第4章 2051年某日

 石松が時空から消えて30年の月日が流れていた。

 振り返れば2019年に発生した新型コロナウイルスと人類の戦いは今も続いていて、圧倒的にウイルス有利のまま、人類はその数を毎年かなり減少させていたのである。

 戦いの当初、人類はこの感染症に対抗するための手段として、人流を抑えるためのロックダウンや消毒やマスクなどによる蔓延防止策と共に、最も効果的な手段であるワクチンと新たな治療薬の開発に取り組んだ。ワクチンや新薬の実用化に至るまでには、研究開発、製品化、安全性試験などに年月を要するものだが、新型コロナウイルスが世界的に凄い勢いで広がりを見せ、つまりパンデミックであったため、時間的な余裕がなかったというのも事実であった。

 結果、確かにワクチンは出来たが、十分な検証もなされぬままに、実践に立ち向かうことになったのである。しかしながら当初危惧していた大きな問題も起こらずにワクチン接種は進み、それなりの結果は得られ、誰もが新型コロナとの闘いが終息に進むと信じて疑わず、人類の危機が脱したかのような流れに向かった。ところが、その時はその後始まる人類滅亡の膨大なシナリオの序章に過ぎなかったのである。

 数年後に強力な変異株が出現し、それに感染すると症状が重篤化し、ほぼ死に至るという現象が突如起こったのである。そして、その後人類はそのウイルスを抑え込むことができずにいる。しかも、この人類の危機はある国家によって長期にわたり綿密に計画されたシナリオだったのである。

 その国家とは、当時の先進国と呼ばれる国々に地球のかじ取りを任せておくことに限界を覚えていたインフルエンサー達によって、ユーラシア大陸の一部に広大なウイルスフリーゾーン、通称万里の長壁を造り、世界中から優秀な人材が集められて造られた特別な国家だったのである。----------地理的にはチベットの山奥ということになるが、その正確な位置と統治する国家は誰にも特定できるものではなかった。またこのプロジェクトはどこの誰が仕掛け人になっていたかという情報も皆無であった。しかし当初は世界中が恐らく中国政府が何らかの形で関わっていると決めつけていた。しかし後中国政府が正式に明らかにした声明によると、当時のインフルエンサーには数名の中国人もいたが、あくまで世界各国から集められた人材であり我が国家の関与は全くないということであった。--------------


 そして中国政府の声明からすると、この呼び方は相応しいものではなくなったが、その万里の長壁の内部に生活する人々はウイルスに感染せず、一方外側の国々の多くは真綿で首を絞められるようにゆっくりだが確実に人類滅亡のカウントダウンが進むわけだが、その違いはいったい何だったのだろうか。

 それは、単に長壁で隔離したからという訳ではなく------実は-----ワクチンの型の違いであったのだ。しかも、ある種の型がいずれ登場するであろう最強変異株感染によって症状を重症化させ、死に至る可能性が高いというエビデンスが後に万里の長壁内から発表されたのであった。

 では、その型が何であったのかについて、ワクチンの種類と開発経緯から振り返ってみよう。


 細菌やウイルスと戦うために人類が生み出した最強の武器-----、それがワクチン。これは侵入してきた外敵をやっつけるための抗体を前もって作っておくことで免疫を獲得するものである。

 その抗体の作り方によってワクチンの種類がいくつかに分類される。古典的なものとしては生ワクチン、不活化ワクチン、組み換えタンパクワクチンがある。

 さらにバージョンアップされたものとして核酸(mRNA、DNA)ワクチンとウイルスベクターワクチンがある。

 当時コロナウイルスについてはネコでの研究が進んでおり、このウイルスの特徴として、生ワクチンと不活化ワクチンには問題があることを複数の学者らが指摘していた。そんなわけで、自然と新型コロナウイルスに対するワクチンはmRNAワクチンとウイルスベクターワクチンで進めていこうというながれで開発が展開された。当初この流れに疑問を持つ者は誰もいなかった。

 これらのワクチンが既存のワクチンと大きく異なる点は、既存のワクチンはウイルスのタンパク質の一部を入れて人体に直接抗体を作らせるのに対し、新型のワクチンはタンパク質の一部を作らせるような遺伝情報(設計図のようなもの)のみ人体に投与し、まず人体にタンパク質を作らせておいて次にそのタンパク質に対する抗体を作らせるというものであった。そして、mRNAワクチンは遺伝情報のみから作られたワクチンで、ウイルスベクターワクチンは同じ遺伝情報を害のない別のウイルスに埋め込まれたワクチンであった。

