第4話 フォズリとカッシュ

 仕事熱心なのか文句も言わず常に周囲を調べてくれている精霊の導きに従って、ずんずんと少年たちは階段を上っていく。わざわざそういうルートを選んでくれているのか、最初に比べると遭遇する魔物は少なくなっている。

 このままなら意外とすぐに攻略できるかもしれない。

 しばらく戦闘の機会がなくなって、すっかり油断していた彼らを魔物以外の異変が襲った。


「あっ!」


「なんだ、この揺れは!」


 突如として屋敷全体にガガガガガッという轟音が響き渡り、その場に立っていられないほどの振動を伴って、彼らが乗っていた階段が上下に分離し始めたのだ。

 三人の中でも先頭にいた少年が乗っていた階段は上に、踊り場を挟んでカッシュとフォズリの二人が乗った階段は下に動いていく。

 このままでは迷宮内ではぐれてしまう。右も左もわからない巨大な迷宮でバラバラになるのは危険だ。

 少年は思わず身を乗り出して下に飛び降りようとするが、壁から飛び出してきた鉄の柵が動きを邪魔する。タイミングが悪ければ体に突き刺さっていた。


「待て、動いている最中に飛び降りるのは危険だ! 今は俺たちに構うな! ここは二手に別れて探索しよう!」


「わかりました! あとで合流しましょう!」


 上階と下階で三人が二手に分かれて迷宮の動きが止まった時、それぞれの前には新しい道ができていた。

 一人となった少年は再び精霊たちに迷宮の探索をお願いして、自分の足でも見つけられるよう、まずは当てもなく走り出した。二人と合流するにしてもファナン家の娘を探すにしても、同じ場所にいつまでも立ち止まっていては仕方ないのだ。

 一方、不慮の出来事で少年と別れてしまったカッシュは彼との合流も念頭に入れながら、二人きりとなってから急激に言葉数の少なくなったフォズリを連れて迷宮の奥を目指す。

 もはや彼らに精霊の案内はない。

 気の利いた案内図など手元にはないため、さっきから前に進んでいるのか後ろに戻っているのかもはっきりしない。驚くべきことに刻一刻と形を変えてしまう生きた迷宮なので、どこに進めばいいのか全く見当がつかないのだ。

 それでもカッシュは歩みを止めなかった。

 しばらくして、少し急ぎすぎただろうかと後ろのフォズリを気にして振り返る。


「数か月も屋敷の中で迷っていたのが事実だとするなら、いくら疲れてきたといっても、ここで代わりに君を先頭にするのはやめた方がよさそうだな。フォズリ、聞くのを忘れていたが魔物との戦闘に自信は?」


「すみません、自信もなければ経験もありません。なにしろ騎士団には入ったばかりで訓練もままならず、そもそも本来は事務仕事をするつもりでしたので。それがどういうわけか、私も討伐隊に参加するよう命じられてしまって……」


「なるほどな。今まで何度も挑戦しては失敗してきた討伐隊だ。君には残念だが、最初から数合わせの捨て駒だったのかもしれない」


「……自分でも否定できません。きっと私なんて戦力としては期待されていなかったでしょう」


「ううむ……」


 あまりに落ち込むのでカッシュもいつもの軽口で返せなくなる。

 相手が自分より年下の少女だから、ここは何か気の利いた言葉で励まそうと思ったが、そういうことに経験がないカッシュには難しかった。

 誰かに借りを作ると弱体化する精霊契約のこともあり、用事がない限り人と積極的に関わることを避けてきた彼は騎士団でも普段から孤立気味で、あまり先輩後輩のやり取りに慣れていない。初対面の相手なら、なおさらだ。

 かといって、いつまでも遠慮し合っていては魔物に襲われたときに連携が取れない。

 ひとまずカッシュは確認しておくことにした。


「ちなみに、君の精霊契約は?」


「すみません。私が契約した精霊からは、みだりに精霊契約を他言するなと言われているんです。なので……」


「いや、いい。精霊がそう言っているのなら答えられなくても仕方ない。彼らの機嫌を損ねると、一方的に契約を解消されてしまう可能性もあるからな。さて、これからどうしたものか……おや?」


