ナァドルドとその契約精霊ロンドウィル・フェアリーイーターに戦いを挑まれ敗れた結果、彼らを守護するファイゼルヤママユは力の大部分を失い、成虫から繭の状態に戻ってしまったのだ。しかも、それと同時に屋敷は複雑怪奇な迷宮と化し、今では危険な魔物まで住み着いてしまった。

 不思議な力に守られた屋敷は取り壊されることもなく、精霊の加護を受けた騎士さえも攻略できず、中に入れば二度と出られぬと噂される迷宮となった。

 彼女、ユリカ・ファナンはそんな迷宮で生まれたファナン家の娘である。


「昔の私ならこんな状態でも外に出られたのに、今ではもう何もできない。それとも、あれは外に出たがった私が見ていた夢だったのかも」


 子供のころの彼女には力があった。

 人間としての力ではなく、精霊としての力を持っていた。

 眠って夢を見ている間だけではあったものの、鍵のかかった部屋に閉じ込められている肉体を離れ、実体のない精神だけの状態になって、自由に迷宮の外へと出かけることができたのだ。

 なぜなら彼女は普通の人間ではなく、人間の姿をした精霊――すなわち妖精――を母に持つ半精霊の少女であり、眠っている間だけは精霊体となって自由に活動できたからだ。

 しかし、心身が成長するに従って精霊の部分よりも人間の部分が強くなってきているのか、その能力にも限界が見えた。十六歳を迎えてロンドウィルにおける成人年齢となると、どんなに彼女が願っても精霊体になることはできなくなっていた。

 今の彼女に許されているのは諦観を枕に無力感を布団として抱きしめて、いつまでも孤独に眠り続けることくらいだ。


「もう外には出られないのかな……。楽しいことばかりではなかったけれど、手放すには惜しい幸せがたくさんあった外の世界に、もう二度と?」


 ぼんやりと思い出す限り、外の世界には彼女にとって楽しいことがたくさんあったような気がした。

 すべてを鮮明に覚えているわけではないけれど、この部屋にいつまでも閉じ込められ続けているよりは、ずっと楽しいことが。


「同じ年くらいの大切な友達もできた。あれは……えっと……」


 そう、友達だ。普通の人間の目には見えない精霊状態となった自分の姿を見つけてくれて、言葉を交わすことのできた大切な友達。

 精霊しか入れない精霊界を通って、ファイゼルの風の力を借りながら迷い込むようにたどり着いた村で、よそ者にも優しくしてくれた一人の少年。

 その友達のことを思い出そうとして、うまくいかずにユリカは顔をしかめた。


「ダメ。どうしても思い出せない。精霊体だったころの記憶がもやに包まれたようになって、はっきりとは思い出せなくなってきてる」


 あれは、あの少年は、どこの誰だったっけ。

 どんな顔で、どんな声で、どんなことを話してくれたんだっけ。

 彼女は胸が痛くなった。あんなに楽しかったはずなのに、もう名前さえ思い出せない。面影もあやふやとなり、本当に彼が存在したのかさえ疑わしくなる。


「いや、おかしい。忘れているわけじゃない。あの子の名前は……。名前は、思い出せないんじゃなくて一度も聞かなかったんじゃなかった? 教えてくれなかったわけじゃなくて、何か事情があって……」


 何か大事なことを思い出そうとしたとき、それを阻止するように彼女を縛り付ける糸の力が強くなった。締め付けられた痛みを受けて呻かずにはいられない。余計なことを考える余裕は奪い取られ、思考はそれでいっぱいになった。

 ファイゼルヤママユだ。

 彼女を守護する土地精霊が彼女を外の世界へと出したがらない。領王との戦いに敗北して暴走した精霊は守護する彼女を危険な外の世界から守ろうとしているのかもしれないが、結果として彼女の未来を閉ざしていることに気づけていない。

 なされるがままの彼女もそれに抗うことができない。

 抵抗することを諦めて、ぐったりと力を抜いたままつぶやく。


「わかってる。わかっているつもりなの。兄さんのことを守れなかったって、あなたはすごく後悔している。だから私を同じ目に合わせないように、必死に守ってくれているんだってことも」


