第2話 名前のない少年(2)

 彼は疑問に思った。

 自分には名前がないなどと、果たして、そんなことがあるだろうか?

 生まれたばかりの赤子ならともかく、目の前にいる少年ほどの年齢まで成長した人間に名前がないのは通常ありえない。生まれた直後に親と死別して名前を与えられなかったとしても、育ての親なり周囲の人間なりが呼び名を与えるはずだ。名前を秘密にしておきたい言い訳にしても無理がある。

 まさか、こともあろうに名前がないとは……。

 こればかりは全く予想していなかった返答であったため、一体どういうことだろうかと虚につかれたカッシュだが、ここは他でもないロンドウィルだ。

 深く考えるまでもなく、すぐに彼の目的が思い当たった。


「……ははぁん、なるほど。名前がない、ね。……つまり、君は全くの無知ってわけじゃないようだ。加えて慎重な性格でもある」


 ようやく離した手を自分のあごに当て、カッシュは少年の目を見つめる。


「努力は認めるが、そんな子供だましの嘘をついても無駄だぞ。隠そうとしたって、ここを支配しているロンドウィルの領王は相手の真名まなを見抜くんだ。偽名が通用するような相手じゃない」


 真名。つまり偽名や愛称などではなく、本物の名前のことだ。

 この世に生を受けた前後に必ず誰かによって与えられ、誰でも一つは持っている「名前」という大切な加護。

 本当の名前を知らない人間が相手であれば嘘をついて隠すことも可能だが、彼が言っている「真名を見抜く」というのが事実であれば、このロンドウィル領を治めている領王が相手となるとそうもいかないらしい。


「名前がないのは本当なので、別に嘘をついているわけじゃないんですが……」


「いや、いい。その慎重さと用心深さは時として命を救う。誰が相手であれ、簡単に信用しちゃいけない。今は不幸と戦乱が続く時代だからな」


 世界にはびこる不幸と頻発する戦乱に対する不満を発散するかの如く、グイっと食いちぎるようにパンを口に含む。豪快に食べた青年の口の端からはソースがこぼれ、慌てて右手で抑えたが間に合わない。

 見かねた少年がテーブルに置いてあった小さな木箱からチリ紙を取り出して渡そうとすると、一応は頭を軽く下げて感謝を伝えておいてから、直後にキュッと眉根を寄せた彼は手を前に突き出して断った。


「いや、いい。そういうことは自分でやる。さっき教えた精霊契約を覚えてくれていると嬉しいんだが、どんなに些細なことであれ俺は他人の世話にはならない主義なんだ」


「そうですか。だったら僕も自分の食事に集中させてもらいます」


「そうしてくれ。俺たち騎士の仕事は人々の生活を守ることであって、邪魔することではない」


 もう十分に邪魔されているんだけどな……などと少年は思わなくもなかったものの、ここで話を蒸し返しても意味がない。

 幸い、気を取り直して口に運んだパンはお世辞抜きに美味しかった。

 騎士という職業柄なのか、それとも単純にそういう性格なのか、気になることは尋ねずにはいられないカッシュのおかげで沈黙は長続きしない。


「ところで、君はどこから来たんだ? 外で待ってる精霊と一緒に船に乗ってきたんだろ?」


 数学的な難問や哲学的な問いかけでもないので、すぐに答えられる単純な質問だ。自分がどこから来たかなど、記憶喪失でもなければ悩むまでもない。

 しかし少年は一瞬だけ口ごもった。


「……えっと、さっきは言いそびれましたが、実は海を渡ってきたんじゃないんです。ここから北東の方角にあるロンヴェルという小さな村から、ガルムの背に乗ってロマンピア街道を通ってきたんです」


 それなりに高い山や、ある程度の大きさの橋が必要な川をいくつか超えた先にある村の名だ。人間の足なら普通に歩いて三日ほどかかる。

 特に目立った名産品などもないので普段なら「ロンヴェルから来た」と言えば田舎者だと揶揄やゆするくらいのものだが、それを聞いてカッシュも少年が口ごもった理由を察する。


「ロンヴェルだって? おいおい、それは本当か? 聞いた話によると、ロンヴェル村は魔物の群れに襲われて壊滅したそうじゃないか。通報を受けて派遣されたロンドウィルの騎士団も間に合わなかったとか……」


