第3話 ファナン家の迷宮

 大陸へとつながる海に面しているファスタンは歪んだ半円形の都市だ。長い歴史を持つ街は時代とともに周囲を囲む壁が増設され、いくつかは往来の邪魔になるため壊されているものの、ある程度の距離を置いて幾重もの層になっている。

 そういう経緯があるから、中心に行くほど古い街並みを残しているため狭い路地も目立ち、再開発された大通りからでも薄暗い路地に迷い込むことがある。そうした場所は人間嫌いの精霊や平穏を愛する精霊が好んで暮らす隠れ家ともなるが、よからぬものが夜な夜な徘徊するとも噂され、ますます人通りが少なくなる傾向にあった。

 よからぬもの、それはすなわち魔物のことだ。

 その邪悪なる気配を察した少年は静かに息をのむ。


「ここが……」


「ファナン家の邸宅だ。いびつな姿に見えるかもしれないが、半分は人の手で造られた普通の屋敷だよ」


 数十年以上も前から同じ場所に建っている邸宅は増改築を繰り返し、横にも縦にも巨大化の一途をたどってきた。半分は普通、しかし普通ではない半分が主張を激しくしているのか、屋敷を包む空間がねじ曲がったかのように、不気味な風が吹いている。

 でたらめに積み木を積み重ねたような石造りの壁がおどろおどろしいツタに覆われており、四階建ての屋敷からは唸り声が地響きを伴って聞こえてきた。

 騎士として情報を集めていたカッシュの話によれば、高い塀に囲まれた屋敷の内部は脱出困難な迷宮と化しており、自然の摂理を外れた魔物が住み着いているという。

 錆びた鉄のフェンスは閉まっている。ただし鍵は壊れているようだ。

 門前で足を止めたカッシュは腰の剣に手をかけた。


「今の当主であるデリダ・ファナン氏はすでに退避して、ここから少し離れた別の住宅で暮らしている。ご家族は……どうだったかな」


 この屋敷を所有していたファナン家は歴史のある名家だから、傍系まで含めると膨大に広がった家系図に連なる一族の親類縁者はたくさんいる。

 ただし、そのうちの何人が健在で、どこで誰が何をやっているのかを正確に知っている人は少ない。


「少なくとも一人」


「……ん?」


「僕と同じくらいの年頃だという娘さんが一人、この中に閉じ込められているはずです」


「ずいぶん確信を持っているようだが、なぜそれを?」


「それは……」


 答える途中で言い淀みつつ、閉じ込められているという少女のことを心配するように屋敷を見つめる少年。伝聞調の口振りからすると彼女との間に面識はないようだが、まったくの他人というわけでもなさそうだ。

 自分が知っている屋敷の事情を青年に対して言うべきか言わないべきか、少しだけ迷ったそぶりを見せた少年。

 沈黙は一瞬で、結局は正直に答える。


「彼女のことを心配するお兄さんから聞いたんです。今も妹が一人で閉じ込められていると」


「なるほど。妹を想う兄の話だというなら疑う必要はないな」


 それとなく何かを隠そうとした少年を気遣ったのか、おどけて笑うカッシュ。

 緊張をほどく意味もあって、わざと明るい声を出す。


「そういえば、ご自慢のペットは連れてこなくてよかったのか?」


 もちろん彼が言っているのは犬や猫などのことではなく、やすらぎ食堂の前で待たせていた少年の契約精霊のことだ。

 これに対して少年は「ペットじゃなくて大切な相棒ですけど」と主張するのを忘れずに伝えておいてから、説明する。


「ガルムのことなら置いてきました。安全な場所……精霊しか入れない精霊界にいるはずです」


「精霊界か。俺たち人間の目からは入口さえも見えず、決して入ることはできない精霊のための別世界。生身の体に縛られている人間とは違い、物理的な肉体を持たない霊体にもなれるという精霊は不思議な存在だな」