 彼女の兄は死んだ。すべてを正しく理解できているわけではないけれど、おそらく領王ナァドルドの命令によって殺された。

 それを彼女は知っているから、自分を守ろうとして迷宮に閉じ込めるファイゼルにも強く抵抗できずにいたのだ。


「兄さんの身に何がおきたのか、本当はもっと詳しく知りたい。そういう気持ちもあるけれど……」


 彼女が外の世界への思いを強めれば強めるほど、それに比例してミシミシと張り詰めるように全身を拘束する糸が強くなっていく。

 様々な理由で人よりも眠ることの多かった彼女は基礎的な力に乏しく、これを強引に振り切ることはできない。ベッドから手の届く範囲に道具はなく、彼女一人の力では脱出できそうもない。

 だから諦めようとした。

 すべての想いに蓋をして、眠るように心を閉ざそうとした。


「えっ?」


 その時、彼女は不自然な音が聞こえたことに気付いて目を開いた。


「今、何か、外側から扉を叩く音がしたような……」


 でも、そんなはずはない。ここは迷宮の奥地だ。

 道案内もなしに彼女が閉じ込められた部屋にたどり着いた人間など、屋敷に住む精霊と意思疎通ができた兄以外には今まで一人もいなかった。

 けれど、どういうわけか扉の外には明らかに人がいる気配がある。ガチャガチャと遠慮なくドアノブをひねる音がするのだ。おそらく幻聴ではない。


「……誰?」


 得体の知れない存在に対する怯えと、たとえ誰が来てくれたところで外には出られないだろうという諦めと、ほんのわずかな期待。それらが混ざって、かろうじて聞こえる程度に小さい声しか出せなかった。

 それでも彼女の問いかけは外にいる人間に聞こえたらしく、内部の様子をうかがうような反応が返ってくる。


「僕は……ええっと……」


 その声を聞く限り少年だ。おそらく彼女と同じくらいの年頃の少年であろう。

 問いかけに対してどう名乗るべきか迷っているのか、なかなか言葉が出てこないらしく、扉一枚を挟んで外にいる少年は口をつぐんだ。

 中にいる少女を安心させるように、優しく、けれど力強い言葉が返ってくる。


「僕は……そうですね、僕はエナルドさんの知り合いです」


 エナルド・ファナン。

 それは迷宮の一室に閉じ込められているファナン家の少女、ユリカ・ファナンの兄の名だ。


「兄さんの……」


「はい。エナルドさんは妹であるあなたのことを心配していました。生まれたころから屋敷に閉じ込められていて、外に出られずにいると。それで、ええと、だから僕が彼の代わりに来たんです。彼にあなたのことを頼まれて……」


 どこまで具体的に言ってよいものか悩んでいるらしく、扉に手をかけたまま少年がうまく説明できないでいると、それなりに事情を察した彼女は沈んだようにつぶやいた。


「ありがとうございます。迷宮に残された私のことを心配してきていただけたんですね。けれど、たぶん外に出ることはできません。残念ながらその扉は誰にも開けられないんです」


「え、扉が開けられない?」


「はい。その扉は魔法の力でカギがかけられているので、内側にいる私にも開けられません。私が生まれてから今日までずっと、十六年間、その扉が開いたことは一度もないんです。兄でさえも、扉の前まで様子を見に来てくれるのがやっとで。それでも昔は外に出る方法があったんですが、今ではもう……」


 たった一枚の扉が壁となり、部屋と外界とを隔てる障害となっているせいで顔は見えないけれど、元気がなく浮かない声を聞いただけで彼女が落ち込んでいるのが少年には伝わった。悲しみや絶望に染まっているというよりも、何もかもを達観して諦めているのかもしれない。

 生まれてから一度も扉が開いたことがないというなら、それが不幸な事実であるとしても、それこそが彼女にとっては変わりない日常の姿なのであろう。部屋の外に出られないことを当たり前のものとして受け入れてしまっているのかもしれない。

 だが、それは本当だろうか?