 当てもなく廊下を進んでいくと、これ見よがしに厳重な扉があった。誰の目にも一目でそうだと分かる鍵がついていて、これは力尽くでも開かないかもしれない。

 だったらどうすればいいんだと駄目押しのつもりでカッシュが扉に手をかけてみると、指が触れた瞬間に鍵はひとりでに壊れてしまった。

 まるで中に入るように誘われているみたいだ。

 もしかしたら迷宮そのものや、ここに住んでいる魔物が仕掛けてきた罠かもしれない。

 けれど彼らに用意された道は一本道だ。慎重を期するなら中に入らず歩いてきた道を戻ることもできるが、ここまで来たカッシュに入らないという選択肢はない。

 おどおどしているフォズリが隣に来るのを待ってから扉を押し開くと、成金趣味の貴族が好きそうな赤い絨毯が敷かれた舞踏場のような広いホールに出た。ドレスを着こんだ人間が百人以上は平気で入りそうな広さだけではなく、話し声や足音が遠く反響するほど天井が高い。

 屋敷の外観からは不自然なくらいだ。


「ここは……」


 待ち伏せくらいあるかと思って警戒していたカッシュは気を抜かない程度に拍子抜けする。しんと静まっている部屋に魔物の姿はない。

 もちろん人の姿も一切なく、盛大なパーティーに付き物の音楽隊も料理もないので、つまりここは無駄に広いだけの空間だ。

 これならダンスだけでなく、縦横無尽に走り回ることも自由である。


「どうぞ入ってくれと言わんばかりに向こうの壁に扉がある。街の中央広場くらいに広く思えるが、まっすぐ突っ切っていくしかあるまい」


 そう言ってステップを踏むように歩き出した二人。

 息を合わせて数歩ほど進んだところで、いきなりガシャンと音を立てて背後の扉が閉まった。

 ほとんど同時に二人が振り返ると、くぐってきたばかりの扉が不思議な迷宮の壁に飲み込まれていく。まさか誰かが合図を出したわけでもないだろうが、結果として二人は閉じ込められてしまったようだ。


「まるで円形闘技場だな。無観客のまま魔物との決闘でもさせられるのか?」


「や、やめてください。本当に何か出てきたらどうするんですか」


 そう言った直後、再びガシャンと大きな音が響いた。何事かと思って今度は前の方へ顔を向ければ、閉ざされた扉とは別の扉が開いた音だった。

 それはホールの両脇に備え付けられていた扉で、誰が出てくるのかと思えば両方から魔物が飛び出してきたではないか。右からは一匹の巨大なイノシシで、左からは羽ばたきながら出てきた一匹の大きな蜂である。


「お前ならどうする?」


 ふーっと息を吐き出して、場違いなくらい落ち着いているカッシュが彼女に尋ねた。

 顔面を蒼白にしながらもフォズリは弓を構える。


「た、戦います! 頑張っても勝てないようなら隙を見て逃げますが!」


「よし、その方針で行こう!」


 まずは様子見もかねて戦うことを決めたカッシュは剣を構える。

 海を渡った先にある大陸の南部に生息しているという大型のゾウほどもある巨体のイノシシは牙も太く、おそらく突進してくるスピードも普通のイノシシとは比べ物にならないだろう。

 もう一方の魔物、一般的な成人男性と同じくらいの大きさがある蜂は槍のような針を持っており、あれに刺されたら毒がなかろうと死んでしまうに違いない。

 つまりどちらも難敵だ。油断はできない。


「ひとまずフォズリはあっちで飛んでる蜂を何とかしてくれ! 俺はこっちのイノシシを何とかする!」


「えっ! いや、ここは二人で一緒にやりましょうよ! どうあがいたって一人では無理です! まずは私もカッシュさんと一緒にイノシシを……!」


「ほらフォズリ、お前の所に蜂が来てるぞ!」


「えっ!」


 獲物である人間を見つけた蜂の魔物は早速興奮状態になって、不気味な羽音を響かせながら二人へ向かって飛んでくる。ブンブンと音を立てて飛んでくれば普通の蜂でさえ怖いのに、槍で武装した兵士のような巨大蜂となればなおさらだ。

 戦闘に不慣れなフォズリは肝を冷やした。

 情けなく両足が震えていたとしても、後ろ向きに倒れて尻もちをつかなかっただけ偉い。


「魔物が怖いからって視線を逸らすな! とにかく弓を構えて、威嚇でもいいから攻撃しろ! ここが訓練場で奴は動くだけの的だと思え!」


 戦闘に突入した焦りから口調は荒っぽくなっているが、叫ぶカッシュも意地悪で言っているのではない。

 魔物がこちらの意を汲んで行儀よく順番を待ってから襲い掛かってきてくれるわけでもないので、この場には二人しかいないのだから、苦手であろうと怖かろうと一人で一体の魔物を相手取るしかないのだ。