「ですね。なので、一度姿を消した精霊を追いかけるのはすごく難しいんですけど……」


「……って、おい、ちょっと待て。さっき、なんて言った? ガルムを待たせてきたのか?」


「そう言いましたよ。ここにはいません」


「おいおい、大切な相棒と言うならどうして一緒に戦わせないんだ。あの精霊なら先陣を切って屋敷に飛び込んでいきそうなくらい強そうだったじゃないか。ただでさえ人手が足りていないのに精霊界で休ませておく意味があるのか?」


「言いたいことはわかりますけど、凶暴な魔物が相手だとガルムは駄目ですね。ああ見えて臆病な性格なんです。魔物どころか、普通の動物が相手でも逃げることがあるくらいですから。この前だって、街道の草むらから飛び出してきたイタチにびっくりして道を引き返して……」


「待て待て、人を襲うんじゃなかったのか?」


 噛みつかれたくなければ、下手に近づかないほうがいいと言っていたはずだ。

 今度は少年がおどけて笑う。


「それはガルムを守るための方便ですよ。危険な精霊だから不用意に近づくと噛みつかれるぞ、と言っておけば、誰にもいじめられずにすむんです」


「……俺がいじめるように見えたか」


「危険とあれば退治くらいしたでしょう」


「否定はせんがな。それも騎士の務めであって、なにも俺が個人的に精霊を退治したがっているわけじゃないぞ」


 むしろ善良な精霊となれば、彼は人間と同じように精霊のことだって守ろうとするだろう。

 彼もまた精霊の加護を受けた騎士なのだ。精霊を愛する気持ちは同じである。


「ならよかったです。けど、屋敷の魔物はきちんと退治したがってくださいよ?」


「それは任せろ。……いや、お前にも半分は任せる」


「……お前?」


「さあ、それより日が暮れると厄介だ。つまりこの屋敷に閉じ込められている少女を助けるのが目的なんだろう? だったら早く入ろう」


 いつ敵が現れてもいいように鞘から剣を引き抜いたカッシュは警戒しながら古びたフェンスを開ける。キィキィと耳障りな音がするのは錆びた鉄のせいだろう。

 ここしばらく人の出入りがないのか、無造作に伸びた雑草が足に絡まってくる。剣を振り下ろして邪魔な下草を斬りながら、ひび割れが目立つ石畳を進んで屋敷の正面玄関を目指す。

 通常よりも一歩一歩が長く、外から見たよりも入り口が遠く感じる。

 空気が変わったように感じる、異様な気配。

 この先で何が待ち構えているかわからない以上、たった二人で迷宮に突入するのは命知らずの所業であって、あまりに危険すぎる愚かな行為かもしれない。

 ……とはいうものの、さすがに騎士の増援を呼べば騒ぎが大きくなり、事態を察した領王に一人でファスタンを訪れている少年の存在がばれてしまうだろう。

 これから領王に戦いを挑もうというのだ。

 この程度の試練を乗り越えられないのなら、実際に剣を交えて戦うまでもなく、少年の負けが決まっている。

 カッシュを先頭にした二人は前後に並んで着実に前進を続け、いよいよ扉に手が届くというところまで来た。


「ちょっと待ってください」


 覚悟を決めて先に入ろうとするカッシュを呼び止めた少年は彼よりも一歩後ろの地点で足を止め、その場で立ったまま、己の額に人差し指を当てて目を閉じた。

 呼吸を止め、耳を澄まして、全神経を集中して何かを感じ取ろうとする。


「何をやっているんだ? 瞑想か?」


 さすがに問わずにはいられないカッシュ。

 もう扉は目の前にある。後は手を当てて押し開くだけでいい。

 なのに少年は何をやっているんだ。

 いつまでたっても動こうとしない少年にしびれを切らせてカッシュが問いかけると、口元まで指を下ろした彼は目を開いた。


「何を、というと説明は難しいですけど、あえて言うなら『直感を澄ました』んですよ。そう何度も使えませんが、うまくいけば目の届かない場所までの気配を察知することができます。それでわかったんですが、おそらく強い魔物は屋敷の奥にいるようですね。入ってすぐはそれほど危険ではないかと」


