精霊契約<エンゲッシュ>

一天草莽

第1話 名前のない少年(1)

 雲一つない青空をそのまま連れてきたような秋風が、地上付近のエサを探して低空飛行するサンガクオオワシたちを追いかけるように吹き渡った。ざあざあと音を立てて波のように揺れたのは海や湖ではなく、豊かに実り誇った一面の小麦畑である。

 平地では広大に、山間部ではせせこましく農耕地が続くロマンピア街道。

 街道といっても各所にある集落を離れれば閑散とした風景が見えるばかりで、人間社会と自然をつなぎとめる縫い目のように、山々に挟まれた一本の道がどこまでも伸びているだけだ。


「もうすぐ目的地に着くはずだけれど……。ガルム、ずっと走っていて大丈夫かい? さすがに疲れてない?」


「バウワウッ!」


 反対側からやって来る大型の馬車とすれ違うのも簡単なくらい広い道ではあれど、あえてその片隅を選んで、誰の邪魔にもならないようにと遠慮がちに走っている一組の旅人がいた。年のころは十代の半ば程度に見える一人の少年と、彼を背に乗せた四つ目のオオカミだ。

 オオカミはオオカミでも、魔力をかてにして生きるオオカミ型の精霊。

 雪のように白い毛並みが美しい、獣精霊じゅうせいれいのガルムである。

 両脇にそびえる山から吹きおろしてくる強風を避けるように前かがみになって、大切な友達の手を握るみたいに手綱を握る少年は最低限の旅支度しかしていない。着替えや食料など最低限の荷物を別とすれば、魔物や盗賊に襲われた時の護身用なのか、腰に一本の剣を下げているのみだ。

 同じく旅をする行商人や地元の農民などと何度かすれ違って、またある時には追い越して、のどかな農村が多く点在する北東部のノルディアン地方から、海路と陸路の双方による交易が盛んな南西部のウェルトリーブ地方へと向かう一人と一匹。

 ずっと古代に精霊の力を借りて整備されたとされる道を振り返りもせず、ひたすら南西へと進んでいく。


「ありがたいことに一本道だから道に迷うことはないけれど、さすがに遠いな……。それくらい田舎に住んでいたってことだけど」


「ハッ、ハッ!」


「あっ、いや、ごめんごめん。走っているだけでも大変なんだから無理に返事はしてくれなくてもいいよ。こっちは君の背中に乗らせてもらっているだけなのに疲れてきたんだから。さあ、無駄話はやめて進もう」


 朝から移動が続いているらしく疲れた顔をしているが、年相応の幼さを残した少年の顔はやる気と決意に染まっているようにも見える。一方で見るからに元気よく走るガルムは軽快な足取りのまま止まる気配もなく、休憩をする代わりなのか、四つあるうちの下半分の目を二つ閉じているだけだ。

 やがて少しずつ日が低くなってきたころ、一つ丘を越えた向こうのほうに、四方をぐるりと壁に囲まれた街が見えてきた。

 空へ向かって高く伸びる赤い石造りの時計塔や、いくつか突き出た尖塔が美しい教会の姿が巨大な壁越しにうかがえる。


「ふう、やっと着いたみたいだ。ありがとう、ガルム。早速だけど、お腹が空いたな……」


 無事に目的地へと着いてガルムの手綱を握りしめながら、開口一番、ため息とともに出てきたのは情けなさのにじんだ欲求だ。

 これから何をするにしても、万全の状態で動けない空腹のままでは問題がある。いかなる用事があったとしても食事は大事だ。街に入って最初の目的地は、何か食べることのできる店だと決まった。

 人口三十万を超えるファスタン。世界の中心と称される大陸の人間からは辺境と呼ばれることの多いウィルギス島の大部分を占めるロンドウィル領において、大陸に続く海に面しているおかげか、最も繁栄する街である。

 一般的に多くの旅行者や商人は船に乗って海から来るため、どちらかと言えば陸からの旅人は珍しい。


「よし、じゃあここで待っていてくれるかな。本当は精霊界アナザーに戻ってゆっくりと休んでもらいたいところだけど、念のため姿を現したままでいてくれるかい? 街の中なら大丈夫だと思うけれど、もし危なそうな人が来たら大きな声で吠えて教えてほしいんだ」


「ワン!」


「うん、ありがとう。そう鳴いてくれるとオオカミよりも犬に見えるから警戒されにくくなるかもね。えっと、そうだなあ……。しばらく時間がかかるから、疲れているなら見張りはやめて寝ちゃってもいいよ」