「やってみます、やってみます! とにかくやってみます!」


 そう言いながら慌てて準備をするが、緊張と恐怖で手が震えているのかフォズリは矢を射ることもできず苦戦している。狙いを定めるどころか、つかんだ矢を落としかねない。

 ただ、広いホールのおかげで蜂もイノシシも遠いところにいたのが幸いした。敵が二人のもとにたどり着くまでにはまだ少し時間がある。

 タン、タン、タンとリズミカルな三拍子で三回くらい手を叩くくらいの、ほんの少しの時間だけ。

 横目でちらりとフォズリを確認したカッシュは彼女のことを心配しながら、左右の魔物に目配せする。


「ここは精霊術を使うしかないな。そう何度も使えないが、使うべき時を間違いはしないさ」


 そうつぶやいて、何もない目の前の虚空から、クルミによく似た植物の種子を取り出したカッシュ。

 指につまんだそれを勢いよく足元に投げつけると、赤い絨毯の敷かれた床に激突した瞬間、魔力を帯びていた種は爆発するように発芽した。

 精霊樹の盾、スクトゥルムだ。

 勢いよく伸びた芽は瞬く間に双葉となって最終的には枝分かれし、葉っぱと樹皮で作られた二枚の盾となった。


「一枚は俺、もう一枚はフォズリに行ってくれ!」


 その盾には精霊の羽がついていて、カッシュが指示を出すとひとりでに飛んで行って、彼女を守るために体の正面で浮かんで止まった。ようやく弓を構えて目の前の魔物を狙うのに集中していた彼女は驚いて反射的に後ずさったが、その動きに連動して盾もついてくる。

 どうやら精霊の盾は意思を持ったように自動で動いて、魔物の攻撃から彼女を守ってくれるつもりらしい。

 それは即座に命を守る役に立ち、針をむき出しにして飛んできた蜂に体当たりしてフォズリから魔物を遠ざけた。


「あっ、ありがとうございます! 精霊の盾さん! ついでに剣はないんですか!」


「いいから矢を射ろ! 今がチャンスだろ!」


「やります、すぐやります!」


 ふわふわと空を飛んで勝手に動いてくれる精霊の盾は同じく空を飛ぶ魔物、しつこくフォズリを狙おうとする蜂の動きを邪魔するように、何度も加速しては体当たりを繰り返す。

 頑張ってくれているが大きさは盾の方が小さいので、巨大蜂との押し合いに少しずつ負けてフォズリの方に近づいてくる。

 もちろんフォズリは動けなくなっているわけではないから、転びそうになる足運びで後ろに下がりながらも弓を引き絞って矢を放った。


 ――ビシュン。


 後ろに目がついているように盾は避けてくれたが、正面に目がついている蜂の魔物のほうは避けるまでもなかった。


「すみません外れました! 精霊の盾さんもごめんなさい!」


「謝らなくていいから第二射だ! すぐにやれ!」


「はい!」


 フォズリは再び弓を構え、それを最後まで見届ける前に巨大イノシシがカッシュに迫る。

 もう一枚の盾がカッシュを守るべく正面に陣取り、強く吹き荒れた風に押し出されたように急加速すると、駆け込んできた魔物の鼻っ面に体当たりを試みる。

 だが効果はない。

 果敢に挑んだ精霊の盾スクトゥルムは無情にも弾き飛ばされた。


「くそ、さすがに向こうの方が力はあるか!」


 精霊の盾とぶつかったものの、走る速さはちっとも落ちてくれない。

 まるでスクトゥルムの攻撃などなかったように、止まることなく突進してくる巨大イノシシ。その攻撃を当たる寸前で横に転がって、かろうじて避けるカッシュ。

 タイミングが合わずに剣で攻撃することは諦め、ぎりぎりの危険なタイミングだったが、なんとか回避には成功した。

 スピードを上げすぎて急には速度を落とせないのか、突進を避けられた後も全速力で走り続ける巨大イノシシはカッシュの横を通り抜けて、反対側の壁際まで到達する。巨体ゆえか、方向を変えて曲がるためには大きく円を描く必要があるようで、向こうで折り返してくるまでは少し時間がかかりそうだ。