 疑うと同時に励ますつもりもあって、少年は明るい声を意識して話しかけた。


「あなたのお兄さんに頼まれたからやってきたんですが、実はまだ心を決めていないんです。あなたのことを助けてほしいと言われてきたけれど、助けるという言葉を使うのは早い気がするんです。……あなたの気持ちを聞いていないので」


「私の、気持ち……?」


 はい、と穏やかに頷いて少年。


「ここから出ることを『助ける』と表現してよいのか、僕やお兄さんだけの意見では決められないと思うんです。外の世界にはつらいことがたくさんあります。人と人はいつも争ってばかりいて、怖い魔物もいて、どんなに頑張っても努力が報われるとは限らず、誰にでも幸せが約束されているような時代じゃないですから」


 世界は戦乱の時代だ。

 魔物を始めとする悪しきものが跋扈ばっこして、優しさよりも力が歓迎される時代。

 理不尽な暴力によって故郷を滅ぼされ、運命を呪いたくなる不幸が己の身に降りかかったばかりの少年だが、その怒りや悲しみを感じさせずに、世間を知らぬ少女へと優しく問いかける。


「世話焼きな精霊が生活の面倒を見てくれているというこの迷宮は、ひょっとすると平和で安全な揺りかごかもしれない。弱い人間から最初に傷ついていく外の世界を知らずに生きていられるなら、その方がいいかもしれない。……それでも、あなたはその部屋から出たいですか?」


 少年は知っていた。外の世界が必ずしも幸せであるとは限らないことを。

 おとなしく部屋の中にいる限り、命を脅かす危険がないのなら……。

 いつまでも安全に平和で暮らしていられるのなら……。

 たとえ個人としての自由や権利が制限されていようとも、このまま狭い室内に閉じこもっていたほうが幸せかもしれない。

 どちらを選ぶにしても彼女には彼女の未来を自分の手で切り開く責任があり、それは彼女自身が選ばなければならない。この世に生を受けた誰もが同じく自分の未来を自らの意志で選び取っていくように。

 もちろんそれは簡単に答えられる問題ではない。

 これからの自分の運命を変えるであろう選択。

 決断を下した彼女が口を開くまでには、長い間があった。

 ベッドに横たわる己の体を縛り上げる繭の糸が強くなっていくのを感じながら、ゆっくりと彼女は答える。


「昔、精霊の姿となって外の世界に出ていたころの記憶が確かなら、部屋の外に広がる世界には素敵なことがたくさんあった気がするんです。人と人が信頼しあって手をつなぐこともできて、魔物と違って人間のために力を貸してくれる優しい精霊もいてくれて、どんなに落ち込んでも誰かが気にかけてくれて、頑張った分だけ小さな幸せを見つけられる時代かもしれません」


 確実にそうだと断言できる根拠は何一つないけれど、淡い記憶を頼りにして彼女は願っていた。

 外の世界が必ずしも不幸だとは限らない。こちらに害を加えてくる悪い人間ばかりでもなければ、危険な魔物だらけというわけでもない。内側の世界にとどまっていたとして、いつまでも平穏な日々が続く保証もない。

 そして彼女は受動的な態度で願うしかない期待を積み重ねるばかりではなく、ある一つの能動的な決意を身に宿していた。


「もしもそうじゃなかったとしたら、私の力で少しでもそうなるように努力したい。これからの自分に何ができるのかわからないけれど、ほんの少しでも世界を幸せにしてみたい。私にできる精いっぱいの力で、そのための役に立ちたい」


 外の世界と切り離された迷宮の一室に閉じ込められていた彼女だが、決して自分一人が救われればそれでいいと願っているばかりではない。同じように何らかの事情で困っている誰かを助けられたらと願ってもいた。