 日が暮れて危険な魔物が活動的になる夜の時間が来るまでは、素性の知れない旅人にも自由に開放されているファスタンの巨大な門。体格のいい大人が数人がかりで挑んでも開閉するのが大変そうな門を通り抜けて街に入ると、親切にも用意されていた案内板をちっとも見ずに適当に進んで、最初に見つけた定食屋の前でガルムから降りた少年は優しく背中をなでながら日陰で休んでいるようにと言いつけた。

 大通りをそれて脇道に入った場所だからか、都市の規模に反して人通りは少ない。ここなら飼い主がいない状態で待たせていてもガルムに危険はないだろう。田舎育ちで人間社会のことをよく知らない精霊本人もそう思っているのか、左上の一つを残して三つの目をつむったガルムは尻尾を内側にしまって地面に身を伏せた。

 旅の疲れを癒すべく、眠る体勢に入ったのだろう。

 そんなガルムの姿を見て安心した少年は店の窓ガラスを鏡代わりにして身だしなみを整えてから、扉の上に「やすらぎ食堂」と書かれた古ぼけた看板が掲げられている店へと緊張したまま足を踏み入れる。


「おや、いらっしゃい。幸いにも今は客で混雑しがちなランチタイムを過ぎていて、いくら気が早くても豪勢なディナーを食べるには早いから、ちょっと暇なくらいに空いてるよ。あっちでもこっちでも、どこにでも好きな席に座りな」


「えっと……」


 どこにでも座っていい、と言われて悩んでしまった少年は困ったように頬をかいて足を止める。

 にっこり笑って腕を組んでいる店主が目の前に立っているカウンター席の他に、椅子が四つで一組になっているテーブル席がいくつかある店内。暇なのは本当らしく、食事に興じている客の姿はほとんどない。

 どこにしようか迷った末にまずはカウンターへ行って銅貨をばらばらと出しながら、不必要に警戒されないよう愛想をよくして、二十代か三十代か判断が難しい店主の女性に微笑みかける。なぜ年齢を気にしたかというと、彼は自分よりも年上の人間とコミュニケーションをとった経験がほとんどなかったからである。


「すぐに準備できて、お腹にたまるものが食べたいんです。あんまりお金はないんですけれど、おすすめをいただけませんか?」


「じゃあこいつだね」


「これは?」


「ウィンナブルと呼ばれる、適度な長さに切った羊の腸に詰めた豚肉を蒸して焼いたものを挟んだパンさ。ここらで取れる良質な小麦を使ってただでさえ美味しいパンに、数種の野菜と卵を煮込んだ秘伝のソースが塗ったくってある」


 ほら、と言って渡されたパンは焼きたてなのか温かく、あえて説明されなかったが隠し味にスパイスかハーブを混ぜているようで、ウィンナブルとソースから漂ってくる美味しそうな香りが鼻腔をくすぐった。

 いつもより昼食の時間が遅れて腹の虫が騒ぎ始めるほど空腹だったこともあり、初対面の人間に対する緊張が解けるとともに、うっかり口元が緩んだ少年は思わずよだれを垂らしそうになる。


「すごくおいしそうですね。ありがとうございます」


 牧歌的な雰囲気のある田舎に比べて都会の人間は冷たいところもあると聞いていたけれど、わざわざ食べ物の説明までしてくれるなんて優しい人だ。そう思った少年は気分をよくしたまま見晴らしのいい窓際の席について、我慢ならずにパンをかじろうと大きく口を開けた。

 だが、どうだろう。

 せっかくの食事を邪魔するように、派手な耳飾りをつけた赤髮の青年がどかどかと慌ただしい足音を立てて店に入ってきたではないか。


「おい、店主、この店の外に精霊がいるぞ。ここらじゃ見かけない珍しい精霊だ。この街の秩序を守る騎士の定めとして危険な精霊は退治せねばならんが、どうやら野良じゃないらしい。誰か知ってるか!」


 最後の言葉は店主に対してだけではなく、客として訪れている少年を含む店内の人間すべてに聞こえるように大きな声で発せられた。

 おそらく、ただの興味本位から出てきた問いかけではないだろう。人間を襲いかねない危険な精霊ならば問答無用で退治するという警告を含んでおり、万が一の場合も想定した質問だ。