 なんにせよ敵はもう一度来る。

 転がった後で膝立ちになったカッシュは剣を握る手に力を込める。

 次は避けるだけでなく、せめて一撃くらい食らわせなければ騎士の名折れだ。


「また外れました!」


「いちいち報告しなくていいから三射目だ!」


「はい! 四射目以降もそうします!」


「素直でいいが大事な時は報告しろ! 本気で死にそうになったら助けを呼べ!」


「はい!」


 深呼吸をしてから立ち上がったカッシュはちらりと横を見る。

 このままフォズリのそばにいると、こちらを狙った魔物の攻撃に彼女が巻き込まれかねない。それぞれがそれぞれの敵と戦う間くらい、なるべく遠くに離れていたほうがいいだろう。

 どちらを狙っていようとも、二人が近くにいれば魔物にとっては標的を変えることが容易となる。なのにこちらは出会ったばかりの即席パーティーでしかなく、お互いに息を合わせて共闘することも難しいのだ。

 カッシュはどちらかと言えば巨大イノシシの方へ向かって走り、盾に守られながら蜂と苦闘しているフォズリから距離をとった。

 魔物の意識や敵意を自分へと集中させるように剣を振りかざす。


「さあ、来い! 俺が相手だ!」


 大声に誘われたのか、再び走り始めた巨大イノシシ。

 愚直なまでに真っ直ぐ向かってくる突進をかわし、それに合わせて剣を振る。

 一度、二度、三度。

 突っ込んでくるたびに何度もそうしているが、なにしろ毛皮が分厚い巨大イノシシなので手ごたえはあまりない。

 命令せずとも動きに合わせて飛んで守ってくれる盾のおかげで致命的な負傷はないものの、フォズリの方もなかなか矢を当てられず苦戦している。

 どちらの敵も予想より手ごわい。

 一進一退の攻防が続く。

 先に音を上げたのはフォズリだった。


「やっぱり駄目です! いくらやっても私の腕じゃ当てられません!」


「弓の腕前を争う競技会じゃないんだから、いくら外れたっていい! 敵を仕留めるまで諦めずに何度でも挑戦してくれ! 俺にさえ当ててくれなければ大丈夫だ!」


「そう言われると間違ってカッシュさんに当たりそうな気がします! もしそうなったら避けてください! 精霊の盾さんはそうしてくれてます!」


「馬鹿!」


 本当は手伝えたらいいが、そうもいかない。全身に汗がにじみ始めているカッシュは暴れ狂っているイノシシの相手をするだけでも手一杯だ。

 今はスクトゥルムがカッシュやフォズリを守ってくれているけれど、あれは一種の精霊術であり、本人の手を離れて動いてくれる時間にも制限がある。

 いつまでも手こずってばかりはいられない。それなりに戦闘経験を積んできている自分はともかく、戦闘経験の浅い彼女のことを心配して声をかける。


「フォズリ、矢はまだあるか!」


「それが手当たり次第に射ち尽くしてしまって、もう一本もありません! 今のが最後です!」


 そう言って右手につかんだ弓をぶんぶん振っている。

 遊んでいるのではなく、彼女なりの救援要請である。

 それが視界の端に見えたカッシュは顔も向けずに叫んだ。


「手元になければ落ちているのを拾ってくれ! 他に武器はないんだ!」


「えっ! 外れた矢を拾って使うんですか!」


「フォズリ!」


「はい!」


 怒られた気がして背筋を伸ばしたフォズリは周囲を見渡す。

 今までずっと逃げ回りながら魔物に向かって十本以上も射続けて、あえなく外れた矢はそのすべてが遠くに落ちている。しかもばらばらの地点にだ。魔物に当たったわけでもなく、どこかに当たったとすれば壁や床だけで、なんにせよ折れていない矢を選んで拾えば再利用できる。

 他に武器がないとすれば拾うしかないだろう。

 まさか素手のままでいるわけにもいかないので、覚悟を決めて走り出すフォズリ。散らばって落ちている矢は魔物の向こう側にある。正面からすれ違うとあまりに危険なため、やや大きく曲がって距離をとりながらも彼女なりの全力疾走で急いだ。