 全身を縛り付ける繭の糸を引きはがすように、仰向けに横たわっていたベッドの上で精一杯の力を駆使して、歯を食いしばった彼女は上半身だけを起こす。

 そして外で待っている少年に聞こえるように、喉がかれるほど大きな声で叫んだ。


「だから私は出たい。出たいんです! お願いします! どうかあなたの力を貸してください!」


 それが彼女の答えだ。

 可能性ごと閉ざされることを願ってはいない。


「……わかりました」


 精一杯に吐き出された彼女の言葉。ここから出たいと叫んだ彼女の心の声。

 それらを聞いて満足した少年は嬉しそうに答えた。

 たった一枚の板切れに過ぎない扉を前にして、運命や責任などと難しいことを考えるのはいい。あとは彼女を助けるだけ……いや、彼女の決意に力を貸すだけだ。

 何でもないことのように覚悟を決めた少年はそっとドアノブに手をかけた。


「では、失礼します」


「……えっ?」


 目の前で起こったことを見て彼女が驚いたのも無理はない。

 なぜなら、不可視の鍵で施錠されていた堅牢な扉が少年の手でいとも簡単に開いたからだ。


「どうして鍵が……? その扉は誰にも開くことができないはずなのに……」


「不思議に思うのも無理はないかもしれませんね。この扉を開けることができたのは、僕が結んでいる精霊契約のおかげなんです。内側にいる人に心から招かれると、扉にかかった鍵を解除することができるんですよ」


「精霊契約……。ということは、あなたは精霊と契約した騎士なのですか?」


「そうです。そうは見えないかもしれませんが、これでも僕は騎士なんです。ただ、あなたのお兄さんが所属していたこの街の騎士団とは関係ありません。あいにく名前がないので名乗ることもできないんですが、僕はロンヴェル村の出身で……」


「ロンヴェル村!」


 その名を聞いた彼女は驚いたように目を見開いた。


「……知っているんですか?」


 大陸の人々から辺境と呼ばれるロンドウィル領において、さらに辺境と呼ばれる東北部に位置するのがロンヴェルであり、残念ながら地元の住民以外には名前もろくに知られていない田舎の村だ。

 なのに彼女が名前を知っているとしたら、あまりよくない理由でかもしれない。

 様々なことを考慮した少年は慎重に問い返す。彼女が何をどこまで知っているのか知らないからだ。

 この狭い部屋の中に閉じ込められていたのが事実だとするなら、迷宮に残された彼女のことを頼むと少年に伝えた兄のことさえ知らないはず……。

 そう思っていると、少年の言葉を聞くより前に彼女は顔を曇らせた。


「ここを自由に出入りできる精霊たちが伝えてくれたんです。今の私は、そうして外の世界を知ることができるので。……あなたの故郷であるロンヴェル村は騎士に襲撃されて壊滅したとか。その際、領王に命じられて村に派遣された兄が死んでしまったとも聞いています」


「そうでしたか……」


「私や私の兄のことについては、あまり気に病まないでください。……おそらくですが、いえ、あの、世間知らずの私が知ったようなことは何も言えませんけれど、きっと私よりもあなたのほうがずっとつらいでしょうから」


「いえ、僕は……」


 否定しながら室内を見渡す少年。白い繭に覆われた部屋は太くて長い糸が縦横無尽に張り巡らされており、対抗策がないまま不用意に足を踏み出すのは危険だ。ミイラ取りがミイラになっては意味がない。

 これではベッドにくくりつけられている彼女を助け出すのも難しいが、まさか立ち止まっているわけにもいかない。

 とにかく歩ける道を作るため剣を抜こうとして右手を持ち上げた瞬間、吐き出されるように四方の壁から糸が飛び出してきて少年を襲った。

 視界の外側から襲ってきた糸は避ける間もなく両手両足に絡みつき、いともたやすく彼は自由を奪われる。

 はりつけにされた気分だ。


「これは……困ったな。強い精霊の力を感じます。どうやら僕一人の力で振りほどくのは難しそうだ」


 悲しいことに少年は普通の人よりも腕力に秀でているわけではない。剣を抜く前に捕まってしまったので、道具を使わず腕の力だけで糸を引きちぎるのは困難だ。

 なにしろ相手は土地精霊である。騎士である少年は精霊たちの力を借りることもできるが、反撃を受けてしまえば彼も精霊も無事では済まない。領王との戦いを控えている彼にとって、そのために力を温存しておく必要もある。