「……ええ、そうです。前触れもなく村は襲われて、みんな殺されました」


「そうか、それは災難だったな。派遣隊には加わっていなかったが、この街の騎士の一人として俺も申し訳なく思うよ」


「騎士の一人として、ですか……」


 その言葉を聞いた少年は初めて暗い感情を覗かせて顔を曇らせた。

 まるでロンドウィルの騎士に対して思うところがあるような口ぶりだ。

 一度は引っ込めた警戒心をよみがえらせるカッシュ。身内が魔物に襲われ、救援に間に合わなかった騎士が遺族に責め立てられるのはよくある話だ。


「ん、どうした? 何か言いたそうだな。故郷が魔物に襲われ仲間を失ったであろう君が不幸の真っただ中にいることを否定はしないが、騎士として戦っていれば俺だって大切な仲間を失った経験くらいはある。家族もだ。人間として同情はするがな、今回の件について俺を責めるのはお門違いだぜ」


 騎士の一員として村を守るために手を貸せなかったのは事実だが、かといって勝手な判断で彼の仕事である街の警備を放り出すわけにもいかない。少年の村が襲われたとき、騎士である彼は彼なりの職務を遂行していたのだ。

 自分は無実だと釈明をするつもりはない。身に覚えのない罪について謝るつもりもない。せめてもの力になれればと魔物の被害者である彼に同情心を寄せつつあったカッシュだが、怒り狂って我を忘れた少年に泣きつかれても困ると身をこわばらせる。

 ただ、そうはならなかった。

 あなたを責めたいわけじゃない。そう言って少年は首を横に振る。


「村を襲ったのは騎士だった。魔物じゃない」


「……は?」


 あまりに想定外の言葉が少年の口から飛び出たせいか、二人の間に流れていた時が止まる。

 魔物じゃなくて、騎士が村を襲った?

 村人を守るべき騎士が?

 言い間違いか、不運が重なった勘違いか、まさか少年なりの悪ふざけか。

 混乱するカッシュの気持ちを知ってか知らずか、淡々とした様子の少年は言葉を続ける。


「魔物なんて一匹もいなかった。村を焼き払って住民を殺したのは街から派遣されてきた騎士たちだ」


「待て! 村人を殺したのが騎士だって? そんなこと、ありえ……!」


 ダン!

 言葉を飲み込んだカッシュがこぶしでテーブルを叩いた。


「……くそったれ! 十分にあり得る話だ! あの冷酷で傲慢なナァドルドが罪のない人間を何人殺してきた! 奴ならば派遣した騎士たちを黙らせて、世間には魔物退治だったと嘘をつくことだって容易なことだ!」


 カッと目を見開いたカッシュはどこともなく虚空をにらみつける。ぜえぜえと息が荒れ、じっとしていられないのか、椅子から立ち上がって両肩を上下させている。

 テーブルを挟んで向き合う二人の視界に入ってはいなかったが、いつの間にか店内に戻ってカウンターの奥で話を聞いていた店主も服の裾を握りしめながら胸を痛めた。

 騎士が村人を殺す。

 このロンドウィル領では決してありえないことではない。

 だが、残酷な仕打ちを受けたに違いない当事者である少年のほうは異常なくらい落ち着き払っていた。


「すべてを理解できているわけじゃないですけど、村を襲ったのが領王の命令だったのは事実です。村人を、そして僕を殺しに来た騎士はまるで誰かに操られたようだったから。おそらく村に乗り込んできた騎士は全員が正気じゃなかった」


 何かを押さえつけるようにしてテーブルに手をつき、深呼吸をしてカッシュは頭を下げる。


「すまない。どうか騎士を恨まないでくれ。誰が派遣隊に組み込まれていたとしても命令には逆らえなかったはずだ。……俺でさえな!」


 彼の全身を駆け巡ったのは、沸騰しそうな温度に達した怒りだけではない。体温をすべて奪われたような極度の寒気が走った彼は一種の恐怖感にも包まれた。

 その場にいれば、おそらく自分も悪逆非道な作戦に加担せざるを得なかった。家に火をつけ、略奪し、命乞いをするであろう村人たちを斬り殺したのは自分だったかもしれない。

 たまたま振られた運命のサイコロの目が牙をむかなかっただけだ。無力さを痛感した彼はありえたかもしれない自分の罪に恐れと慙愧ざんきの念を覚えた。

 先ほどは要求されてもいないのに拒んでいた謝罪と釈明。

 それを彼は自然と口にした。


 ――許しが欲しい。


 彼だけのことではない。残酷な任務に駆り出されたすべての騎士に。

 恨むだけの理由がある少年はしかし、優しく微笑んで答える。


「大丈夫です。職務を遂行したに過ぎない騎士のことは一人も恨んじゃいません。僕が倒すべき敵は領王だ。この街に寄ったのも、実は敵討ちの途上なんです。あの領王は生かしちゃおけない。伝書精霊を通じて領王には決闘も申し込んでいます。向こうからも返事があって、騎士団同士の正式な戦争が認可されました」