 そろそろ精霊術の時間制限なのか、スクトゥルムは最初のころよりも動きが鈍い。魔物を押し戻す力も弱く、依然として俊敏な敵の動きに追いつけなくなってきている。

 直後、精霊の盾をうまくかわした蜂が無防備となったフォズリに迫った。そちらを見る余裕もなく、地面に落ちた矢を拾うことに一生懸命な彼女は気が付かない。

 巨大イノシシにかかりきりになっているカッシュも当然ながら気づかない。


「えっ、嘘!」


 急に近づいてきた羽の音に異変を感じた彼女が振り返ると、今にも針で突き刺そうとする蜂が目の前に迫っていた。驚いた彼女は尻餅をつき、拾ったばかりの矢を握りしめたまま腰を抜かして目をつぶる。

 もう弓を構えるのも間に合わない。

 逃げることも難しそうだ。

 つまり――。


「……だからって、このまま死ねるかあっ!」


 土壇場の窮地で急に顔色が変わったフォズリは力いっぱいに叫んだ。

 その場で手をついて大きく飛び退く。おかげで魔物の攻撃は届かなかった。

 それは何をするにも消極的だった彼女にしては見違えるほど機敏な動きだ。まるで人が変わったように犬歯をのぞかせて不敵に笑っている。

 先ほど拾ったばかりの矢を片手に持ち、反対側の手に握っていた弓を邪魔だと言わんばかりに投げ捨てた。


「おい、盾! ふらふら飛んでないで、こっちに来い! 最後のひと踏ん張りだ!」


 可憐な声はそのままに、今まで自由に任せてばかりだった精霊の盾に指示を出す。

 糸で引っ張られるように素直にやってきた盾は仁王立ちする彼女の前、攻撃を回避されて空中で動きが止まっていた蜂との間に浮かんで停止すると、手のひらを倒して追加で指示を出す彼女に合わせて、ほぼ平坦になっている表面の部分を上に向けた。

 羽で浮いている精霊樹の盾が床と水平になることで、空中に足場ができる。

 態勢を整えた蜂がこちらに向かってくる動きと同時に彼女は地面を蹴ってスクトゥルムへ飛び乗り、それを踏み台にして二度目のジャンプを試みた。自分が飛ぶので精一杯なのか、人を支える浮力まではない盾は床に向かって沈むが、地面まで沈み切る前に彼女の足は離れている。

 目指す着地点は目の前に飛んでいる蜂。

 数年ぶりに再会した恋人に抱き着くくらいの勢いで突っ込んでいく。

 それを見た蜂の方もお尻を突き出して、槍のような針で彼女を出迎える。


「おらおらっ! しゃらくせえっ!」


 しかし彼女は気にしない。

 手にした矢で魔物の頭を狙って振り下ろし、体をひねって勢いをつけた足で腹を蹴って危険な針を遠ざける。突き刺さった矢からは体液が飛び出し、思い切り蹴られた衝撃で飛んでいられず地面に激突したが、それでも魔物は息絶えない。


「んだとぉ……」


 意外にしぶとい魔物の姿を見て目を細めるフォズリ。

 いったん魔物から離れて近くを走り回って、新たに二本の矢を拾った彼女はそれを一本ずつ両手に持ち、二刀流のように構えた。

 そして攻撃。

 地面付近でもがく蜂の足、羽、触覚などを順番によどみなく斬り落とし、最後に腹部へ向かって二本とも深々と突き刺す。

 それがとどめになったのか、ついに蜂の魔物は動きを止めた。

 息の根を止められ死んでしまったのだ。


「まったく、魔物ってのは本当に煩わしい奴だな。こいつらが人間社会で迷惑をかけ回るから、精霊までも危険視されて迷惑を被ることもあるんだ」


 吐き捨てるように言った彼女の顔は怒っているようにも見える。

 まるで精霊の立場を代弁しているみたいだ。


「……フォ、フォズリ?」


 そんなフォズリに異様な気配を感じ取ったカッシュは恐れつつも声をかけた。

 こういう場合、よく知らないままに適当なことを言って、下手に刺激するのはよくない。

 おそらく今の彼女は普通ではない。

 どう普通でないのかを説明するのはとても難しいけれど。


「あん?」


 声に反応して、ゆっくりとカッシュを見たフォズリ。

 びくついているカッシュの肩越しに向こう側を見た彼女は怒ったように眉を立てた。


「おいこら、そっちにイノシシが残ってんぞ! 一人でやれないんなら手伝いはいるのか!」


「えっ? いや、手伝いはいらん! 借りは作らんぞ!」


 誰かに借りを作ると弱体化してしまう、という事情を知らぬフォズリはカッシュの言葉を聞いていなかった。

 近くに落ちていた矢を拾うとイノシシに向かって走っていく。また盾を踏み台にして魔物の背に飛び乗る。それから魔物の首根っこをつかみ、硬い毛皮を力ずくで貫通させて矢を突き立てる。

