第6話 心優しき勤務医の話
「石松さんよー、この前みたいに私たち獣医師を最高に褒めてくれるようなお話はございませんか。
世の中、暗いことばっかりで私のモチベーションも下がりっぱなしだから、盛り上がる話を聞きたいね。」
「ああ、あるある。俺の義理のじいさんに聞いた話で、実際にじいさんが体験したことだよ。それはそれはいい話だぜ。先生にはぜひ聞いてもらいたいと思っていたところだ。」
「身内に伝わってきた話は途中で盛られてくることが結構あるからなあ。信じがたいこともあるが、まあ、聞かせてもらおうじゃないか。」
「先生、失礼なこというなよ、俺たちは決して嘘や作り話はしないぞ。そんなことするのは人だけだよ。」
「まあそうかもね。兎に角始めてくれないか。」
「勝手な人だねー。
そうさなー、あれはじいさんが慢性腎症の末期で動けなくなっちまった時の最後の言葉だった。
じいさんは長い間代々木公園のホームレスと共に生活していたんだが、亡くなる前の2,3年は、やたらと喉が渇くと言って公園の水飲み場から離れることはなかったようだった。
そのせいか大量のおしっこもしていて、どこかがおかしいといつも言っていたんだ。少しずつだったが体重も減っていたようだ。
そんな様子をみていた近所に住む1人住まいのおばあさんが、自分のアパートの狭い部屋だったが、じいさんを連れて行ってくれたんだ。
おばあさんは生活保護を受けていたけど、自分の食費を浮かせて、じいさんにうまい魚を買ってきては世話をしてくれていたんだが、いよいよ食欲が無くなり、動けなくなって、見るに見かねて動物病院に相談に行ったんだ。
その名はブルジュアアニマルクリニック。とてもじいさんには似合わない名前だったな、そもそも。そこでの会話を思い出してみよう。」
「看護師さん、私はすぐ近くに住むものですけど、猫が弱っているのですが病院に連れていくことができません。お金はありませんが、往診で診ていただけませんか。」
「近くても往診料は掛かりますし、初診ですと検査や治療費で結構かかりますよ。何猫?血統書はありますか。診療できる応接間はありますか。初めての方は前金をいただきますよ。」
「気の強そうな看護師さんの話を聞いて、おばあさんは何も言えずにクリニックから出ていったんだ。
最低な奴らだ。何猫ってなんだ、飼い猫と野良猫意外になんて答えればいいんだ。」
「まあまあ石松さん、そう興奮しないで。
それでおばあさんどうしたんだ。」
「おおそうだった。おばあさんが落胆してアパートに帰ろうとしたとき、クリニックから若い先生が飛び出してきて、小声でおばあさんに言ったんだ。」
「僕が今晩診療が終ったら医院長に内緒で診に行ってあげますよ。お金ですか。お金のことは全く心配しなくていいですよ。」
「本当ですか、汚いアパートですよ、そこに見えていますが。台所と一部屋しかないですが、診察できますか。」
「あたりまえじゃないですか、どんなに狭くても、どんなに汚くても、関係ありませんよ、できる限りのことはしてあげましょうね。僕も頑張りますから。」
「ありがとう、先生様。夜待ってますね。」
「おお、そうきたか、そうこなきゃねー。いい物語になってきたねえ。」
「先生よ、俺が作り話をしているように聞こえるんだけど、その言い方、やめてくれないか。ノンフィクションだから。」
「そんなつもりはないさ。ノンフィクションだからこその感動さ。それで。」
「若い先生はかねてより医院長のやり方には不満だったらしいが、それはそれとして、彼は約束通りおばあさんのアパートを訪ねていった。」
「こんばんは、おばあちゃん、起きてますか。」
「ハイハイ、本当に来てくれたんだね。どうぞ汚いところだけど上がってください。そこのスリッパをお使いください。」
「中に入ると大柄ではあるが骨と皮だけになってしまったじいさん猫が、恐らくはおばさんがいつも使っている蒲団の中央に目だけ開いて倒れていた。下半身の部分には尿をしても汚れないように、人間用のおむつが敷かれていた。
経験の浅い若手の獣医師であったが、一目じいさんを見て、明日まで持ちそうもないと判断した。
それでも彼は、じいさんの体を時間をかけて丁寧に触診ってやつをして聴診器をじっくり聞いていた。体温を測り、優しくじいさんの体に毛布をかけて、綿花に水をたっぷりと浸し、じいさんの舌に一滴ずついつまでもたらしていた。じいさんはその水滴を確実に、満足げに、ゆっくりと飲み込んでいた。周囲にはそのゴックンという弱い音だけがリズミカルに響いていた。
これを治療と呼ぶには何とも情けないものであったが、じいさん猫と人間のおばあさんのお別れの背景としては完璧なまでの演出だったようだ。」
「石松さんよ、もういいよ、やめてくれ、情景が思い浮かんできて、涙が溢れそうだよ。
その若い先生、きっと立派な先生になってるだろうね。
最後にちょっと興味があるが、診療代はいくらだったんだ。」
「先生さんよ、そこ聞くかい、だから人間は信用できないな。貰うわけないだろ、タダですよ、ただ。
夜明け、じいさんを看取った先生は、おばあさんの作ったみそ汁と温かいご飯を御馳走になり、いつものようにブルジュアへ出勤していったよ。」
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