 おすすめされたパンをゆっくり味わいたいのもあって、食事中は誰とも会話するつもりがなかった少年だが、おとなしく外で待ってもらっている大切な友達が退治されかねないと聞いては黙っていられない。

 座ったまま顔だけを向けて、やや大きな声で答える。


「ガルムです!」


「ほほう、そりゃお前の名前か? それとも店の軒先で待っている可愛いペットの名前か?」


 先ほどよりは低い声で、厳しく問いただすように少年のほうを向いた青年。平均よりも背が高く、普段から鍛えているのか体格もよく、腰には剣も下げていて顔つきは鋭い。

 あくまでも表情は穏やかなので感情は読めないが、あまり歓迎しているようには見えない。

 もっとも、まさか店内で剣を抜いて、いきなり斬りかかってくることもないだろう。不出来な嘘や中途半端な言い訳を口にするくらいなら正直に言ったほうがましだと、立ち上がることはせず堂々とした様子で少年は答える。


「ペットじゃなくて、相棒の名前です。自分でそう名乗ったから僕もそう呼んでいるんです」


「……自分でって、あの精霊はしゃべるのか?」


「機嫌がよければ。ただ、なまりが強いので僕以外の人には犬やオオカミといった動物が鳴いているようにしか聞こえないみたいですが」


 ふんっと鼻で笑った青年はすたすたと歩いてきて、許可を求めることなく少年と同じテーブルに着く。

 正面から向かい合う席だ。

 手で殴ろうとするには遠いが、剣ならば十分に届く距離。


「猫がしゃべるというので見に行ったら普通にニャンニャンと鳴いていて、飼い主が勝手に人間の言葉として受け取っていただけだったっていう親バカな話があったが、君が言うそれは違うと見える」


 興味と関心に警戒を混ぜた表情でにじり寄ろうとした彼の言葉だったが、少年が何か答える前に店主の女性によって遮られた。


「おい、あんたは同じのでいいのかい! どこの誰だろうと客じゃないのなら今すぐ出ていきな! それとも私に追い出されたいのかい!」


「わかったわかった、追い出すのは待ってくれ! 俺も客だ! 注文なら、この少年と同じもので頼む!」


 街の騎士としての大事な話を邪魔されてはならぬと店主の方を向いて、中腰になって店の奥まで響きそうな大声を出した後で、わざとらしく肩をすくめた青年。

 いきなり怒鳴ったことを謝るように、正面に座る少年に対しておどけて見せる。


「君のを見ていたら俺も欲しくなった」


「おすすめらしいですよ」


「それはちょうどよかった。……で、おとなしく外で待っているのは君の契約精霊なのか? それとも単にしつけがいいだけのペット精霊か?」


 聞いているのはガルムのことだろう。

 一から十まで正直に答える必要はないかもしれないが、ここで話をはぐらかしても面倒になるだけだ。人に害を及ぼす危険な精霊だと判断されて退治されても困るので、ちょっぴり考えた末に少年は答える。


「さっきも言いましたけどペットじゃなくて僕が契約している大事な相棒です。むやみに人を襲わないようにと念を押して言い聞かせてはいますが、精霊ってのは人間の道理が必ずしも通じてくれるわけじゃないですからね。ガブリと噛みつかれたくなければ、可愛いからって不用意に近づかないほうがいいですよ」


 少年が連れてきたガルムは動物で例えるならオオカミに似た姿をした獣精霊だ。人間の頭くらい平気で丸呑みできそうな口についている牙は太く鋭く、本気で噛みつかれるとただでは済まない。

 どこまで本気で怖がっているのやら、ぶるぶると芝居がかって全身を震わせた青年は軽くため息をついた。


「だったら挨拶代わりに頭をなでるのもやめておこう。店の前にいるガルムというのが精霊で相棒だとすると、じゃあ君は精霊の加護を受けた騎士なのか?」


「……ええ、まあ」


「それで契約精霊と旅をしている?」


「そうなりますね」


「ふうむ……」


 ガルムなどという、一歩間違えば人を襲いかねない危険な精霊を連れた旅人の素性を明らかにしようと険しい顔をする青年に対して、まるで危機感もなく無警戒に少年が受け答えしていると、呆れた顔をする店主が皿に乗ったパンを運んできた。