 また、新型コロナウイルスは人体に侵入した時、表面ある星形のスパイクタンパクを細胞に接触させて、そこから細胞内に入り込むことで感染するので、そのスパイクタンパクに対する抗体を作ることがワクチンの目的であった。いずれのワクチンも体の中で新型コロナウイルスのスパイクタンパクに対する免疫が作られ、ウイルス本体がが侵入してきた時にそれを殺してしまう仕組みであった。


 結果出来上がったのが2種類のワクチンであった。

 当時、先進国の多くの人々はmRNAワクチンの通称「メガアマゾネス1」を選択したのであった。そして、ワクチン接種が普及し、ようやく集団免疫と言えるほどの免疫効果が表れたころである。このワクチンを選択した国々にある変化が見られるようになった。

 変異株の出現である。

 もちろん初期の変異株のほとんどは、単にワクチンの効果が不十分か、最悪でも効果がない程度の株であり、当然ワクチンもバージョンアップすることで防御できるという想定内のものであった。しかし、数年後に出現した変異株に対してはメガアマゾネスを接種している人々が感染を受けると症状が重篤化し、ほぼ死に至る事態に襲われた。つまり、メガアマゾネスを選択した人々だけに、ワクチンによって作られた抗体による感染増強作用がでてきてしまったのである。

 そして、このメガアマゾネス1の開発当初から、このワクチンを使い続けたら起こりうる最悪の事態を長壁内にある国家は予測していたとのことで、当然のことながら感染増強作用のリスクが少ない、もう一方のウイルスベクターワクチンである通称「スーパーインディア1」を選択していたのであった。しかし当初は多くの学者はスーパーインディア1についての効力は、もう一方に比べてかなり弱いという見解であったことは知られている。

 その結果、長壁の国家だけが繁栄し、外の国々は強力な変異株によるパンデミックのため国力が徐々に衰退していくのであった。ただ、決して無策だったわけではなく、万里の長壁の技術を真似た小規模なウイルスフリーエリアを徐々に増やし、生き残るための感染防御を完璧にしていったのである。そのため、長壁の内と外の間のテクノロジーの格差はそれほどみられなかったのは幸いであった。

 しかしながら、実際にはその進歩したテクノロジーの恩恵を最初に享受できるのはウイルスフリーエリア内の人々であり、結果、内外の格差は徐々にだが広がる一方で、不満や恐れから内戦やテロ、国家間の衝突も多発し、さらにAIロボットやドローンによる犯罪やサイバーテロなども加わり、エリアの中もいつ侵略やウイルスの侵入が起こるかわからないほど、地球は荒廃していった。

 当初から人々は最後の希望として万能薬としての抗ウイルス薬を待ち望んでいた。しかし、2050年に新薬のプロテアーゼI.H2050が開発された時にはすでに人類は復興が難しい状況にまで追い詰められてしまっていたのである。


 そんな混乱した世情の中、獣医師の松原優希は55歳になっていた。行政の医療センターで研修後は民間の高度動物医療センターに就職し、外科部長として臨床を続けていた。そこは幸いにもウイルスフリーエリア内だったのである。

 多村はといえば、病院を閉め故郷の清水に帰り動物保護団体の相談役をしていたが、20年前にコロナウイルス感染により他界した。駿河は矢作獣医科を辞めた後は静岡の動物病院に転職したが、その後の消息は不明であった。



「イシちゃん、梅蔭寺のリモート墓参に繋いでくれる。」


 優希は1日の仕事を終えて宿舎に戻っていた。イシちゃんとは彼女が名付けたAIロボットの愛称である。今日は多村の命日であった。


「多村先生、先生とお別れしてもう20年が経ちましたね。

 世の中は随分と変わってしまいましたよ。

 先生が御心配されていたようにコロナとの闘いはまだ続いていて、世界の情勢はどんどん悪い方へ向かっています。

 石松もあれから戻りませんでした。どこへ行ってしまったのでしょうね。

 ああ、私はこれから何を希望に生きていけばよいのでしょう・・・ ・・・。

 先生、何とか私の願いを1つだけ叶えてくださいますか、それは人類がプロテアーゼI.H2050と記した歴史をプロテアーゼI.H.2020と書き換えて・・・ ・・・。」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る