 時と場合によって可変することもある最低限のルールを守りさえすれば、騎士には決闘を申し込む権利が、騎士団には戦争を仕掛ける権利がある。

 ロンドウィルの領王が相手でも例外ではない。

 戦争が始まれば弱い方が負けるだけだ。

 世は戦乱の時代なのである。


 ――そうか、腹をくくっているのか。


 ――すでに領王と殺し合いをする覚悟を決めているから、それ以外の余計な感情を胸の内にしまっているのだ。


 表面上は穏やかに見えていた少年の心中を察して、わめき散らしている自分がみっともなく思えてきたのはカッシュである。

 故郷の村を理不尽に破壊されたとは思えないほど肝が座っている少年のおかげで、ようやくカッシュも冷静さを取り戻した。悲劇の中心にいるのは自分ではない。職業騎士は民間人の模範とならねばならぬし、こんな時こそ年長者がしっかりしなければ示しがつかない。

 彼もまた精霊の加護を受けた騎士なのだ。苛立ちを隠さずに弱音を吐き、道理を知らぬ子どものように取り乱してしまえば、一度は契約してくれた精霊に見放され加護を失ってしまわないとも限らない。

 しぶとく残った負の感情を消し去るようにカッシュは咳払いをして、ゆっくりと椅子に腰かける。


「それで、君は? 精霊の加護を受けた騎士なんだろ? 領王に戦争を挑むって、どこの騎士団に所属しているんだ?」


「どこと言われると……。強いて答えるなら、一人騎士団ですかね。団長は他でもない僕です」


 すっと背筋を伸ばしてから、自身の胸にこぶしを当てて少年は見栄を切る。

 つまり仲間など存在せず、たった一人で戦おうというのだろう。

 これに唖然として口を開いたのはカッシュだ。

 己の耳を疑いたくなる。同時に少年の正気も。


「領王をぶっ倒すのには賛成だ。この街の人間だって本心では誰も止めやしないだろう。だが、分かってるのか? ロンドウィルの領王であるナァドルドは普通に戦って勝てる相手じゃないんだぞ」


「というと?」


「いいか、よく聞け。知っているかもしれないが、恐るべきことにナァドルドは相手を名で縛る精霊術が使えるんだ。名前を知られた人間は抵抗できず、限度があるとはいえ操り人形になる。しかも最悪なことに奴を守護する土地精霊がロンドウィル全域に魔法の糸を張り巡らせていて、それに触れると真名が見抜かれてしまう。偽名が通用しないんだ」


「その話ならよく知ってます。そのせいで村人もみんな苦しんだから。文句を言わせぬ重税、倒れるまで続く過酷な労働、命がけで行われる危険な魔物の討伐命令、悪趣味で遊びじみた懲罰の数々。……僕以外の村人は、ですけどね」


 少年の言葉を噛み締めるようにパンをかじって飲み込む。

 いつの間に全部食べてしまったのか、たった数口で手には何もなくなり、ちっとも満たされぬ空腹感を我慢してカッシュは指で口元をぬぐった。


「にわかには信じ難いが、君には名前がないと言ったか? 事情は知らんが、どうやら全くの嘘というわけでもなさそうだな。そうでなければ名で縛る術式を得意とするナァドルドに戦争を吹っ掛けることさえできんはずだ」


 残虐かつ非道な行いが多い領王を恨む人間が多くても、実際に歯向かって反乱を起こすことは誰にも実行できていない。ただの一般人はもちろん、特別な力を持つ騎士でさえも立ち向かうことができない。

 ロンドウィル・フェアリーイーター。

 それは精霊の中でも特に大きな力を持つ土地精霊の一種であるが、ロンドウィルを支配するナァドルドはその加護を受けているのだ。同じように精霊の加護を受けて精霊術が使えるとしても、より上位の土地精霊が相手では分が悪い。