「人の店で尋問を始めないでくれるかい? 騎士様」


「おいおい、尋問だなんて人聞きが悪いな。ただの世間話じゃないか」


「出会ったばかりの相手に根掘り葉掘り聞くのは迷惑だよ。ほら見てみなよ、あんたが話しかけるから一口も食べれてないじゃないか」


 何かを食べながら人と話すのが苦手なのか、彼女の指摘通り、話し相手になっている少年はパンを手に持ったまま口に運べていない。ずっと話しかけられていたので、お預けを食らっていたのだ。

 外で待っている行儀のいい精霊は飼い主に似たのかもしれない。さすがに申し訳なく思ったのか、やれやれと肩の力を抜いた青年はいったん口を閉ざす。

 代わりに口を開いたのは店主だ。

 もう片方の手に持っていた皿を少年に突き出す。


「ほら、これは店の前で待っている精霊にやりな」


「あ、ありがとうございます」


「なんだ? ミルク付きとは俺よりも豪華じゃないか。どうやら俺にはないみたいだが、ここの店は人間には水しか出さない方針なのか?」


「違うよ。精霊には無償で、人間からは金をとるだけさ。ミルクが欲しいなら注文して金を出すんだね。……それより騎士様、あんたも精霊と契約を結んでいるんだろ? なんたって精霊と契約を結んだ人間のことを騎士と呼ぶんだからね」


「そうだとも。精霊と契約していない騎士団員は従士と呼ばれるから、この街に限らず騎士はみんな何らかの精霊と契約している人間のことだ。そうすることで加護を得て、契約した精霊に応じた精霊術が使えるようになるからな」


「だったら普通に働いている私らなんかよりも豊かで便利な生活を送れているんじゃないのかい?」


「豊かの定義にもよるが、まあ、普通はそうだろうな。その分、できる限りの範囲で騎士としての務めや責任を果たそうとは考えているさ。それに、騎士は精霊の加護を得るために精霊契約と呼ばれる特別な代償や制約を受けていることが多いんだ。必ずしも豊かで便利な日々を送れているわけじゃない」


「精霊契約っていうと、噂に聞くエンゲッシュのことか……。本や演劇になっている英雄物語ではよく見るけど、私にゃあ気安く声をかけられる騎士の知り合いはいないから実際に見聞きすることは少ないね。多くの悲喜劇を演じているあれだろう?」


「多くの悲喜劇を演じているって、どんな物語を見ているかにもよるが……。ともかく、俺の場合は『誰かに借りを作ると、それを返すまで力が弱体化してしまう』という面倒な契約がある。だからあまり人と群れないように生活しているんだが、もとからそういう性格だったこともあって不便はないな」


「ふうん……」


 そこでちらりと店主が少年の方を見た。

 無言ではあるものの、きっと精霊契約について尋ねられたのだろうと思って、やはり素直に少年は口を開く。


「僕は『相手の精霊契約を一つだけ見抜く』というものです。使うためには条件がありますが……」


「条件?」


「相手に”殺意”を向けられること」


 それを聞いた青年が深々と椅子に背を預けて、余裕たっぷりに腕を組む。


「ははーん。だったら俺の精霊契約は見抜けなかったわけだ」


「はい。ですから、あなたに殺意がないこともわかります」


 本当に安心しているのか、ようやくパンを一口食べた少年。

 それを見た店主も安心したようだ。


「ま、ゆっくり食べな。”世間話”が好きな騎士様の相手が大変だろうからね、これは私が外の精霊に渡してくるよ」


 そう言い残した彼女が二人の座る席を離れて店の外に出たのを確認して、警戒を解いた青年は大げさに両腕を広げた。


「ひとまずは歓迎しよう。どこから来たのかは知らんが、あまりにのんきで純朴な君の様子を見ている限り、おそらく事情を知らずに海を渡ってファスタンを訪れた旅人だろうからな。俺の名はカッシュ。カッシュ・ネイナードだ。この街で職業騎士をやっている」


 テーブルの上に真っ直ぐ手を差し出してくるので、パンを持っていない逆の手で少年は握手に応じた。


「なら、あなたには目を付けられないようにしないといけませんね。せっかくファスタンに着いたばかりなのに追い返されかねないですから」


 これで話は終わりかと思って手を離そうとした少年だったが、にやりと笑ったカッシュは力を込めて簡単には手を離させない。残念ながら食事はまたまたお預けだ。


「こちらは教えたのに、君の名前を教えてはくれないのか?」


 また尋問である。少年は苦笑したくなってくるのを抑えて穏やかに答える。


「教えたくても教えるのは難しいですね。なにしろ僕に名前はないんです」


「名前がない? ……名前が?」

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