 ベッドの上で上半身を起こしているのがやっとの状態でいる少女が悲しそうに表情を曇らせる。


「気を付けてください。それ以上こちらに近づこうとすれば、どんどんあなたを縛り付ける力が強くなると思います。けれど、私から離れて後ろに下がろうとするなら、たぶんファイゼルはあなたを逃がしてくれるはず……」


 複雑怪奇な迷宮を作り、人の声が届かぬほど暴走していても、土地精霊の加護を受けている彼女にはそれがわかった。ファイゼルヤママユはあくまでも彼女を守ろうとしているのだ。彼女に危害を加えようとする者は攻撃し、彼女を外へ連れ出そうとする者は阻害する。勝手に住み着いた迷宮の魔物たちと違い、侵入者に対して無差別に襲い掛かっているわけではない。

 一方、それを聞いた少年は彼女を守る土地精霊の名がファイゼルであることを知った。特別な力を持つというロンドウィルの領王とは違って、名前を知った程度で相手の行動を自由に制御できるわけでもないが、名もない少年にとって相対する精霊の名を知ることは、その精霊と交信を持つ第一の手段だ。

 同時に、この迷宮を生み出したであろう土地精霊そのものに敵意や攻撃の意志がないことを知れた。それは少年にとって大きな意味を持つ。

 なぜなら、剣を収めて平和的な話し合いに挑戦することができるのだから。


「名前を呼ぶことを許してくれ、ファイゼル! 君に彼女を大事にする意志と理性が残っているなら、どうか彼女を解放してあげてくれ!」


 しかし反応は芳しくなかった。

 呼びかける声に応じて優しくなるどころか、ただ無慈悲に少年を縛り上げる糸の力が強くなっていく。

 迷宮を生み出すほどに暴走している土地精霊に対しては懇願も意味はなく、もはや人間に対して言葉を伝える理性も手段も残っていない。

 ならば、やはり戦うしかないのか。

 強引に相手を屈服させるしかないのか。

 いや……。

 少年は目の前にいる少女に未来を託すことにした。


「恥ずかしながら今の僕には何もできそうにないですが、あなたなら何かできるかもしれない」


「え、私ですか? 私なら何かできるかもしれないって、いったい何が……? この状況で私にできることなんて、もう何も……」


 自分は助けを待つばかりの存在だと思っていたからこそ、急に話を振られた彼女は困惑する。

 なにしろ、全身を縛られて身動きできずにいるのだ。彼女には彼が何を言っているのか理解できなかった。今の彼女にはどうすることもできず、ただ普通にベッドの上に座って、しっかりと顔を上げているだけでも限界なのだ。

 そんな彼女に何ができるというのか。


「……いいえ」


 それでも彼は確信をもって告げる。

 まっすぐに目を見つめながら。


「あなたには力がある。未来へ向かって踏み出すための力が」


「私に力が?」


「はい。うまく説明できないのですが、あなたからは精霊の力を感じるんです。契約精霊からの力ではなくて、あなた自身の力を」


「……それは」


 彼女は口ごもった。

 精霊の姿となって自由に外へ出られたのは昔のことだ。やろうと思ったって、今の彼女にはできない。

 半精霊として生まれはしたものの特別な力なんて一つもなく、結局のところただの人間と等しい。

 いや、人間の中でも弱いほうだ。

 どんなに頑張ったところで意味のあることは何もできない。

 誰かに手を引かれ、救われることを願うしか。

 自虐的な自己評価をして、うつむきかけた彼女に少年の声が届く。


「どうか顔を上げてください。もう扉は開いているんです。あとはあなたの力で外へ踏み出すだけですよ」


「けど、そう言ったって……」


「ユリカさん! ユリカ・ファナンさん!」


「は、はいっ」


 力強い声で名前を呼ばれた彼女は顔を上げて彼の目を見た。

 こちらをまっすぐに見つめる澄んだ瞳を。


「事情があって僕は人よりも精霊の声がわかるから言えるのですが、おそらく、この迷宮はあなたを閉じ込めるためだけに作られたものではないと思うんです。あなたを守り、あなたを育てるための繭だった。だから、ここから外に出るためには、ただ救われるだけではなく、あなたが自分の意志で突き破らなければならないんじゃないでしょうか」