「ふうん……しばらく危険はない、ね。お前の言っていることが事実だとすると、部下に欲しいくらいに便利な力だな。気配を察知する能力だと? 一応は信用しておくが、せめて新聞が毎日やってる天気予報くらいは当たるのか?」


「えーっと、新聞の天気予報ですか? あいにく僕が暮らしていた村に新聞が配達されることはなかったので、この街の天気予報がどれくらい当たるのかは知りませんが……」


「あのな、こういうのはただの軽口なんだから、そこまで正確な答えは求めちゃいないんだ。遠回しに自信のほどを聞いたんだよ」


「なるほど。だったら安心してください。自信がないときは正直にそう言いますから」


 そう言いながら少年は剣を抜き、海原のように青い刃を光らせながら扉に手をかける。

 いつの間にか先頭を奪われていたカッシュはいよいよかと気合を入れ直す。


「それじゃあ扉を開けますよ、カッシュさん。おそらく大丈夫でしょうけれど、絶対に油断はしないでください。いつだってピンチは予想外の時に来ますから」


「ピンチだけじゃなく、俺たちを救ってくれる幸運もな」


 祈るように少年の背を叩くカッシュ。手の跡がつくほどに痛いのは、嫌がらせではなく期待している裏返しだ。

 それを合図にしたらしく、痛くなった背中を気にしつつも少年が扉を開く。

 すると二人の目に入ったのは奥へと続く三本の廊下で、左と右はそれぞれ別方向への曲がり道、真ん中の道は地下へと続く下り階段という三叉路になっていた。建物の中は夜明け前のように薄暗いが、どういう原理かロウソクの光くらいの明かりはついている。

 すでに人が寄り付かなくなった廃墟といえど、魔素が満ち足りる程度に魔物や精霊が住み着いているのは本当なのだろう。


「噂に聞いていたばかりで俺も中に入るのは初めてだが、理屈の通用しない不思議な迷宮になっているというのは本当らしいな。気をつけろ。魔法のように空間がねじれているとすれば、外から見ていたよりも内側はずっと広いに違いないぞ」


「今日一日はたっぷり巨大迷路を楽しめるかもしれませんね」


「しかも魔物退治のおまけつきだ。どうせなら一番愉快で楽しいルートがいいんだが、どの道を行く?」


 おどけて尋ねるカッシュだが、これは単純なように見えて難しい問題だ。間違った道を選べば目的地にたどり着くのが難しくなるばかりか、下手をすると出られなくなるかもしれない。

 ここは人為的に造られた常識の範囲内にある館ではなく、何らかの原因で魔術的に発生した迷宮なのだ。

 もっとも、分かれ道を前にじっくりと考えたところで何か具体的な手掛かりがあるわけではないので、ゴールに通じる正解の道を選びようはないのだが……。

 そう思っていたカッシュだったが、問われた側である少年はそう思っていなかったらしい。

 どの道がいいのか正解を選ぶため、適当に答えるのではなく確信を持った顔つきでカッシュに告げる。


「精霊を放ちます」


「精霊を、放つ……だと?」


「はい」


 やると決めた少年は相手の返事を求めていなかった。

 精霊を放つなどと聞いて困惑したカッシュの反応を待たずに右手を前に掲げて、ぶつぶつと何事かをつぶやく。

 その言葉に反応したのか、少年の周囲が色とりどりに輝き始めた。テントウムシくらいの小さなものから、よく育ったカボチャくらいの大きなものまで、実に様々な大きさの光が群れるように飛びながら輝いている。

