第11話 渡辺家の一員になったマリリン

「もしもし、夜分恐れ入ります。多村先生でしょうか。

 私、犬3匹と猫2匹でお世話になっている渡辺と申します。おわかりですか?」


「はいはい、多村です。もちろんわかりますよ。

 どうしました、誰か急患ですか。」


「はい、いやいいえ、というか家の子ではないのですが、今犬の散歩に出たら野良ネコちゃんが動けなくなっているのを保護して段ボールに入れてあるのですが。」


「ああ、分かりました。意識はありますか、呼吸はしていますか、出血はどうですか、動いていますか。」


「せ、せ、先生、何から答えましょうか。」


「全部です。早く。」


「はい。うちの旦那が噛まれて出血してますが。」


「いや、人のことではなく、ネコの様子ですよ、しっかりしてください。」


「そうでしたね。わかりました。

 段ボールの中で暴れていますが、後ろ脚が両方とも動かないみたいで前足だけでうろうろしてます。生きてます、結構元気なようです。

 恐らくこの血液、これはうちの旦那の血ですね、汚いから。」


「いやいや、猫も人も血の色は同じですよ。よく確認してください。まして旦那さんの血が汚いわけないでしょ。」


「ノラちゃんみたいで、とてもワイルドなんで、怖いんですけど。触れないわ、怒っているもの。」


「分かりました。

 状況からするとネコちゃんは交通事故に遭った可能性が高いですね。

 となると、救急処置と全身的な検査も必要ですし、場合によっては緊急手術が必要かもしれません。

 当院では今の時間は対応できかねるので、提携している夜間救急病院をご紹介しますから、連れていくことは出来ますか。」


「大丈夫だと思います。場所はどちらですか?」



 渡辺夫妻に保護された野良ネコは、夜間救急病院へ搬送され、入院して初期的な救急処置を受けた。数日経過し、転院の許可が出たため、タムラ動物病院で入院治療を引き継ぐこととなった。


「おい、石松さんよ。午後ね、交通事故でケガをした例のノラ猫さんが救急病院から転院してくるんだよ。来たらじっくり話を聞いてくれないか。どうやら人に慣れていないようだからね。」


「いいよ、俺の得意なところでっせ、何処で事故ったのかい。」


「目黒通りと聞いてるけど。」


「じゃあ俺のシマじゃないか。俺が知らなくてもノラさんで俺を知らない奴はいないから大丈夫だぜ。」


「送られてきた報告書を見るとまだ若い女子だということだ。優しくしてやってくれ、心身ともに傷ついていると思うからね。」


「わかったよ。これまた高くつきそうな仕事になるな、やれやれ。」


「なんか楽しそうな顔つきだけど、しっかりケアしてくれないと困りますよ。報酬に見合った。」


「はいはい、それでケガの状態はどうなんだ、まさか生きるか死ぬかなんて言わないでくれよ。俺の仕事は成功報酬だから。」


「命に別状はなさそうだよ、幸いにも。でもねー・・・ ・・・。」


「何だい、手術が必要なのかい。」


「いや、それで治る様なものならよかったのだけれど、レントゲンを見ると脊椎をやられちゃって後躯麻痺、排便排尿障害もでているということだよ。

 生涯、慣れていない人間の世話になるしかないようだ。

 まずは人に心を開いてくれないと難しいね。」


「オムツ生活ってことかい。」


「いやそうじゃない。自分では排尿と排便ができないんだ。だから人間がサポートして腹部を優しく圧迫してやるんだよ。」


「そりゃあ、屈辱的だなあ。自尊心が強い俺たちが我慢できるかい、そんなことをやられて。」


「やってもらわないと困るよ、生きていけないから。

 ただ、サポートする方も毎日のことだからそれなりの覚悟が必要だし、猫の方も人のサポートを受け入れてくれるかどうか、問題は大きそうだな。

 治療と飼い主さんへの指導は私が全力でいくから、その猫の心のケアはそちらでよろしく頼むよ。」


「俺も全力で行かないとまずい案件になりそうだな、やれやれ。」



 今日は交通事故に遭ったネコさんが保護した渡辺夫妻に連れられて、夜間救急病院からタムラ動物病院へ転院してくる日である。診察室に入るなり夫人が興奮気味の声で先生に話しかけた。