 自らの背中に乗ったフォズリを振り落とすため、右に左にと身体を揺らしながら走り始めた巨大イノシシ。落とされてはならぬとフォズリは両腕を使って首を強引に締め上げ、まっすぐ走れなくなった魔物は壁に激突する。

 あまりの衝撃にフォズリも吹き飛ばされそうになったものの、ぶつかった瞬間に巨大イノシシの背中で宙返りして、もといた首の根元に着地した。


「ほら、壁に衝突した今がチャンスだ! 足を斬って動きを止めろ!」


「あ、ああ……!」


「その手に持ってる剣で斬れっつってんだ! とろとろしている暇はあるのか!」


「ええい、わかってる!」


 声を荒げるフォズリに急き立てられるようにしてカッシュは巨大イノシシの前足に斬りかかった。図太い脚部から血がほとばしって、魔物が唸り声をあげる。

 立ち上がって反撃してくる前に、もう一方の前足も狙う。

 一度でダメなら二度、三度。

 効果がみられるまで何度でも繰り返す。

 毛皮をはぎ取り、肉を断ち、剣が骨にまで達すれば、満身創痍となった魔物はもう立ち上がれない。得意の突進攻撃も封印されてしまっただろう。


「よし、ここまでやれれば上出来だ! 後は任せろっ!」


「任せろって、どうするつもりだ! どちらの手にも武器を持っていないようだが!」


「だから任せろ! こうするんだ!」


 フォズリは乗っかっている魔物の首筋に右手を押し付けて叫ぶ。


火炎爆発フレイムファイア!」


 強烈な発光と熱と空気を震わせる衝撃を伴った爆発的な炎がフォズリの右手から放出されて、一息に魔物を飲み込んだ。

 それは魔法だ。

 一瞬で猛火に包まれて全身を焼き払われた巨大イノシシは命を失い、横倒しになった死体だけが残った。

 手のひらに熱が残っているのか、上へ下へと右手を振りながら指を開いたり閉じたりしているフォズリ。魔法を発動した直後に魔物から飛び降りて距離をとっており、しばらくぼーっと焼け焦げた亡骸を眺めていたが、何も変化が起きないことを確認すると安心したらしい。

 驚きのあまり呆然と見守っていたカッシュに振り返って、大きく伸びをした。


「うーん、強力な魔法を使うとさすがにしんどいな。ふわぁ……」


 そう言って彼女は床に座り込んだ。

 足を横向きに崩し、こくりと眠るように頭を下げる。


「お、おい……」


 どうしたのかと心配したカッシュが近寄って彼女の肩をゆする。

 すると彼女は短い髪を揺らしながら顔を上げた。

 その顔は恥ずかしそうに朱色に染まり、気まずげに視線はそらしていて、もとの優しくて穏やかな表情に戻っていた。


「あの、す、すみません……」


「いや、何も謝ることはないが……。ほら、立てるか?」


「はい。ありがとうございます」


 差し出されたカッシュの手を取って立ち上がるフォズリ。まるで先ほどまでの自分の振る舞いを恥じるかのように視線が泳いでおり、カッシュとは目を合わせられないでいる。

 しばらく手をすり合わせて申し訳なさそうにしていたが、さすがに説明する必要性を感じたらしい。

 うつむいたまま、彼女は愛おしそうに自分の胸に手を当てる。


「今のは私の契約精霊なんです。基本的には眠っているんですが、さっきみたいに私がピンチになると目を覚まして体を乗っ取ってくれるんです。とても強くて、頼りになって、これまでに何度助けてもらったことか……」


「なるほど。討伐隊が全滅したのに戦闘が苦手なはずの君だけ生き延びていられた理由が今わかったよ」


 カッシュは深々と頷いてから大きく息を吐きだす。


「同時に、討伐隊を襲った迷宮の魔物が、君の契約精霊でさえ勝てぬほどの強さだったのだろうということもね」


 だとすれば気を引き締め直さなければ。

 これにフォズリも同意して、二人はより警戒を強めて奥へと歩みだした。

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