 それらは人ならざる尊き者たち。

 ふわふわと空中に浮かび、人間の目には球体の姿で光って見える低級の精霊たちだ。

 今まで少年のそばに身を潜めていた彼らは、少年の呼びかけに答えて姿を現したのである。


「みんな、出てきてくれてありがとう。この屋敷の中に閉じ込められているという少女を探すのを手伝ってくれると助かるんだ」


 それらは少年の指示を聞き届けると、三つに別れた廊下へ分散して飛んで行った。


「驚いたな。今のは精霊術か」


 信じられないものを見たようにカッシュが感嘆を漏らすと、少年は首を横に振った。


「術というほど大げさなものじゃないでしょう。僕の友達である精霊たちにも屋敷の探索を協力してもらえるよう頼んだだけですから」


「それを俺たちは術と呼ぶんだがな」


 大したことのないように語る少年だが、誰でも精霊を思い通りに操れるわけではない。人間に友好的なことの多い契約精霊でさえ、加護を与えた騎士の言うことを素直に聞くとは限らない。

 果たして少年の力が優れているのか、それとも、たまたま人間に親切で素直な精霊たちが少年のもとに集まってきたのか。

 どちらにせよ彼はただ者ではない。

 たった一人でロンドウィルの領王と戦争をするというのも与太話ではなく、ひょっとしたら彼なりの勝機が存在するのかもしれない。


「まさか何もせずに待っているわけにもいかないので、ともかく彼らが何か見つけてくるまでは僕たちも自分の足で探し回るしかありませんね」


「いや、十分だ。何を隠そう最初から俺はそのつもりだったからな。彼らが魔物と戦えぬとしても、人探しを手伝ってくれる人手が増えただけで大助かりだ」


 実際、あれだけの数の精霊が探索を手伝ってくれるのならば効率がいい。どれだけ広いのか想像もつかないが、迷宮の内部に囚われているというファナン家の少女も意外と早く見つけられるかもしれない。

 だが、大変なのは捜索だけではない。ここは凶暴な魔物がいるかもしれない危険な迷宮なのだ。行く手を阻む邪魔者が存在する以上、精霊が手伝ってくれるからといって油断だけはしないほうがいいだろう。


「この先、どんな魔物が待ち構えているのか知れない。街の周囲では見かけない危険な魔物が潜んでいてもおかしくはないんだ。探索の効率は悪くなるかもしれないが、魔物との戦いに備えて俺たちは二人で一緒に進むぞ」


「その作戦に賛成です。僕とカッシュさんの二人がかりなら、一人では勝てないような強い魔物が出てきても対応できるかもしれませんからね。ひとまず先に行った精霊たちが安全を確認してくれた道を選んで、しばらくは僕が先頭になって進みましょうか。もどかしいかもしれませんがカッシュさんは後ろからついてきてください」


「……いいだろう。これは作戦だから、貸し借りにはしないぞ。今回ばかりは、どうもその方がよさそうだ」


 普通なら先頭を行くのはこの街の騎士であるカッシュだろうが、精霊の案内があるのなら少年を先に行かせた方がいいだろう。二十年以上この場所に存在している迷宮は誰にも踏破できたことがなく、カッシュにも正解の道がわからないのだ。

 無理して少年を下がらせても、無駄に迷うばかりで得をする者は誰もいない。

 騎士としての彼には他にも役立てることがたくさんある。

 たとえば、魔物との戦いなど。

 そう考えていたら、ちょうど実力を発揮できる機会がきた。


「気をつけろ、魔物だ!」


 直角に折れた廊下の角を曲がった先、細長い翼を広げて廊下を飛び回っていたのは吸血コウモリだ。血を吸うための獲物となるのは野生の動物だけでなく、群れになって人間を襲うことでも有名な厄介な夜の狩人である。