「先生、この子、マリリンという名前にしました。」



 突然後ろから大柄のご主人がしゃしゃり出て、これまた興奮気味に話しだした。


「先生、マリリンは本当に治りませんか。一生、今の状態ですか、後ろ脚はもうだめですか、排便も排尿も、僕がサポートしなければ・・・ ・・・。可哀そうです。どうにかなりませんか。」


「そうですね。先ほど救急病院からのデータをじっくりと拝見しました。そうとう大変な事故でしたね。よくぞ助かった。良かったじゃないですか。

 そして偶然にもあなた方の目に触れてこうして命が繋がったと思うと、私も嬉しいですよ。

 野良ネコちゃんだし、これからのことを考えると安楽死という選択肢も獣医師から提案されたようですけど、よくぞ命を繋げる決断をしてくださいましたね。ありがとうございます。マリリンに変わって感謝しますよ。

 さて、残念なことに、マリリンちゃんの機能が回復する見込みは、現代の獣医学では難しいと思いますが、しっかりと人間が介護してあげれば寿命は全うできると思いますよ。

 ちょっと診させてください、マリリンさんを。」


「先生、まだ慣れてなくて怖いんですけど、是非診てください、うちのマリリンちゃんを。」


「多村がキャリアーの中を覗くと、マリリン女史は、思いっきりシャーと何度も怒鳴っていた。」


「あら怖いねー。マリリンさん。

 看護師さん、タオルにやさしく包んでキャリーから出してあげてください。

 ご主人がマリリンさんの世話をするおつもりですか。」


「当然ですよ先生、私は野良ちゃんは触れませんから、怖くて。」


「おい君、マリリンちゃんと呼んでくださいね。」


「その通りです。名前があるのだから、野良ちゃんはもうやめましょう。

 さてご主人はマリリンさんの膀胱の位置はわかりますか。というのも、お腹の外からそこを絞って排尿させてあげるわけですからね。

 まずは、位置の確認を肉眼でしてもらうために、エコーでみてみましょうか。

 看護師さん準備お願いします。」



 2人の看護師はマリリンの上半身をタオルで包み込み、下半身だけ出して仰向けに寝かせて抑え込むように保定した。多村は慣れた手つきでエコーのプローブを腹部に当てた時、一瞬であったが驚きの表情をした。渡辺さんの奥さんは先生の近くにいたために、すかさず、口を開いてきた。


「先生、マリリンさん、どこか悪いのですか。」 



 多村はその質問に答える準備が全くなく、明らかに動揺しているという感じであった。しかし多村は、やはりベテランであり、飼い主からの幾多の難問にも耐え抜いてきた技を持っていた。


「うーん、最近あまりエコーを使っていなくて、プローブを左右反対に持っていたので画像が逆になっていました。大変失礼しました。

 さて、ここの黒い塊が見えますか、丸い奴。これが膀胱です。膀胱の中は尿、つまり液体ですね。超音波の画像では液体は黒く映ります。わかりましたか、そこです。」


「ええ、よくわかりました。そこが膀胱ですね。そこを絞れば尿が出るわけですね。」


「そうです、ちょっと見ていてくださいね。」



 そう言うと多村はプローブを固定して、逆の手のひらで膀胱を絞って見せた。


「どうですか、やってみますか。」


「はい触らせてください。風船を触っているような感覚があります。」


「ええそれです。ちょっとだけ力を入れて握るようにしてみてください、尿が出てきますから。」



 恐る恐るご主人は先生の指示通りに手に力を入れてみた。陰部の方から尿がゆっくりと漏れ出してきた。


「せ、先生、出てきました。これでいいですか。」


「いいですね、案外簡単にできましたね、コツはすべて出し切らないで、ほどほどで止めておき、1日に2回くらいサポートしたら、膀胱炎にもなりにくいし、ご主人の負担にもならないでしょう。