 焼け石に水程度の生半可な力では、正々堂々と挑んでも太刀打ちできないだろう。

 もっとも、名前によって言動を縛られている領民の大多数にしてみれば、領王に反抗することを決意することさえできないのだが……。

 気づかぬうちにテーブルの上に置かれていたサービスの飲み物をぐっとのどに流し込むカッシュ。無味無臭の水ではなく、柑橘系の果汁と甘い砂糖が混ざった冷たい炭酸水だ。のどを痛めてせき込みそうになるのをこらえて一息に飲み込んだ。


「それで、これからの策はあるのか? 戦争するにしても君は一人なんだろ? 名を縛る術式の影響を受けないからと言って、本格的に武装した騎士団を抱えている領王が相手では無謀だ。単身で挑むには敵が大きすぎる」


 ロンドウィル騎士団の規模は三千人とも五千人とも、あるいはそれ以上とも言われている。なぜ数が正確でないかと言えば、名を縛る術によって領民を自由に動かせるナァドルドにとって、いつでも無抵抗な民を徴発して戦闘用の騎士や従士を増やせるからだ。必要とさえあれば、子供や老人でさえ危険な戦場の前線に送り込むことができる。反乱や逃亡者を一人も出さずにだ。

 最悪の状況を想定するなら、今この瞬間、ロンドウィルの住民すべてが少年を狙って武器を構えるかもしれない。

 少年の事情を知ったカッシュが敵対しないでいてくれるのは幸運だ。

 いつどこで本格的な戦闘の火蓋が切って落とされるかわからないのだから、のんびりしている余裕もなければ時間もない。本来、ここまで悠長にしゃべっている場合ではなかった。

 とはいえ、圧倒的に不利な状況があるだけに、今さら焦っても仕方がないことを知ってもいる少年は腰を据えたままだ。

 話題を変えてカッシュに尋ねる。


「カッシュさんはファナン家を知っていますか?」


「……もちろん知っているさ。ファナン家といえば、この街では領王であるナァドルドの次に有名な名前だ。いい意味でも、悪い意味でもな。それがどうした?」


「理由はともかく、知っているのならファナン家の屋敷がある場所を教えていただけると助かるのですが……」


「よかろう。お目当ての場所なら街の中心へ行って、そこから古くて大きな家が建ち並ぶ道路を進んでいけばわかると思うが……。まさかファナン家を頼るのか? 確かにファナン家といえばかつてはファスタンを治めていた権力者の一族だったが、今の彼らにそこまでの力はないぞ」


 現在、この街は領王の息がかかった無名の傀儡かいらいが治めている。公正な統治を目指したとされるファナン家は領王との政争に負け、今では完全に政治の世界から離れて暮らしているのだ。

 権力者としての支持を失えば軍事面でも経済面でも影響力が乏しくなり、これから始まる領王との戦争で助力を願うには少しばかり頼りない存在であると言わざるを得ない。

 だがそれは関係ない。

 最初から彼は自分が寄るべき大樹を探しているのではなかった。


「いえ、領王との戦争に直接は関係ありません。けど、僕には戦って死ぬ前にやらなければならないことがあるんです」


「やらなければならないこと?」


「はい。ある人に屋敷のことを頼まれたので」


 そう言って少年は立ち上がった。


「じゃあ、僕はこれで」


 そして扉へ向かって歩き出す。すでに死を覚悟しているのか、領王との戦争を前にしていても足取りに迷いは感じられない。

 きっと彼はこのままファナン家に行くのだろう。


「待て。君に貸しを作らせるわけにはいかない」


 鋭い声で呼び止めたのはカッシュだ。

 椅子に座ったまま顔だけを少年へ向け、声に反応して彼が振り返ったのを確認してから口を開く。


「魔物が巣食って屋敷全体が迷宮と化したファナン家の問題を解決することは、ずっと以前より領王から騎士団に命令されていることでもある。名を縛られているせいで君と領王との戦争には加勢できないが、それと関係がない魔物退治くらいなら手伝おう」


「いいんですか?」


「ああ」


 短く答えたカッシュは立ち上がり、座っている間ずっと脇に置いていた剣を手に持った。


「ちょうど非番だったんだ。運動する時間ならたっぷりとある」

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