 近頃になり夜の街に出没するようになったのは、まさにここから飛び立っているのかもしれない。

 自分から巣穴に潜り込んできた馬鹿な獲物を見つけたと大喜びする魔物たちは一斉に目を輝かせ、通路中にギィギィと耳障りな甲高い鳴き声が響き渡った。

 さあ、どこからでもかかってこいと勇ましく剣を構えたカッシュへと、一目散に飛び掛かってくる。


「ええい、邪魔な魔物どもめ! 騎士をなめてもらっては困る!」


 シュッ! シュッ! シュッ! と続けざまに剣を振り下ろしていくカッシュ。

 顔めがけて向かってくるコウモリの黒い翼を次々と斬り落とし、飛べなくなった魔物は廊下の冷たい床に落ちて這いずるように暴れまわる。

 そのまま足に群がろうとする魔物へと容赦なく剣を突き立てて、しっかりととどめを刺す。

 一切の情けをかけず、暴れる魔物相手に慈悲を与えない。


「僕も続きます!」


 頭の上を飛び回る吸血コウモリを狙って、同じく剣を振る少年。剣筋はカッシュよりも幼く戦士としては頼りなくもあるが、一匹ずつ順番に倒していく彼の動きに迷いはない。

 翼を切られ床に落ちたコウモリたちはしばらく這いずり回って暴れていたが、とどめとばかりに少年が剣を突き刺すと魔物は跡形もなく溶けるように消えた。

 現世へとどまることができず、死者の国である冥界へと落ちたのだ。

 今も廊下の上に魔物の死体が残っているカッシュとは何かが違う。


「何をした?」


「この剣の力を使って冥界に落としました。魔力を込めて魔物にとどめを刺すと、死体ごと冥界に送り込めるんです」


「魔力……。すると精霊術の一種か。次からは何かを使う前に教えろ。びっくりするだろ」


「すみません」


 ともあれ、侵入者を歓迎するために出てきた魔物の第一陣を討伐し終えたらしく、風がやんだように辺りは静かになった。


「ふむ。この程度なら本気を出す必要はなさそうだが……」


 魔物としての単純な強さで言えば、たびたび旅人が犠牲になるファスタン郊外の森で遭遇する魔物の方が危険なくらいだ。

 けれど、ここは長らく街の騎士団を手こずらせてきた迷宮である。最初に出くわした魔物が弱かったくらいで、そう簡単に最奥まで攻略できるものではない。

 カッシュが気を抜いた直後、挨拶もなくやってきた侵入者への洗礼とばかりに、前からも後ろからも追加の魔物がやってきた。


「一匹一匹は弱いと言っても、困ったことに数はたくさんいるようですけどね! 仲間の鳴き声に反応して集まってきているのかもしれません!」


「ここが迷宮の中でさえなければ、我々ファスタン騎士団もピンチになったら増援くらい呼ぶからな。群れて暮らす相手もそれは同じなんだろう。果たして屋敷の中には魔物がどれくらい潜んでいるのやら……」


「どれくらい潜んでいようと、ここに止まっていたら厄介です。相手はほどほどにして先へ急ぎましょう!」


 だが、どの道をどこまで行けばいいのだろう。

 端から端までどれほど続いているのか、不可思議な迷宮の規模は二人にはわからない。すでに外から見ていた屋敷の外観よりも長い距離を走っている。やはり三次元的な空間がおかしくなっているようだ。

 しばらく進んでいると、前を走っていた少年の周りでひときわ強い光が輝いた。


「カッシュさん、戻ってきた精霊が誰かを見つけたようです!」


「本当か! よし、案内してくれ!」


「あっちです!」


 迷宮攻略のゴールとなる希望を見出し、元気よく言いながら少年は前を走る。

 襲い掛かってくる魔物の相手はほどほどに、部屋から部屋を抜けて、いくつも枝分かれした廊下を精霊の案内に従って進んでいくと、くねくねと曲がった通路の突き当りにあったのは小さな部屋だった。