 できそうですか。でもしばらくは病院で管理しますけど、練習に通える時間はありますか?」


「大丈夫です。私は自営だから時間の融通が利きますので、毎日来ます。とりあえずは・・・ ・・・。」


「そうですか、まあ幸いでした。時間が取れるようで。」



 さて、エコー検査の時、多村を一瞬動揺させたマリリンの体の異変とは何だったのか?今回は飼い主に圧迫排尿を指導することが目的だったため、混乱を避けるため敢えて飼い主には伝えなかったのだが・・・。

 マリリンのエコー検査で新たな問題を見つけた多村、渡辺夫妻が帰った後、直ぐに石松を呼んだ。


「石松さんよ、ちょっと厄介なことになっちまったよ。」


「なんだい、俺のスマートな助けが必要かい、腹も減ってるし、条件次第では力になるぜ。」


「おおそうかい、ありがたいね。先日の案件さ、マリリンさんに納得してもらいたいことがもう1つでてきてしまったんだよ。しかも、どちらかというと、今回のほうが機微な案件だな。」


「おいおい、人間におしっこを出してもらうことよりも機微な案件なんて、ちょっと聞きたくはないなー。」


「そうだろ、おまえさんでもそうだろうな。言い出しにくいことは、猫でも人でも同じだからね。」


「まあいいよ、言ってみな。あんたと俺の間には壁はないんだから。」


「親分、いいことを言うじゃないか。じゃあストレートに話してみるよ。

 実は、さっきエコーでマリリンさんの腹部を診た時なんだが・・・ ・・・。」


「先生、先生、決めた以上はスマートにいこうぜ、スマートに。もう後戻りは無しだぜ、進んでいこうや。進まなければ解決もしないぜ。」


「あ、その通りだ。

 実はマリリンさんのお腹の中には数匹の胎児が、まだほんの小さな命だが認められたんだ。

 さて、どうする。」


「それを聞いた石松親分、今度は黙ってしまった。」


「さあ親分、どうしようかね。おまえさんの意見を聞かせてはくれないか、出来たら早く。」


「まあせかすなよ、確かに機微な案件だね。イナバのチャオチュールではさばききれそうにないね。このやまは。」


「そうだろ、私も悩んでるのだよ、どうすべきか。」


「おいおい先生、どうすべきかを悩んでいるのですかい。そいつはちょっと俺とは違うかもね。

 俺が悩んでいるのは、どう話すかってことよ。」


「というと、どうするかはすでに決定かい。」


「あったりめーよ、先生。堕胎してくれるのじゃないのかい、先生が。まさかマリリンに出産させるなんて、そんな酷なことはさせないよなー、いくらなんでも。怪我だけでも大変なことだったのに。」


「親分の言うことは正論だ。私もそう思うのだが、あの一途なご主人が、納得してくれるかどうかなんだ、悩ましいのは。絶対に産ませてくれと言いそうなんだよな、彼は。」


「でもよ、可能なのかい、そんなことマリリンの体で。」


「可能か、不可能かと言われれば、可能だね。でもかなり母体に負担はかかってくるし、人のサポートも半端なく大変になってくる。」


「そうだろ先生。でもな、こんな考え方もあるだろ。もし渡辺さん達が仮にマリリンの子供の5匹なら5匹を育てたり面倒を見たりする気持ちがあるのなら、その分人間たちが殺処分している俺たちの仲間をぜひとも助けてくれた方が俺たちもマリリンも納得すると思うのだけど。そういうことならマリリンの堕胎は価値のある手段に繋がるよな、先生、どうだい。」


「そいつは名案だ。その線でまずはマリリンさんに話してくれないか。私は渡辺さんたちに話してみるから。」



 翌日、渡辺夫妻がマリリンの尿を絞る練習に来られた。多村はマリリンの妊娠を伝え、出産と堕胎手術のメリットとデメリットを説明したうえで、石松の意見も参考に堕胎手術を勧めてみた。