「自分の意志で……」


「はい、そうです。出ましょう。僕と一緒に、ここから外の世界へ!」


 彼女は彼の目を、そして、彼の背後にある扉の先を見た。

 その先には、屋敷の外へつながるであろう廊下が続いている。

 そう、もうすでに扉は開かれているのだ。

 ファイゼルの糸は彼女を絞め殺すために巻き付いているのではない。自信がなく、臆病で、何をするにも後ろ向きだった彼女を守るために巻き付いているのだ。

 なら、彼女の意志が示されるのを待っている。


「私は……はい!」


 そう考えて、覚悟を決めた彼女は息をのみ、こぶしを握り締めた。

 彼女は一方的に救われることだけを願っていたのではない。

 誰かの手で強引に引きずり出してもらうことを期待していなかったといえば嘘になる。けれど、本当のところでは、誰かに手を差し出してもらえたなら、その手をつかみ、あとは自分の足で踏みだしていきたいと考えていた。

 その手が今、彼女の前にある。

 助けに来てくれた少年もファイゼルの糸につかまっているけれど、今までずっと閉ざされていた扉を開けてくれたのである。

 最初の一歩を踏み出すための道を開いてくれたのだ。

 今度は自分が彼を助ける番だろう。


「今から力を使います。慣れていないのでうまくできるかわかりませんが、どうかそのまま、私のことを信じて待っていてください」


「ええ、もちろん!」


 不安がることなく少年が笑って答えた。それが励ましとなって、少女は改めて決意を固くした。

 自分に言い聞かせるようにつぶやく。


「そうだ。私には力がある。昔と比べれば今は弱くなっているけれど、精霊としての力、魔法が使えるんだ……」


 自身の内側から、爆発するような魔力の高まりを感じる。それに伴って彼女の体を縛る糸がさらに強くなっていく。けれど、それは決して彼女の運命を妨害するためだけに用意された障害ではない。あくまでも彼女を守護する土地精霊なりの優しさなのだ。

 だから彼女は親に対するような親愛と感謝の念を胸いっぱいに感じて、だからこそ巣立ちの時を迎えたひな鳥のように羽ばたくことを決意した。


「ファイゼル、ありがとう。私、外に出てみる」


 ベッドから立ち上がって部屋の外に出るためには、まず彼女の体を縛っている繭の糸をどうにかしなければならない。

 それを理解している彼女はそのための魔法を口ずさむ。


「風を紡いで、刃の嵐となって! 人を傷つけず、私たちの障害だけを取り除いて! 疾風ストーム!」


 願いと決意を交えた彼女の詠唱に呼応して魔法が発動した。

 触れずして風を操る低級魔法、ストームだ。

 ベッドの敷布が波打つと同時に彼女の髪がふわりと舞い上がり、風の強い日に窓を開けたように、轟音を伴った突風が吹きだした。

 かといって部屋を散らかす無秩序な嵐が吹き荒れたのではない。

 家具や調度品だけでなく少女や少年の体を傷つけないように操られ、鋭い音を立てて走る疾風の刃が糸だけを断ち切っていく。


「すごい……」


 瞬く間に繭の糸が切り裂かれ、手足が完全に自由となった少年がため息を漏らすように嘆息した。

 今のは精霊の力を借りた精霊術ではない。自身の力によって発動する魔法だ。

 同じく自由の身になった少女へと感謝を告げようと思った少年だったが、その言葉を伝えるよりも前に少女が身を伏せた。

 息が荒く、苦しいのか胸を手で押さえている。

 心配した少年が慌てて少女のもとへ駆け寄る。


「大丈夫ですか?」


「すみません、慣れない魔法を使ったせいで……。あの、よろしければ手を貸していただけませんか?」


「はい。僕でよければ」


 少年の助けを借りて立ち上がる少女。

 手をつないだ瞬間、彼女は確信した。

 こちらへ優しい目を向けてくれている彼こそ、彼女がかつて外の世界で知り合った友達その人なのだと。

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