 魔物が徘徊しているにも関わらず不用心に開け放たれていた扉の先、二人が足を踏み入れた部屋の中には一人の少女がいた。

 魔物ではなく人間だ。

 慌ただしい物音に反応して丸っこい顔を上げ、短くてサラサラとした髪がふわっと舞い、ようやく彼らの存在に気づいた彼女は嬉しそうに顔をほころばせる。


「ああ、人だ! もしかして助けに来てくれたんですか! 私、もう一生ここから出られないかと思っていました!」


 喜びのあまり涙目になった彼女は椅子に腰かけたまま、左手に持っていた白い陶器のティーカップをガチャンと音を立ててテーブルの上に置き、右手でつまんでいたスコーンは口の中に放り込んだ。最後に慌てて両手で口元を拭くのは真っ白なハンカチだ。

 いきなり部屋に入ってきた二人を喜んで迎える少女が立ち上がるのと同じタイミングで、ほんの少しだけ遅れて部屋に入っていた少年が後ろ手に扉を閉める。

 ここまで来れば慌てる必要もない。

 戦闘に備えて武器を持つ二人でも苦労するほど無数の魔物がはびこる危険な迷宮の中だ。もしかしたらと思って最悪の事態も想定していたが、出会ってみれば意外にも元気そうな姿を見て安心したカッシュはゆっくりと彼女に近づいていく。


「いやあ、探したぞ。君がファナン家のお嬢さんか?」


「……えっ? ファナン家?」


「ん?」


 彼女こそがファナン家の娘に違いないと思った二人が期待した反応と違い、戸惑ったように困惑する少女。

 どうやら迷宮に閉じ込められていたのは事実で、助けが来たことは喜んでいたようだが、何やら反応がおかしい。

 申し訳なさそうに視線を下げた彼女は着ているシャツの胸元を握りしめる。


「あ、あの、もしもファナン家のお嬢さんを探しているのなら違います……。私は騎士のフォズリです」


「騎士だって? どうして騎士がこんなところにいるんだ」


 同じく騎士である自分のことを棚に上げて、探していた少女とは違う人物だとわかって気がせいているのか、詰め寄るようにカッシュは尋ねた。

 怒っているわけではないが語気は強い。なんだか責められている気がして、力なく肩を落とした少女は深いため息を漏らす。


「数か月前に突入した討伐隊に加わっていたんです。ですが作戦は失敗しました。いきなり出てきた凶暴な魔物に襲われて、運よく逃げ出せた私以外の全員が……」


 やや涙声になった彼女の言葉はそこで止まる。

 その先を言えないということは、おそらくそういうことだろう。

 恐怖や不安に彩られた惨劇の記憶が思い出されただけでなく、たった一人だけ生き残ってしまった罪悪感や、彼女なりの責任を感じているのかもしれない。

 見た目や雰囲気から察すれば、少年と同じくらいの年頃の、おそらく騎士になったばかりの少女だ。もしかすると屋敷に突入した討伐作戦こそ、騎士として命じられた初めての任務だったのかもしれない。

 そんな任務で想定外の強い魔物に出くわして、不幸なことに自分以外の仲間が全員やられてしまったなら、落ち込まず平気でいろというほうが無理だろう。領王の精霊術によってある程度は行動を縛られているとはいえ、仲間を失うことによって受けた心の傷が原因で辞めていった騎士はファスタン騎士団においても一人や二人ではない。

 彼女の気持ちを思いやったカッシュは少しだけ声を優しくする。

 探していたファナン家の少女じゃなくても、彼女は魔物ばかりの迷宮に閉じ込められていた被害者だ。


「屋敷に突入した討伐隊は魔物にやられて誰も戻ってこなかったと聞いていたが、そうか。君は生き残りか」


「はい、なんとか逃げ延びた臆病者な生き残りです。ここに私が一人で残っていても何もできないから、ともかく助けを呼ぼうと思って何度も外に出ようとはしたんです。なのに、どんなに進んでもこの部屋に戻ってきてしまうんです。歩くたびに道も違っていて、部屋と部屋のつながりも変わっていて、この屋敷自体が生きているように動いているようで……」