「どうですか、渡辺さん。私の考えを受け入れていただけますか。」


「そうだったのですか、もちろんです。マリリンちゃんだけでも大変なことは十分この人も分かってますし、これ以上猫は飼えませんし、里親さんも探すのは難しいこともよくわかっていますから、マリリンちゃんに危険な手術でないのなら、ぜひお願い・・・ ・・・。」


「な、何言ってるんだ、勝手なことを。人にひかれてこんな姿にさせられた上に、子供も奪ってしまうなんて、僕にはできません、先生。それはひどくないですか。」


「あんた、先生はマリリンちゃんのことをもちろん第一に考えてくださっているのよ、動物の先生なのだから。ばかね、分からないの、先生がおっしゃっていることが。」


「まあまあ奥さん、そんなに興奮しないでください。まだ時間はありますよ。ご主人も急な話だったから考える時間が必要でしょう。」



 さて、マリリンは出産か、堕胎手術か、渡辺夫妻の決断は如何に。その決断が渡辺夫妻に迫られていた。


「ご提案なんですが、猫のボランティア活動をしている女性がいます。その方をご紹介しますから、一度意見を伺ってみたらどうでしょう。

 それはそうとご主人に一つ質問があります。

 いま日本ではかなりの数の犬や猫が動物管理センターで殺処分されているのは御存じですよね、そこでそういうことは何とかやめにしようと、地方自治体の首長たちが、自分の所では殺処分動物を0にすると選挙公約なんかで偉そうにいっているのですが、今まで殺処分されていたかなりの数の保護犬や保護猫はいったいどこへ行くと思いますか。」


「先生、政治なんてそんなもんです。きれいごとだけ言っていれば良いのです。必ずどこかにしわ寄せがきているはずです。」


「例えば、どこだと思いますか。」


「ボランティアのところに残っている猫が増えるとか、ああそう、多頭飼育崩壊、なんてニュースをたまに見るけど、それもそうじゃないですか。」


「その通りです。野良猫に餌をあげるだけではなく、しっかりと避妊、去勢して、まあその辺は行政が積極的に介入してもよいと思うけど、野良ネコちゃんたちの数をコントロールしていかないと、不幸な猫ちゃんたちが増えすぎてしまう。今はまだ増えすぎている状態ですね。」


「先生、わかりました。マリリンさん堕胎してください。僕はそのかわり、いやその代わりということではなく、一生懸命に彼女の世話をし、幸せな半生を送ってもらいます。」


「分かっていただけたようですね、奥さん。」


「はい、良かったです。流石、私の旦那です。この人は昔から物分かりが良かったのよ。」



 その後マリリンは無事に手術を終えて、傷が癒えるまでは膀胱絞りのサポートが難しかったため入院をしていたが、毎日ご主人が面会に来ていたせいか、彼にだけはすっかり心を許すようになっていた。


「おい石松さんよ、マリリンさんは今回の手術、どう思っているんだ。やっぱりショックだっただろうね。」


「先生ほどのキャリアーでも、考えていることはそんなもんなんだな。」


「おいおい、ちょっとむかつくぜ、その言い方は。」


「すまん、すまん。でもね実はマリリンは先生に感謝しているし、身軽になって喜んでいるよ。」


「ええ、なんだって。」


「そうさ、今までマリリンが産んだ仔猫たちで、運よく親切な人に拾われて幸せになったのは、ほんの一握りで、大半は事故やカラスにやられたり、食べるものもなく死んでいったのさ。

 マリリンも、そういう連鎖をどこかでいつか断ち切りたいと心底思っていたんだよ。」


「何か、それは悲しい話だけど、現状だね。私たち人間の責任だな。」


「もちろんマリリンだって、子供たちが全員、人間と楽しく平和に過ごしていける世の中を夢見ていることは事実だと思うさ、でも現実はねー。」


「分かってるさ、私も同じ気持ちだよ。人間は自分たちのためなら時として残酷になってしまうこともある。都合の良い時だけ動物に癒しを求めて、面倒になったからといって簡単に放棄する輩も後を絶たない、なんとかしないとね。」


「先生、そこまでわかっていたら、あんたがなんとかしてくれよ。」


「残念ながら、私にそんな権力も権限も、なにもない。それが現実だ。」

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