「迷宮だからな。出ようと思ったって簡単には出られないんだろう」


「……実感があるので断言しますが、私もそう思います。少なくとも私と……いや、私一人の力では出られませんでした。とんでもない迷宮ですよ、ここは」


「まだ入ってきたばかりで出口を目指していないから俺たちは断言できんが、普通に外を目指しても出られなさそうな雰囲気はよく感じる。この迷宮の設計者は人を困らせる天才だな。果たして俺たちが協力したところで数日中に出られるかどうか……。少年はどう思う?」


「ううむ、そうですね……」


 話を聞いていた少年は首を傾げ、それを見たカッシュが一緒になって唸る。攻略するつもりで来たが、いざ閉じ込められていた人物と出会ってみると自信がなくなってくる。

 どんなに頑張っても、屋敷の中で道に迷って迷宮から出られなくなったら終わりだ。また新しい救援隊が来るまで三人で暮らす羽目になる。

 しかし、こんな魔物だらけの不便な迷宮で暮らせるものだろうか?

 そもそも今まで彼女はどうやって一人で暮らしていたのだろう。


「数か月前に突入した討伐隊の生き残りだって話でしたよね? ということはフォズリさんは今日まで数か月もたった一人で屋敷の中にいたんですか?」


「いや、一人というか……えっと、でも、そうですね。私以外の討伐隊が全滅してからは数か月が経ちます。部屋にも廊下にも外が見える窓がなかったので朝も夜もわからなくて、あんまり正確な日数はわからないんですけど。……屋敷に暮らす精霊のおかげで着替えも食べ物も補充されるので、ここまで長引いた生活にも特に困らなかったんですが」


「精霊が?」


「ほら、そこにも」


 そう言って彼女は部屋の隅を指さす。

 そこには彼女が言うように精霊がいた。人間のひざ丈くらいの小さな精霊だ。

 それも一体ではなく何体もいる。

 この迷宮のように、貴族などが所有する大きな屋敷に住み着き、そこで暮らしている人間に代わって掃除や料理など様々な雑用を好んでやりたがるという、お節介なことで知られる精霊のシルキスだ。

 迷宮化して魔物が発生した今もファナン家の屋敷にとどまり、誰に頼まれるでもなく率先して雑務をこなしていたのだろう。

 噂に違わず、献身的で生真面目な精霊である。

 騎士として以前に人間として精霊を愛するカッシュはシルキスを眺めながら、嬉しそうに何度も頷く。


「それを聞いて安心したことが一つある。この屋敷に閉じ込められているというファナン家のお嬢さんも、君と同じように世話焼きな精霊のおかげで無事かもしれないということだ。……な、少年?」


「ですね!」


 カッシュに劣らず声を弾ませる少年は力強く頷いた。

 ここに来る前から彼女が屋敷の中で無事に生きている可能性は高いとは聞いていたのだが、その話が現実味を帯びてきたことになる。

 まだ会ったこともない少女。それでも無事は祈りたい。

 同じように考えているカッシュはフォズリの肩を叩く。


「ちょうどいい。君も騎士なら手伝ってくれ。魔物退治とお嬢さんの救出、この二つの問題を解決して俺たちと一緒にここから脱出しよう」


「あ、はい! ご助力します!」


「数か月も一人で迷っていたようだが、俺たちが手を引く必要は?」


「いえ、大丈夫です! 実は半年ほど続いた迷宮生活の間に騎士の制服と戦闘用の装備をなくしたんですが、かろうじて屋敷の中で見つけた弓と矢だけはあるので、魔物が出てきたら後方から援護します!」


 いかにも休暇中の少女が着る私服といった薄手のシャツとハーフパンツ姿のフォズリ。長引いた迷宮暮らしでも美しさを損なわなかったらしい短い髪を揺らして、鉄や青銅でできた兜の代わりに革製の帽子をかぶる。

 それから暇つぶしに読んでいた大量の書物と一緒に机の上に置いていた木の弓と矢筒を手に取って、よし、と小さく気合を入れたフォズリは部屋から出ようとするカッシュと少年を追いかけた。

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